第44話 伊之吉の使い(改)
(これまでのあらすじ……)
東村山郡役所と山形県庁が善後策に腐心する中、峰一郎は以前と変わらず密使を勤めていました。一方、今上陛下の山形行幸決定の成果を持ちかえって県庁に戻りついた三島通庸山形県令に、東村山郡住民の不穏な状況についての報告が伝えられます。三島は、住民たちの目的が百姓一揆ではなく、郡住民挙げての集団訴訟にあることを喝破し、次々に高木秀明土木課長や鬼塚綱正警部へ指示をくだします。しかし、危機意識に欠ける当の東村山郡長五條為栄は相も変わらず呑気に構えているのでした。
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留守永秀(るす・ながひで)郡書記は実務派官僚らしく、すぐに頭を切り替えます。終わったことに愚痴っても始まりません。とにかく、今は覿面の作業に全力を尽くすのみです。
留守は自ら大急ぎで督促状の文案を作成した後、周辺巡回に行かず残っている全書記・職員を挙げて、夜通しで督促状の作成を行いました。
そして、9月30日の早朝、休む間もなく、全職員が手分けをして、郡内全町村に向けて督促状を発出しました。
『……今において上納これ無きは不都合に付、至急上納すべし』
と最後を締め括ったその督促状は、30日の内に全村へ出されました。その使者たちを見送りながら、留守はいよいよ緊張感に包まれるのでした。
この9月30日の督促状発出については記録にも残っていますが、この5日間に何が起きていたかについての明確な資料はありません。しかし、その記録にないことが、かえって、官側の逡巡を示しており、東村山郡役所や山形県庁が住民の負担金上納の遅延に対して苦慮していたであろうことが窺えます。
(早ければ明日、遅くとも明後日には、金を出すか、それともあきらめて蜂起するか、住民たちの旗幟も鮮明になるだろう。そこからが本当の勝負だ)
本来、地方行政当局者にとって暴動は自らの統治能力の欠如をさらすものです。
しかし、この時、彼らに与えられていた最優先の使命は、万難を廃して関山新道工事を遂行することでした。
そのためであれば、住民の抵抗を力で排除することに、留守は何らの躊躇いも痛痒も感じるものではありませんでした。
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その翌日、10月1日、峰一郎はこの日もまた天童(てんどう)村に使いしました。いよいよ、住民側からの行動開始の時期が迫って来たようであることが、安達久右衛門(あだち・きゅうえもん)や佐藤伊之吉(さとう・いのきち)の顔色からも峰一郎には分かってきました。
天童村と寺津(てらづ)村を結ぶ細道を峰一郎が歩いていきます。峰一郎は、今にも駆け出したいような、はやる気持ちを抑えて、早足で足を前に運びます。
そこへ、峰一郎の進む先から、ひとりの女の子が駆けて来るのが見えました。梅です。
「峰一郎さ~ん! 」
梅は、はやる気持ちを抑えられないかのように、手を振りながら、はや、駆け足で近づいてきます。
一瞬、気恥ずかしい思いの峰一郎でしたが、心の中の嬉しさはどうしようもありません。
「梅ちゃん、ひとりで来たんだが、危ないべ」
峰一郎は梅のことを心配して、ついきつく叱ってしまいました。でも、梅には峰一郎に会えた喜びで、峰一郎の小言までもが嬉しく感じます。
「んだって、峰一郎さんが来る、ってお父ちゃんから聞いだら、もう、待っていらんねっけもの」
そう言うと、梅は嬉しそうに峰一郎の後ろを歩きはじめました。
峰一郎もまた、そんな梅のことが気になって仕方がありません。これが愛しいという気持ちなのか……、自分の気持ちに戸惑う峰一郎でした。
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佐藤家に着くと、安達久右衛門の知らせを待ち構えていた伊之吉が喜んで峰一郎を迎えました。
「……うむうむ……ほうが、今日中に出来るってが、……んだが、よし、これでうまぐいぐ、時間稼ぎが間に合ったな」
一体、何が今日で出来るのか、時間稼ぎとはどういうことか、その意味さえ分からない峰一郎でしたが、伊之吉は、その手紙を読んでことのほか嬉しそうに声を上げました。
「こっちの準備はもうちぇっとかかるべげんと、仕方ねえ、あるだげでやってみっべ、それだげのはもう集まりそうだべがらな」
伊之吉はことのほか機嫌良さそうで、もはや逸る気持ちを押さえられないかのように、峰一郎にも聞こえる独り言をつぶやきます。
「郡役所の奴ら、巡査ばちぇで(巡査を連れて)、毎日みだく、脅しに来やがるし、うぢの納戸も小屋も、皆、あざいでぐ。かなり、イライラしったみだいだべ」
伊之吉は笑って言いますが、つい口に出して言わざるを得ないほど、実は心中穏やかならざるものがあるのかもしれません。
そして、峰一郎には何かは分からぬながら、いよいよ待つ時期が終わり、立ち上がる時が来たようです。その喜びと緊張が伊之吉の心を急かせて、不思議と饒舌にさせたもののようです。
天童村との往来をしていた峰一郎も、何度か役人を見かけましたし、村全体が不思議な緊張感に覆われている様子がありありと感じ取れました。
峰一郎自身もかなり緊張を強いられている自覚がありましたが、そんな時ほど、梅とふたりでいることがとても救われ安心するのでした。
「峰一郎、決起だば間もなぐだで、もひとづ、俺の使いば頼まっでけらんねが」
いつもとは違い、珍しく、伊之吉から村内の使いを頼んできました。
「へえ、喜んで、どさでも(どこにでも)行ぐっす」
峰一郎は胸を張って伊之吉の言葉に応えました。
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伊之吉に使いを頼まれて峰一郎が向かった先は、伊之吉の家からさほど離れてはいない伊之吉の田畑を耕作している小作人の家でした。
佐藤家の小作人ですから、娘の梅もその住まいは知っています。今回、峰一郎は梅の案内を受け、梅の後をついていきます。
「峰一郎さん、こっち、こっち! 」
今までは峰一郎の後ろばかりを歩いていた梅でしたが、この日の梅は、いつも以上に楽しそうに前に立って峰一郎を案内しています。
いつもは峰一郎の後ろ姿ばかりを見ていましたが、この日は、梅が振り向けばそこに峰一郎の顔が見えます。それだけで、梅には胸が浮き立つような思いがするのです。
「うん」
峰一郎も梅の姿を見ながら歩くことに、やや気恥ずかしさを感じながら、でも、その照れ隠しなのか、無理に表情をかたくしつつ、梅の後ろをついていくのでした。
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梅に案内された先は、見晴らしの良い畑の中にポツンとある、みすぼらしい一軒家でした。
峰一郎は、この家に使いを頼まれた理由がよく分かりました。畑の中の一軒家で見晴らしが良く、誰も聞き耳を立ててこの家に近づくことは叶いません。
……しかし、家というには、控え目に言っても、かなり質素な作りで、ほとんど物置小屋に近い感じをうけました。
もっとも、高楯(たかだて)村の小作人の家も似たり寄ったりですから、峰一郎も特に抵抗感もなく、当たり前の気持ちで中に入ります。
やや固くがたつく引き戸を開けて足を踏み入れると、中は半分が土間になっています。奥の半分は土間よりも少し高い段差をつけた板敷で、真ん中に囲炉裏がくりぬいてあります。
その囲炉裏の脇に、この家の家主らしき人物があぐらをかいて座っていました。
その人物は、峰一郎を待ちかねていたと見えて、入口の峰一郎を見かけるや、相好を崩して大きく手招きをします。
「おお! おめぇが、峰一郎が、よぐ来た! こっちゃ、来い! 」
つぎはぎのあるみすぼらしい野良着を着た痩身の男が峰一郎に声をかけます。どうやら、この人物がこの家の主人のようです。
それにしても、小作人にしては横柄な口のききようです。旦那筋の家の娘である梅が峰一郎の後ろに付いて来ているのに、なぜか梅の姿はまったく眼中にないような様子です。
「みねいちろ、さん……」
視線をその男に向けたまま、梅が警戒するように峰一郎の腕にしがみつきます。
どうやら、その男は、梅がよく知っている小作人とは違う人物のようです。一体、何者か? 峰一郎も身構えつつ、男を睨みつけます。
一方、それと察したその男が、梅や峰一郎の様子から事情が飲み込めたかのように苦笑しました。
「あぁ、おぬしは伊之吉の娘ごか、そうか、驚かせてすまなかったの。高楯村の小僧の話を聞いて、一度、会ってみたくてな。……伊之吉め、何も言わなんだか、あの悪戯者が! 」
どうやらその人物は、その家の小作人になりすましただけのまったくの別人のようでした。歳の頃は30代、峰一郎の父・安達久や伊之吉と同じくらいの歳恰好に見えます。
しかし、言葉使いが丁寧で訛りも少なく、峰一郎にはとても同じ百姓とは感じられませんでした。
一体、この人物は何者か? 峰一郎の疑念は深まります。
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(おわりに)
明治13年9月30日、東村山郡筆頭郡書記の留守永秀は、直ちに東村山郡内全村に対して負担金納付の督促状を発出しました。一方、その翌日、峰一郎の姿は再び天童村に現れ、梅も峰一郎を迎えに来たのでした。高楯村の安達久右衛門の便りに喜ぶ佐藤伊之吉は、いよいよ決起の時期が近くなったとて、更に峰一郎に村内への使いを頼みます。そして、梅の案内で指定された場所に出向いた峰一郎は、そこで怪しげな人物と接触しました。果たしてその謎の人物は何者か。
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