朝焼けの向こうへ/木曜日



 変わらず、雨は降り続けている。

 夜明け前の路地裏、濡れた路面に映る街灯と、水溜りに落ちた赤い花弁。

 長く続いた月の無い夜に、少女は立っている。


 出会ってから数日しか経っていない、だというのに彼にとって彼女は随分と身近で、離れ難い存在になってしまった。

 雨に濡れた背中、小さくひとりぼっちな憑き物祓い。

 その姿に感じる既視感や寂しさはきっと、彼の物ではなく、身の内に潜んだ怪物の物。


 だけれど彼は──林界達也りんかいたつやはどうしても、その感傷を他人事だと思えなかった。


 落とした視界、水溜りの中で血を吐いて潰れた憑き物がいる。

 黒く滲んだ水中で辛うじて息をして、漂う姿はまるで胎児のようだった。

 母を奪った人を呪ってここまで来た怪物。

 己の体を食い荒らした元凶を前に、達也は落ちついた顔でいる。

 先程まで渦巻いていた怒りも一度拳を振るったら何処かに行ってしまって、

 今は「もう最後なのだ」という確信にだけ、思考が囚われていた。


 視線を上げれば出会った時と同じ様に、

 信号待ちをするかの様な気軽さで、彼女は立っている。


 何時もの赤い傘が無いから、頭から足までずぶ濡れだ。

 有様としては達也も変わらなかったけれど、自分の事を気にする気にはなれなかったし。

 正直、そんな余裕も無く口を開く。

 ただ彼女と話したい、幹色の瞳を見たい、

 ただそれだけの衝動に達也は動かされる。


「黒羽さん、風邪ひいちゃうから……」

「……だから早く終わらせろって?意地悪ですね、私だって寂しいのになぁ」


 彼女は振り返らないまま笑った。

 不機嫌そうでかったるそうで、色んな事を知っているのにハンバーガーは知らない女の子。

 神様の生まれ変わりで人間では無くて、だけれど年相応に笑う、独りの憑き物祓い。


 達也が見れた彼女の一面なんてこれくらいで、これ以上は見れなかった。

 いや、見せてはくれなかったと言った方が正しいんだろうか。

 落ちる雨の隙間で、彼女は振り返る。

 暗い夜の中でも綺麗な瞳、少し潤んでいた気がしたけど、瞬きの後に分からなくなる。

 今も昔も変わらずにこの世を見つめる小さな神様は、慈愛のこもった笑みを浮かべて言った。


「今からその子を祓います。

 ……今まで本当にお疲れ様でした」


 笑顔で告げられた最後さようならに達也は黙って頷いた。

 泣き顔だけは最後まで、見れず終いだ。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 牧藤黒羽まきとうくろばにとって、祓いは別れと同義である。

 憑き物──特に顔持ちに憑かれた人物の前へ現れる運命、もっと言えば現象である彼女は、自分を人物から憑き物を祓った後、此方には残れない。


 消えるのだ、綺麗さっぱり。

 記憶も関わりも何もかも。


 そうしてまた黒羽は此方現世から彼方黄泉に戻って、誰かにまで待ち続ける。

 場合によっては時系列も世界線も超えて、憑き物を祓う為に現れる──それが黒羽が父親を見殺して憑き物祓いになってから思い出した使命であり、生き方だ。


 それを悲しいとは思わない。

 今更神を捨てて人になろうなんて思わないし、人の生にも興味は無い。

 母として果たすべき事を成す、我が子を迎えに行って諭して、叱って。

 そうして人類を守る、惑星のバランスを保つ。

 当然の責任だ、自分はこの惑星の神で、生命を生み出した存在で、それ以外の生き方を欲しいとも思わない。


 思うとしたら、たった一つだけ。


 目の前に立つ青年、身体年齢的には年上で、愛すべき人類種の一人。

 今日まで体の中を蝕まれながら生き残ってくれた、ちょっと特殊な体質だけれど、

 平凡な人、憑き物祓いである自分を「黒羽」と扱う人。


 この人には覚えていて貰いたいなんて、辛うじてあった少女の残滓は考えていた。


 このまま祓いを実行すれば、彼はこの五日間を忘れるだろう。

 黒羽と過ごした時間も経験も無かった事になって、何事も無く自分の家で目覚めて、日常へと戻っていくはずだ。

 けれど彼に、どうしても覚えていてほしいなら、一つだけ方法がある。

 今まで黒羽がやらなかった事。

 ずっと意図的に避けていた、ただ一言を口に出すだけ。


「僕の名前を呼んでよ、黒羽さん」


 雨粒が踊る路面アスファルトを見つめて思案していた黒羽に、達也は思いついた様に言った。

 思わず顔を上げれば、呑気な笑顔。

 気弱そうな瞳と見つめ合う。


「結局、一度も呼んでくれなかったでしょ?

 これでお別れになるなら、最後にさ」


 多分彼の言葉には深い意味は無くて、言った通りの意味なんだろう。

 だから黒羽は後ろ手に組んだ手を気付かれないように握り締める。


 ──私は私の在り方を嫌なものとは思わないけど、この人が覚えていてくれたなら。

 何時になれば終わるのか分からない祓いの中で、色んな人に忘れられても。


 は私を覚えているんだと、また会うことが出来るかもしれないと、そう思うことが出来たなら、どれだけの救いになるか。


 そんな風に考える自分の純真弱さを、


「いいえ。貴方の名前は呼びません。

 私達はこれっきりで、二度と会う事はありません」


 黒羽は満面の笑顔で、ぶった斬った。



 達也は黒羽の言葉に驚いてから、微笑みを浮かべた、まるで全てを察した様だった。

 やっぱりこの人間くんは物分かりが良すぎるなと思いながら、それに感謝する。


 こういう人が居てくれたという事実が残ればそれで十分なんだ、本当に。

 黒羽は根っから嘘がつけなくて、一度決めた事は曲げずに後悔もしない神様なので。


 私の仕事も役割も最後まで、自分の力で完遂する。

 その途中で出会った小さな癒しが、黒羽にとっての達也だった。


「それでは最後の仕上げといきましょう。

 本当はこういうの恥ずかしいから嫌なんですが、折角ノートに書き連ねたので」




 後ろに組んでいた手を解いて、前に持ってくる。

 体の中に溜めに溜めた力に集中する、体を濡らす雨は何時でも黒羽の味方だ、誰かの目には惨く映っても、黒羽にとっては己の内を流れる血潮に等しい。


「神話って大体が創作ですけど、それを信じる人が一人でもいるなら力を持つんですよ。

 だから色んな所から太陽の神様の名前を借りました……歌を歌うようなものです」


 両腕を振り払う、解き放たれた力が雨粒を伴い緑に染まる。

 巻き起こったのは木の葉を揺らすそよ風だった、頬を撫でる微風に懐かしい土の香りが混ざる。

 黒羽を中心にして、水溜りの中で大樹が葉をしならせ。


「雨を終わらせます。ではあれ──」





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ありもしない緑が反射する。


 次の瞬間、黒羽の声に「祓い」が乗った。

 どうしてそう思ったのかは、達也自身にもわからないが、高らかに語られる言葉に乗って、むせ返るほどの緑の匂いがやってくる。

 黒羽の周囲で雨粒と風が踊り、緑を映し込んだまま達也に降り注いだ。


「 アマテラスが誇り、アポロンが謳い、ラーが轟かせ、シャマシュが導く。

 人の世に巣食うもの、人の世を救うもの。

 未知なる者は万来に暴かれ、生ある者は平等に死ぬ、その流れを司る者 」



 黒羽の声が雨粒の中で反響する、眩暈がするほどの深緑は、かつての大樹を思わせた。

 達也の中で憑き物が叫ぶ。

 ──許せないのだ、許したくないのだ。

 叫びは慟哭となって達也の体から溢れ出た、それすら包み込む様に緑は舞い続ける。


「 我が名は神聖樹、生命の始まりにして遍く神話の終着点。

 母の腕へと帰りなさい、哀れで愛しい私の枝葉」



 恐ろしい怪物の叫びが赤子の泣き声へと返って行く。

 存在感も異物感も小さく薄れていって、残ったのは泣き続ける子どもだけだった。

 人に母を奪われた子ども。

 ひとりぼっちで放り出されて、帰り道を無くした子ども。


 達也は泣く子を見て、仕方ないなと溜息を吐く。

 内臓も脳もずたずたにされたし何度も死に掛けたし、随分人の体で暴れまくってくれた様だけどもう良い。

 目に見えて子どもなのが分かると、怒る気にもなれないし、もう殴ったから気は済んだ、それに。


 人に対して怒る権利が、この子にはあった。

 人を恨み憎む理由が、この子にはあった。


 達也一人が痛め付けられた所で、何の解決にもならないだろう、償うにも足りない。

 自らの最期を自然の摂理だと、彼女は思っているようだけれど。


 許せないのだと泣く子の気持ちが、達也は少しだけ分かってしまう。

 だけどそんなのは達也の勝手な思考だから飲み込んだ、人類である彼には自然この子に寄り添う資格が無い。


 だから願うのは一つだけ、どうか今は。

 寂しがりやな彼女のもとへ、帰ってあげて欲しいと。

 達也は一つ、子どもの背中を押す。


 大丈夫、一歩を踏み出せば、後は雨と緑が導いてくれるから。


 子どもは大泣きしながら、達也の体を抜け出て、大好きな母の元へと帰って行った。


 どうしてと泣きながら、抗いきれぬ愛の元へと帰って行った。


 走り去る子の向こう側、枝を広げた神聖樹が見える。

 遠い日の残滓に目を奪われながら、達也は意識を落とす前に呟く──。


「ありがとう、楽しかったね。黒羽さん」


 瞼の裏で、赤い傘が回った気がした。





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