第27話 別段建議書(改3)

(これまでのあらすじ……)


 関山新道開削工事が本格的に始動する中、安達峰一郎ら少年たちを一人前の男衆と判断した高楯村総代の安達久右衛門は、少年たちを自邸に集め、関山新道問題のことの起こりから語り始めます。伊藤博文内務卿への陳情活動の裏側には三島通庸県令の命を受けた北村山郡の中山高明郡長の恣意的な姿が仄見えるのでした。そして、四郡連合会での話し合いは、西村山郡選出県議西川耕作議長主導のもと、北村山郡と西村山郡のペースで進められたのでした。


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 関山(せきやま)新道開削について住民たちが話し合う四郡連合会でキャスティングボードを握っていたのは議長と副議長でした。


 意見が真っ二つとなり議論が伯仲した際に議長調停が入り、それでも話しがまとまらぬ場合に議長裁定という形で最終決定がなされます。四郡連合会の話し合いでは、しばしばこの手の議長のリーダーシップが発揮されました。


 議長が真に中立的な善意の第三者であれば、まったく問題はありません。むしろ、健全な話し合いと言えます。しかし、その実態は、議長・副議長ともに西郡選出の県議であり、完全な利害関係者でありました。


 議長の西川耕作(にしかわ・こうさく)は西郡の西里(にしざと)村出身で、西里村は紅花商人で栄える谷地(やち)地区の西側に所在しています。新道路線を天童(てんどう)ルートから谷地ルートに変更して恩恵の大きい、あからさまな利害関係を持っており、完全なお手盛りの議長裁定でした。


 この西川耕作議長は、天保13(1842)年生まれ、当時は30代後半の働き盛り、身長180センチ、体重97キロ、当時としてはかなりの堂々たる巨体で、更に、太い声での話しぶりは独特の風格があったといいます。


「この議長だば、体格もしぇぐて、声も迫力あっべす、押し出しも強ぐて、県会でも県の予算案どが課税方法どがさ随分と反対しったっけがら、東郡や南郡の委員の中さも期待する声があったんだげんとな……」


 聡い少年たちは、安達久右衛門(あだち・きゅうえもん)の思いを汲んで、先を走ります。


「結局は自分のどごさ道ば通らせて、そのくせ金は少しでも少なくしっだい、て事なんだべ」


「きたねえなあ! 」


 少年たちは忿懣やる方ない思いを吐露します。しかし、久右衛門の思いはちょっと違いました。


(俺たちもそう思った。しかし、北郡と西郡の連携があまりにも出来すぎだった。郡長を通して、最初から県側との約束が出来上がっていたのかもしれない。最初に天童地区を通過する案を提示して東郡や南郡を交渉の場に誘い、会議を始めるや、いきなり道筋を西郡の谷地地区通過案へと持っていく……)


 少年たちの激高した声を聴きつつ、久右衛門は腕を組んで瞑目していました。


(考えすぎかもしれんが、最初から実は西郡谷地地区通過案を県側と示し合わせていて、西郡の協力を取り付けていた、県側も西郡の紅花商人たちを取り込めると踏んだ、そう考えると納得がいく)


 いかに東郡や南郡にも商人が多いとはいえ、西郡の古くからの紅花商人のまとまった経済的な集団の力は、県側にとっても脅威であったことでしょう。ルートの一部変更の条件を呑んでそれが県側与党になるのであれば、県としても願ったりの状況です。


 確かに、いささか総延長距離が伸びたところで、紅花商人の経済圏をルートに取り込むことは、十分に経済上の利点が見込めると判断ができます。いかに商業活動が活発になりつつある天童地区といえども、全国に通用する山形県の特産品を推奨するのは県側としては当然の選択です。


 久右衛門は、確証がないことだけに口にこそしませんでしたが、心の中では、それはもはや確信に近いものがありました。


(しかし、北郡も西郡も、自分たちの生活を守るために必死なだけだ。それは、俺たちと同じだ。しかし、その百姓の必死な思いに、……そこに県がつけこんだ、……民と民を争わせて、自分たちは高みの見物、そういうことだろう……)


 久右衛門の思いは、少年たちにはまだ言えませんでした。しかし、それだけに、これからは県を相手に戦わねばならぬという悲壮な覚悟を胸に秘めているのでした。


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 そもそも、四郡連合会議長を務める西川耕作とは、どんな人物か?


 彼は、明治12年の第1回県会議員選挙からの議員で、県会議長も務め、県会でも民費軽減を強く要求し、鬼県令と言われた三島通庸(みしま・みちつね)の重税策に対する反対の旗頭と目されていました。


 しかし、民意で選ばれた議員であればこそ、有権者のために働くものです。裏を返せば自分の選挙区以外の地区との利害の衝突が見られた場合、自分の選挙区、つまり西郡の利益を優先することは至極当然のことでした。


 更に、この後、彼は県から西郡の郡長に任じられ、15年間という長期にわたり西村山郡の郡長として過ごします。一説に県当局が西川議長の攻勢を恐れて、うるさ型の彼を体よく県議から追い払ったものと地元には伝わります。


 しかし、県の出先機関の長として、県令が任免権を持つ郡長人事に、県政反対派の人物を任命することは絶対にあり得ません。まして、県の言うことを聞かない人物を長期間にわたり同じポストに置くことなど……。


 むしろ、このような事実経過は、既にこの関山新道問題の頃から、西川耕作県議と県庁側が裏で繋がっていたと見る方が自然であると思われます。


 現在では考えにくいかもしれないことですが、当時の紅花商人の経済力は、県で決めた関山新道のルート変更を可能にするほどの力がありました。


 江戸時代、伊達家仙台藩という大きい外様大名家の統制により十分に発達できなかった仙台商人に比べ、比較的小さい譜代大名家が点在する羽前国では商人の発達が目覚ましく、江戸時代から明治10年頃までの東北地方の中での経済力は、仙台よりも山形の方が大きかったようです。


 だからこそ、大久保利通が三島通庸を羽前国に送り込んだものと言えますし、真面目に山形遷都論を提議する意見さえも当時にはありました。


 また、だからこそ、ほとんど北郡のみの新道でありながら、西郡を通過させることで西郡の紅花商人の協力を引き出し、更には、裕福な商人の多い県庁所在地の南村山郡から資金を引き出させることを目論んだものと言えます。


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 議長決裁という切り札で反対意見を封殺するやり口に対する、少年たちの叫びや憤りの声に久右衛門が応えます。


「うむ、俺だもお前だと同ずぐ思た。んだがらて、おらだ東村山郡の委員だば最上川ば急いで下て地元の戸長さんださも連絡ば入れだ。楯岡では会議の後も夜なべして話し合いばして、俺だも山野辺村や天童村の戸長さんだど連絡ば取り合いながら知恵ば出し合って楯岡ば後押しすて、俺だは俺だの別の建議書ばこさえる事にした」


 少年たちは身を乗り出して、久右衛門の話を一言半句も聞き漏らすまいと、真剣な表情で聞いていました。


「自分だの都合だげで決めっだ北郡と西郡の決議さ反対して、出来るだげ時間稼ぎばしながら、ぎりぎりまでみんなで考えだ」


 子供たちの知らないところで、子供たちの父親たちも必死に考え、動き、話し合い、村の将来を考えて、村の人たちの生活や家計も考えて頑張っていたのでした。少年たちはそのことを初めて知りました。


「俺だのしゃね所で(俺たちの知らない所で)、親父だも必死に頑張ってだんだなぁ」


「んだ、ちっとも、しゃねっけ。俺だ、親父さ悪っけども、……でも、親父だばすげえど思う」


 少年たちは素直に父親たちの苦労を誇りに思い、自分たちの短絡的な行動を恥ずかしく思うのでした。


「……んだげんと、東郡だげでだば、裏でつながった北郡と西郡さはかなわね。んだがら、楯岡(たておか)村の会議さ出っだ久だは、南郡の委員ば頑張って説得して、東郡と協力してけるぐ運動してけだんだ」


 少年たちは、緊張しながら唾を飲み込んで聞いています。


「ほして、久だ委員の働ぎがけのお蔭で、南郡の委員だも、東郡さ協力してける事になってけだ」


「よし! 」「よっしゃ! 」


 峰一郎も知らなかった父親の影の活躍を初めて知って、峰一郎は瞳に熱く込み上げるものを感じはじめました。


 父は何も語りませんでした。でも、真実は、村のために必死で委員の間を走り回り、言葉を尽くして説得して歩いたのでしょう。峰一郎には父親のその姿が偲ばれて、ひとりでに涙が溢れてきそうになります。


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「俺だは路線ばどうすっか、営業税ばどうすっか考えだげんと、あんまり色々言っても、かますだげで何も変わらねどわれがら(紛糾させるばかりで何も変わらないといけないので)、工事費の負担割合だげさ的ば絞た」


 少年たちは、父親たちの奮闘の様子を真剣な眼差しで聞いています。


「四郡みんな納得でぎる平等なものにすっべど考えで、それだげに絞って俺だの建議書ばこさえだんだっけ」


 東村山郡の主だった戸長と委員が考えに考えた別段建議書の内容はこうでした……


・決められた新道整備路線には反対いたしません。


・決められた新道開削費用を四郡で引き受けることも原案通りで結構です。


・分担費用は各郡の郡域を新道が通過する区間に対する責任分担でお願いします。


 つまり、西村山郡と東村山郡の境目から山形までの工事費は東郡と南郡が責任をもって負担しますが、郡の境目から関山村までは北郡と西郡でお願いいたします。……というものでした。


**********


 久右衛門は自分たちが考えた建議書の趣旨を少年たちに説明をします。


「俺だはお上の方針さ逆らうつもりもね。工事さも協力させでもらう。んだがらて、自分だでさんなね所、自分だの郡の道の工事ば責任持ってさせでもらうだい、ほれだげだ……」


 それに対して、少年たちも久右衛門の言葉に納得しています。


「自分だの所は自分だでちゃんとこさう(自分の所は自分たちで造る)……当たり前の事だずね? 」


「んだ。なんもおがすぐねぇど思うげんど(何もおかしくないと思うけど)……」


 少年たちは顔を見合わせて話し合います。久右衛門の説明は分かりやすく、少年たちの胃の腑にストンと落ちて納得できるものでした。


 自分たちの村を通りもしないのに金を出すことには、まだ若干、気の進まないところもありますが、それでも自分たちの東村山郡の工事についてならば、引き受けなければならないという意味も分かります。


 公共事業という概念のまだない明治初期、地域の土木建築工事の類いは、江戸幕府の時代から地元近隣住民の夫役が当たり前でした。そのため、自分たちも応分の負担は仕方のないこととして覚悟していました。


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(おわりに)


 楯岡村で開催された村山四郡連合会では、最初から最後まで北村山郡と西村山郡のペースで進展していき、東南村山郡の主張は一切通る事はありませんでした。西北村山郡は既に裏で県庁との妥協と密約が出来ていた様子さえ窺えました。それに対抗するため、東村山郡では独自の別段建議書を作成しようとの動きが水面下で始まります。そして、それと同時に南村山郡の議員と連携して西北村山郡に対抗しようとする多数派工作も開始されるのでした。

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