第53話 6人目の男

(これまでのあらすじ……)


 郡長に面会した住民たちは、上申書を提出して負担金納付拒否を宣言しました。法律の盲点を突いた住民側に郡役所側は愕然とします。しかし、住民側圧勝かと思われた次の瞬間、和田書記の反撃が始まります。和田は巡査隊を投入し住民全員を一斉検挙しようとします。周囲を包囲されてしまった住民側は絶体絶命のピンチに陥ります。


 **********


 両脇から20人近い巡査と役人に挟みこまれ、安達久右衛門たち住民側一行が巡査たちと睨み合う中、じりじりと両者の間合いが詰まります。


 ここで住民代表が一網打尽にされてしまうか!絶体絶命に思われた……と、その時でした。


「双方!まてい!」


 佐藤伊之吉の上申から、ずっと沈黙を守っていた郡書記筆頭の留守永秀が、講堂の中で、割れんばかりの大音声で吠えました。


 それまで、勝ち誇っていた観のある議長役の和田徹書記が、突然の留守の制止に、驚いたように振り返ります。


 和田だけではありません、三浦浅吉、石川理兵衛、村形宇左衛門といった住民側の面々も、身構えたままながら、何事が起きたのかと不思議そうにことの成り行きを見守っています。


 すると、先程の大音声とは打って変わって、留守が静かな声で和田に命じます。


「和田くん、巡査たちを引かせたまえ」


 予想外の命令に、ますます和田は混乱します。


「なっ!なぜです!」


 和田には理解できませんでした。今までも住民たちに対して強硬な対策を唱え続けてきた留守が、よもや自分の強行策を押し留めるとは、和田には考えられませんでした。


 しかし、その和田の問いには答えぬまま、留守は住民側に対して答えました。


「住民上申の儀、あい承った!」


 その瞬間、和田ならずとも、その場にいた郡役所側の誰もが、その留守の言葉に耳を疑いました。和田は呆然として留守を見つめたままです。


 しかし、留守は顔色も変えず、平然とした声で淡々と話しました。


「住民側の要望はあらまし承った。上申の内容を細かく吟味した上にて、後日、改めて公式の回答を出すことを約束しよう。今日のところはそれで良いな」


 突然のどんでん返しに、浅吉と理兵衛がぽかんとして立ちすくみます。


「へ?……俺だ、村さ帰てしぇえの?」


 浅吉の問いに答えたつもりではないでしょうが、結果的に留守の言葉は浅吉の疑問への答えになりました。


「うむ、君たちの上申書は確かに受理した。他に付け足すことがなければ、……当方にも取り立てて、用事はないが?」


 急転直下、唐突に会合は終了したのでした。


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 留守の英断で、郡役所内での騒動は未発に終わりました。そして、立ち尽くす和田に代わり、留守の直接の命令で、巡査隊はすべて退出させられました。


 巡査隊の退出を確認して、住民側6名が立ち上がり、テーブルの前に並んで郡役所側に一礼しました。


 いまだ呆然自失の状態のままの五條為栄郡長はさておいて、留守が軽く黙礼で住民側に返礼します。


 そのまま、久右衛門たちが退出しようと動き始めた時、最後に留守が久右衛門に声をかけました。


「今日は高楯から、遠路、足を運んでいただきご苦労であった。山野辺の会所には、わたしも何度か行ったが、高楯村はまだ行ったことがない……」


 久右衛門が、ゆっくりと留守の方向へ顔を向けると、留守はまるで探るような目付きで、久右衛門をじっと見つめながら話しを続けます。


「……高楯村は確か、小鶴沢川を渡って行かねばならんのに苦労したと、出張した者から聞いたように思うが……」


 唐突な留守の問いかけが久右衛門によせられました。そして、その留守の言葉に、一瞬、眉をピクリとさせた久右衛門でしたが、すぐに常と変わらぬ風で、穏やかに言葉を返しました。


「いえ、ごく小さな川ですので、ご心配には及びませぬ。留守様のお越しの際は、村を挙げて喜んでお迎えさせていただきます」


 久右衛門の返事に、留守はこの会議で初めて見せる笑顔で応えました。


「おお、そうか、濡れずに済むならば重畳、その折りを楽しみにしよう」


 そして、留守はその笑顔のまま、柔らかい口調で話しを続けました。


「時に、本日は、郡住民を代表して来られた方々に対して、いささか非礼な点もあったかも知れぬ。だが、郡政を思っての熱意が溢れすぎた者もいたようだ。水に流してくれればありがたい」


 すると、留守のその言葉に、意外なところから反応が表れました。宇左衛門の隣席で、ずっと着席したまま動きのなかった6人目の住民です。


「いや、お言葉ですが、上申に参った住民を遇するに巡査を以て当たり、謂われなき嫌疑で検束をはからんとする、これを無理無体、官の横暴と言わずして、何を……」


 そこまで言った時、久右衛門が右手でこれを制し、自ら大声で言葉をかぶせます。


「はてさて、何かございましたでしょうか。わたくしにはとんと……」


 大きく首を傾げながら久右衛門が言葉を繋ぎます。


「郡長閣下始め皆様方の郡住民を思ってのご苦労、ご心労、察するにあまりあります。此度の上申も何卒お聞き届けいただきたく、宜しくお願い申し上げます」


 久右衛門の言葉に合わせて、再び、深々と住民側が頭を下げました。


「うむ、そうか。相分かった。……本日は、遠路、ご苦労!」


 満足気に頷いた留守は、6人目の住人を一瞥します。その男は、やや不満げそうにはしていましたが、特に逆らう風でもなく、皆に合わせて頭を下げていました。


 そして、波乱含みの要素を抱えたまま、住民による申し立ては幕を閉じたのでした。


 **********


「留守書記!」


 自分のデスクに戻った留守のところへ、憤りを隠せない体の和田がやって来たのは、すぐあとのことでした。


 留守は、和田が来るのはとうに承知していた様子で、背もたれに身体を預け、ニヤニヤしながら和田を迎えます。


「そう、怒るな、和田。……お前の切り返しは見事だった。一瞬は呆然としたようだったが、よく立て直した。あれで良い」


 和田は納得の行かない体で聞き返します。


「ならば、なにゆえ!」


 留守はそれには答えず、逆に聞き返します。


「一番、左端にいた男、あれをどう見た?」


 和田は記憶をたどりながら、ポツポツと語ります。


「帰れるとなって、最後に留守書記へ食ってかかった奴ですね。口は達者なようですが、他の者が手向かいしようとしたのに、あの者だけは腰を抜かしたまま、ずっと座って動きもしなかった」


 和田の印象としては、今日の住民側代表の中でも注意するに値しない者にしか見えませんでした。だからこそ、留守の注目に意外ささえ感じたのでした。


「いや、あれは腰を抜かしていたんじゃないよ。仔細に我々の様子をうかがっていたのだ」


「え?どういうことです?」


 留守の言葉に疑問を呈した和田でしたが、次の留守の答えは和田を驚かせずにはおきませんでした。


 留守は悪戯っぽい笑みを浮かべて応えます。


「あれは……新聞屋だ……」


「え!」


 和田は驚きました。つい先日、県庁で高木課長や鬼塚警部から、その新聞の存在に頭を悩ませていると聞いたばかりでしたのに、その可能性に考えも及びませんでした。


「住民共も手回しが良い、もし、我々が6人を捕らえていたら、外から様子を伺っている仲間が山形に走り、新聞に良いように書き立てられることだろう」


 実際のところ、留守は和田の行動を支持していたのです。しかし、その場に危険な要素を察知し、周囲をうかがう6人目の男の存在に気付いたのでした。


「なんと!なぜ留守書記にはそれがわかったのですか!」


 留守は笑って右腕を和田に突き出し、手のひらを開いて話します。


「手を見れば分かる、あれは土をいじる百姓の手ではない。それに、野良仕事ばかりの百姓にしては色が白過ぎではなかったかな?」


 介添人に至るまで、留守は住人側の全員の観察も怠らなかったのです。和田は、改めて留守の観察力と判断力に感心してしまいました。


 しかし、留守の本心は一体、那辺にありや?まさか、住民の上申書をそのまま認めるとは、和田にも、到底、思えません。


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(史実解説)


 三島県政の新聞政策は言論弾圧のひと言に尽きます。三島は山形新聞や東北新報など7社8件の新聞社および編集長を「県令讒謗」の罪で裁判所に告訴、そのことごとくに勝訴しました。その訴訟の根拠になった法律が明治8年太政官布告第110号として公布された讒謗律でした。この法律は、明治初期の日本における名誉毀損に対する処罰を定めた法律で、新聞・書籍等の著作物を通じて他人を毀損することに対する罰を定めたものです。


 この法律の問題点の第一は、名誉毀損の対象が天皇・皇室・官吏に対するもので、一般国民を対象とはしていないことです。そして、問題点の第二が、名誉毀損の内容が事実であるかどうかを問わないことです。つまり、官吏の圧政や暴力を批判した場合、たとえ官吏の行為が違法行為であることが明白であっても、その批判者は名誉毀損をしたとして讒謗の罪に問われるという、まことに不思議な法律でした。書籍や新聞に活字として証拠が厳然と残っていますから、官吏側には百%勝訴を保証された非常に都合の良い法律です。


 しかし、明治政府側はこの法律でも飽きたらず、国民の目だけではなく、耳に触れることさえ忌避して、明治13年には集会条例を制定し、文字ならぬ演説さえも規制していきました。


 **********


(おわりに)


 絶体絶命のピンチを救ったのは、意外にも郡役所筆頭書記の留守でした。留守は久右衛門と親しく言葉を交わし住民代表を見送ります。忿懣やる方ない和田でしたが、留守から6番目の男の正体を聞かされ愕然とします。

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