牧藤黒羽/水曜日 夕方


 初めて憑き物を祓った時、父は褒めてくれた。

 撫でてくれる手は、変色して紫色になって、人体だとは思えない。


 手遅れだ、そう思って泣き叫んだ。

 どれだけ綺麗に憑き物を祓っても、父の死を止めることはもう出来ない。

 自分が手をこまねいたから、何もかもが遅すぎたから、この人は死ぬ。


 なのに父は、よくやった、頑張ったねと繰り返した、死ぬ事を自覚していながら、

 目の前で泣く娘の涙を止める事を優先した。


 父は娘の髪を、惜しむように撫で、

 やがて手が離れる。

 力が抜けてずり落ちた手は、動かなくなった。


 離れていく温もりに泣き叫ぶ、いやだ、離さないで、そばにいて。

 絶叫を前に、父は何も答えなかった。


 父の体が、異様な音を立てて様変わりしていく。

 父の背から枝が伸び、葉が繁って胴体は幹になる。


 背におぶさるのが好きだった、母が死んでしまってから、

 寂しい時はいつも手を握って笑いかけてくれた。


 大好きな父の顔も飲み込んで、巨木が目の前に現れる。

 枝の足らない幹は、自分の髪と同じ色。


 何年も、ただの人間として生きて来た。

 普通の少女と同じ様に父を慕い、幸せな日々を過ごし、

 自分の役割を知ろうともせず。


 前世の記憶も、特別な力も、取り戻すのが遅すぎて、何の役にも立たなかった。

 自分が人外である事を認めて、

 過去に向き合ってさえいれば。


 父を侵食したの事を、

 もっと早くに祓って、父を助けられたのに。


 マンションの一室、父と過ごした2LDK。

 雨音が耳に届いて、声をあげて泣く。


 牧藤黒羽はその日、父を殺した。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 こうも雨が続くと、昔の事を思い出してしまう。

 黒羽にとって雨は歓迎すべきもの、

 それは祓いの相性的にでもあるが、雨音は落ちつくし、窓を濡らす水滴を眺めるのも、

 傘をさして外を歩くのも、嫌いじゃないから。


 ソファが軋む音がして、黒羽は顔を上げた。

 向かいのソファ、脱力して眠っていた体が動いている。

 投げ出されていた右腕が動き、頭に当てられたのを見て、黒羽は立ち上がった。


 彼は、黒羽の話を聞いた後、痛みに気絶してしまい、ずっと眠っていた。

 もう二度と起きないかもなんて思っていた黒羽は、歯を食いしばる彼の傍に膝をつく。


 手を額に当てて、痛みを遠ざけてやれば、

 一気に体から力を抜いて、彼は黒羽を見た。

 瞳は朧げながら、まだ生きる事を諦めていない。

 その事にほっとして、黒羽も力を抜いた。



「……今、何曜日?」

「水曜日です、もう夕方ですけれど。

 あれから丸一日眠っていましたよ」


 黒羽の言葉に目を見開いて、体を起こそうとしたが、上手く力が入らないのだろう、

 動けない彼の、少し上がった肩を落ち着かせるように、黒羽はぽんと叩く。


「僕、何もしなかった?夜とか」

「一度深夜に起き上がりかけたのをぶん殴って鎮圧しましたけど、それだけです」


 黒羽は得意げに彼に対する加害を白状したが、相手は何故か安心した顔で瞳を閉じてしまった。

 彼にとっては殴られた事よりも、

 自分が彼女に危害を加えなくて済んだ事の方が重要だなんて、黒羽は知らない。


 また眠り始めた彼を見て、

 黒羽は寂しくなって袖を引っ張ってみたけれど、反応は返って来なかった。

 今度こそもう、起きないかもしれないなと思う。


 浅い呼吸を繰り返し汗を滲ませて耐え忍ぶ姿は、どう考えても限界だった。


 このままいけば彼は死に、亡骸すらも異形と化すだろう。いつかの父と同じ様に。

 通常、憑き物に憑かれた人は皆死ぬか自殺するか殺し合うかだが、

 顔持ちに憑かれた人間は例外的に、

 亡骸を巨木へと変える。


 枝葉の中でも指折りな、黒羽を愛する子どもである顔持ち達。

 何よりも人を恨み、呪い憎しむ自然霊。


 どうして分かってくれないの。

 雨の降る中そう言われたのを思い出して、

 黒羽は長い息を吐いた。


 分かってやる訳には、いかないのだ。

 人を守る神として、世界のバランスを保つ存在として、何よりも彼らの母親として。


 ──前世の自分は、自らの死を受け入れて、

 仇討ちなど望んでいなかったのだから。


 今日の夜、祓い切る事を決意して、

 黒羽は立ち上がった。



 黒羽は彼の様子を観察して、時折頭に手を置いて痛みを遠ざけてやりながら、

 ノートを広げて何かを書き込んでいた。


 書いていたのは、数々の神話から取られた

「太陽」を司る神々の名前。


 顔持ちを祓うための準備、その最後の仕上げが「これ」だった。

 口の中でもごもごと神の名前を読み上げる、肝心な時に噛まない為に。


 アポロンにラーにアマテラス、

 とにかく思い付く限りの太陽神を書き連ねて、黒羽はちびりとコーヒーを飲んだ。


 缶コーヒーは、父との思い出。

 医者だったあの人は、忙しい合間に出来た貴重な時間を、全て黒羽の為に使った。

 何時もふとした瞬間に台所から二つ、缶を持って来て言うのだ。


 ──黒羽も飲む?いやいや、ブラックは苦いからやめておきなさい。いつも頑張るきみには、甘いのをあげようね。


 思い出すと同時、黒羽は台所に目を向ける。

 二度と使われる事も無い台所は、あの日のまま調理器具が並んでいるだけ。

 缶コーヒーを飲み続けるのは、父を思い出す為と、代償行為に近しい。

 人を捨てた黒羽にとって、

 睡眠や食事は娯楽でしか無く、生きる為に必要な行為では無いのだから。


 ああ、でも。


「……はんばーがーは例外か」


 思わず声に出た呟きに、黒羽は苦笑した。

 父と暮らしてた時だって食べた事が無かったものを、今更食べる事になるなんて。


 視線を上げれば彼がいる。

 彼はまだ息をしてくれていて、懸命に生きようと足掻いていた。

 黒羽の言葉を信じて、自分の命を諦めないでくれる人。


「楽しかったですよ、貴方といるの」


 暗くなり始めた部屋で、黒羽は穏やかに微笑む。

 声に出したのは本心だった。

 眠る彼に聞こえてはいないだろうなと思うけど、別に良いのだそれで。

 言葉にして、言ってみただけだから。



 夕方が過ぎ去り、部屋に暗がりが広がって、満ちる。

 雨の降る街に夜が来た。


 黒羽はノートを閉じる。

 恐らく「来る」だろうという予感があった。

 視線の先には彼がいて、

 眠る体の中から蠢く気配。


 瞬間、達也の右腕がびくりと震えた。

 起き上がれもしないはずの体が動き出す。

 達也を殺す為に、動き出す。


 対して、黒羽は立ち上がって深呼吸、肺に満ちる空気の邪悪さに震える、武者震いだ。

 真っ暗な目に空いた穴、がらんどうが、黒羽を凝視する。

 歯をカチカチと鳴らして、憑き物は言った。


「かあ、さん」


 黒羽は黙って、見つめ返す。

 厳しい色をした瞳に、憑き物は母からの無理解を悟った。


 より多くを殺す為に立ち上がる、

 死に掛けの人間の体は、生きるのを諦めるどころか、

 何時にも増して心臓を動かしていた。

 気に入らない、気に入らない。

 憎たらしい、悍ましい。


 浅ましい人間の事も。

 理解してくれない母親の事も、嫌いだ。


 憎悪は渦を巻いて、憑き物は本能のままに前へ突貫した。

 ソファも机も蹴散らして、黒羽に向かって突っ込んでいく。


 黒羽は憑き物を迎え撃った。

 常人ならば考えられ無いほどの力で掴み掛かってくる手を捻りあげる。

 体の持ち主には悪いと思ったが、彼なら許してくれる気がするから手加減しない。


「とっても悪い子、いけない子。

 お母さんの言いつけは守りましょうね」


 脚を払って転ばせて、襟首を掴み上げ、

 体格差をもろともせずに、男の体を背後の窓へとぶん投げた。


 憑き物は宙に投げ出されて落下していく。

 追って舞い散る硝子と雨粒。


 彼方と此方の狭間に浮かんだ透明に、

 ──ありもしない緑が反射する。


 月の光も無い、雨に打たれた夜の街。

 誰も知らない夜だから、誰が死んだって問題では無い。

 だけれどそれを、憑き物祓いが許さない。


「仕方ないから、祓ってみせます」



 黒羽は不敵に笑って、腕を振り抜く。

 憑き物と共に、黒羽は夜へと躍り出た。



 


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