第9話

 

 ……それから何日かして、銀子は下宿から姿を消した。元から予想していたことだっただけに、たいした衝撃もなく受けとめ、いつも通りの日常に戻った。

 働いて、家に帰って、寝て、また起きて働き。そんな生活が延々と続いていく。次第に今日と明日の区別すら曖昧になっていき、まるで自分が機械になってしまったような心地に陥ることもしばしばだった。

 たまの休日はたいていごろごろ寝転がって過ごす。そんな時、ぼんやりと天井を見上げながら、ふと銀子もいつもこうしていたな、と思い出したりした。少なくとも、あいつの場合は俺の目に映る範囲ではほとんど食っちゃ寝しかしてなかったはずだが、いったいなにを思って寝転がっていたのだろう。なにも考えずに反射で飯をねだったり俺の邪魔をしたりしていたのかもしれないし、あるいは逆にものすごく遠大な考えが頭の中を駆け巡っていたかもしれない。いずれにしても、銀子がいなくなった以上、真実は闇の中だ。

 時々は栗栖の家にお邪魔したりもした。やつは順調な交際の末、結婚するにいたり、傍から見れば特に問題ない夫婦となっていた。栗栖とのぐだぐだと会社への愚痴をかわしながら、割合、なごやかな時を過ごした。それなりに楽しく、まあまあ気が晴れた。

 


 ある日、なんとなく思い出して銀子の話をすると、栗栖がポカンとした表情で、その銀子さんって人に会ったことありましたっけ、などと不思議そうに返された。一瞬、何が起きたのかわからなくなったものの、なんとはなしに何が起こったのかを察する。ためしに俺の下宿に遊びに来た時に銀子がいたことや、初めてこの家へやってきた時にもいたこと、などを口頭で説明していくと、僕の記憶だとそんな人いませんでしたけど、なんてこちらを心配するような言葉が返ってきた。俺はその場で納得しながらも、念のためつまみを作ってくれた奥さんにも同様のことを確認してみたが、困惑するばかりだった。おまけに、彼女自身に関わりがあるはずの鴉にからんだ話をした時も、そんなことを言いましたっけと心当たりがなさそうに首を捻られた。

 疲れて色々勘違いしたのかもしれない、とその場をごまかしながらも、やはり銀子の痕跡自体がこの世から消えたのだと察した。世界の常識は非現実的な出来事を許容しなかったらしい。もしくは、全ては俺の頭の中だけで進行していた妄想だったのだろうか? ……だとすれば、もう少し面倒でない妄想が欲しかったところだが、すんなりいき過ぎるのもつまらない、という願望があったのかもしれない。

 世は事もなし。心の中はしんどいことや退屈なことばかりだが、まあそんなものだろう、とここのところは思う。今のところはさして昇給もせず、誰かにことのほか頼りにされもせず、ただただなんとなく生きている。たまにすべてが嫌になったりもするが、それもそれで生きている感じがして悪くない。

 まっ、こんなもんだろ。










 /


「……こんな風になると思ってたんだけど」

 頭の中に描いていた未来予想図へと現実逃避しながら、ズボンがしきりに引っ張られているのを感じる。視線を落とせば黒江が指を咥えながら心細げにこっちを見上げていた。

「とうちゃん、お・な・か・す・い・た」

 紺の吊り下げズボンに縞模様の服を合わせた我が末娘は、母親の血筋を色濃く窺わせる台詞と仕種で、食べ物をねだってくる。俺は黒江の頭を撫でつつ、

「さっきおやつを食べたばっかりだろ。だから、夕飯まで我慢してくれないか」

「いーやっ」

 日頃の食べ過ぎでパンパンに膨らんだ頬を膨らましながら、いやいやをする娘。幼児らしいといえば幼児らしいが、年相応の声は超音波じみているせいで体や耳を軋ませそうな勢いで響く。……ついでに、お隣さんや近所の迷惑になってないか心配になった。

「そこをなんとか」

「いやっ。もっと食べたいの!」

 なんとかなだめすかそうとするものの、黒江は完全にへそを曲げてしまった。こうなると、なかなか癇癪がおさまらない。根気強く行かねばならないな、と覚悟を決めようとした直後、黒江の頭を、その後ろからやってきた銀二がぽかりと叩いた。

「お前はいつもうるさいんだよ」

 この長男の苛立たしげな声は妹の黒江ほどではなくとも充分に高音で、しっかりと耳に響く。それに加えて叩かれた側が火が付くように泣き出したので、もう手に負えなくなりつつあった。

「銀二」

 声をかけると白いランニングに短パン姿の長男は、バツが悪そうにしつつも、

「なんだよ。おれはクロを注意してしただけだろ」

 すぐさま抗弁する。

「注意するなら口だけにして、殴るのはやめとけ。脳細胞が死んで馬鹿になる」

「クロ、ばかじゃないもん!」

 変な言葉の拾い方をした黒江の泣き声が大きくなる。長男は母親譲りかつ名前通りの色合いの短い髪をがりがり掻いてから、ああもう、とこちらはこちらで癇癪を起こした。

「わかったよ、わかったからいちいち泣くな!」

 叫んだ銀二は手を上げかけたが、はっと我に帰り下ろした。ぱっと反省できるところは美徳だな、と思いつつ、頭を撫でる。母親と同じ色合いの髪の毛はさらさらとして、長男は照れくさそうに顔を赤らめたものの、素直に受けいれていた。

「そうだな。クロは馬鹿じゃなくて、いい子だもんな。悪かったよ」

 長男に続いて俺も謝り、空いている方の手を末娘の頭の上に置いて前後させる。そうしていると次第にではあるが、黒江の泣き声が小さくなっていくのがわかった。その直後に上目遣いをみせて、

「おなかいっぱい、たべさせてくれる?」

 飛び切り可愛く訴えかけてくる。まっさきにその願いを叶えてやりたいところではあったが、末娘の健康を害するわけにはいかないと覚悟を決めた。

「ごめんな。それは待っててくれ。その代わり、夕飯はおいしいもの作るから」

 途端に黒江の目がじわっとにじみ、

「い、ま、が、いいのぉ!」

 再び超音波をぶっ放しはじめ、体の芯を揺らすような衝撃が再びやってきた。その隣でこちらを見上げる長男の呆れたような目。

「父ちゃん、今みたいに言ったらクロが泣くってわかってただろ。こいつ泣き虫だし」

「いや、それはわかってたけど。それとこれはべつだからな」

 泣いているからといって飯をあげ続けたら、夕食が入らなくなるし、今でさえ肥満気味なのに更に肉が付くのはいただけない。何より、泣けばご飯が出てくると条件付けされてしまったら、途端に味を占めだしかねなかった。……というより、俺がガキだったらそうする。

「クロ、なきむしじゃないもん!」

 今度は正確に聞きとっていたらしい黒江が叫び声をあげた。その隣では銀二が相変わらず苛立たしげにしながら溜め息を吐く。さて、どうしたものかと思い、末娘を再びなだめようとしたところで、

「お困りのようですね、お父様」

 先程まで風呂に入っていた長女の白実が涼しげな笑みを浮かべて近付いてくる。

「シロミ。お前はいいから服を着なさい」

「今は夏ですよね。しかも、室内です。今はこれが一番合理的だとわたくしは思うのですけれど。それに今は、クロエを泣き止ませるのが先なんじゃなありませんか」

 長女は肩辺りまで伸びた色素の薄い髪をバスタオルで拭きながら、惜しげもなく裸体を晒す。齢十歳と少しには見えない堂の入り方だった。

「いつもと同じだよ、シロ姉ちゃん。クロのやつが」

「見ればわかります。それにあなたの言う通り、いつものことですからね」

 白実はどことなくぞんざいに銀二をあしらいながら、すたすたとその足で黒江へと歩み寄る。

「だめですよ、黒江。お父様を困らせちゃ」

 いたって優しげな声。それでも末娘は泣き止まず、

「だって、おどうざんが、たべちゃだめって!」

「それはお夕飯まではということでしょ。それだったら、黒江も充分待てるでしょ」

「いぃや。いま、たべたいぃっ!」

 先程までの俺と銀二に対してと同じように、黒江は癇癪を起こし泣き続ける。しかし、白実は慌てることはなく、それどころか笑みを深めたかと思うと、妹の耳元に唇を押しつけるようにして何事かを囁きはじめた。

「……ということなんですけど。黒江はそれでもいいんですか」

 重要とおぼしき部分以外のところだけ声量をあげる長女。途端に末娘は顔を真っ青にし、力なく首を横に振った。

「そうでしょうそうでしょう。だから、おいしいおいしいお夕飯まで大人しくしているんですよ」

「……うん」

 かぼそい声で答え頷いた黒江は、泣きはらした目を俺に向けて、

「とうちゃん。わがままいってごめんね」 

 ぺこりと可愛らしく頭を下げた。

「わかってくれればいいんだ」

 どことなく唖然としつつ、その頭を一撫でする。末娘はその手から逃れたあと、俺のズボンに顔を押し付けた。その様子を満足げに見守る長女は、

「うんうん、良かったですね。ということでお父様、いくらでもわたくしを誉めてくれてかまわないんですよ。さあ、遠慮などせずに、おおいなる愛を込めて」

 両腕を広げてうっとりとした様子で目を閉じる。

「はいはい、ありがとうな。それよりも、いいから服を着てくれ」

 途端に不満げに頬を膨らます。年々、顔立ちが綺麗めになっていっているにもかかわらず、こういうむくれた顔は年相応に幼い末娘のそれとよく似ていた。

「わたくしの扱いが雑じゃありませんか。それに先程も言いましたが夏場は……」

「さすがに風邪引くだろうし、お父さんとしてはお前に人としての最低限の嗜みを身につけて欲しいところなんだが」

「嗜みと申されましても、わたくしも銀二も黒江も半分猫の血を継いでいるうえに、これだけ暑い日なんですから。裸でいても問題ないでしょう」

「全員、濃い体毛がないうえに、クーラーかけてるんだからさすがに冷えるっての」

 こういう裸族じみたところを除けば割とまともなのにな。……いや、この年で変に持って回った言い方をしたり、妙に頭が切れたり、どことなく本心をうかがわせない感じとかをみるに、一概にまともとも言い難いが。

 白実は大袈裟に溜め息を吐いてみせてから、わかりました、と静かに答え、バスタオルを体に巻いた。

「その代わりに、わたくしの頭も撫でてください」

 ……訂正。こういうところは子供っぽいかもしれない。

「ほれ」

 頭の上に手を置く。少し湿った髪の毛の感触がつたわってくるのと同時に、気持ち良さそうに目を細める長女。

「……このために生きているといっても過言ではありません」

 どう考えも過言だった。とにもかくにも、白実は約束はしっかりと守るタイプなのでまず一安心といったところか。

 そう思っていると、唐突に飛んできた黒いワンピースが長女の頭にぽすっと当たる。

「シロミ、忘れ物。社が色々うるさいんだから着てあげなよ」

 ぶつくさ言いながら銀髪の若い女が黒いタンキニにジーンズというラフな姿でやってきた。言わずもがなだが、この子達の母、もとい銀子である。再び長女の方を見れば、母親の方に挑発的な目を向けていた。

「あら、お母様。わたくしはこれからお父様との約束にしたがって服を着る予定だったんですよ。だから、あなたのしていることは余計なお世話そのものです」

「そっか。それは悪かったね」

 銀子は長女の発言を軽く流すように応じてから、俺の方へと目を向ける。

「いつも通りモテモテだね、社」

「そう見えるんだったら、眼科に行くことを本気で勧めるが」

 俺の言葉に、形式上の妻は不思議そうに首を捻った。

「この前、遊びで計ったら2.0以上あったから大丈夫だと思うんだけど」

「……冗談だ。気にしないでくれ」

 コンタクトを手放せない身からすると羨ましいかぎりである。そんなことを思っている俺に銀子は、相変わらず社の冗談ってよくわからないうえにつまらないね、と口にしてみせた。

「それはお母様が愚か過ぎるからじゃありませんか」

 母とは対照的に長女の方は、先程までの涼しさは鳴りを潜め、露骨に皮肉を込めはじめている。なぜだかこの娘は、母親相手にやたらと張りあいたがるところがあった。

「そうかもね。けど、つまんないものはつまんないから」

 一方の銀子の方は白実の言葉をいつものように受け流してしまう。いつからかはよく覚えていないが、長女がなにかと張り合おうとしてから今日までの間、母親の方は一度として挑発に乗っていない。気にならないのか、気になっているが相手にしていないのか、あるいはそもそも挑発だとすら思っていないのか。どれもありうる。

 変わらない状況に軽く歯軋りしつつ服を着はじめる白実。そのすぐ傍から、黒江がとことこと銀子へと走り寄っていく。

「おかぁざん!」

「どしたの、クロエ。……っていうか、あんたの言うことなんてお腹空いたくらいか」

 なんだかんだ人らしき振る舞いをしはじめてから、十年あまりが経っているからか。あるいは、ここのところの末娘の行動原理があまりにも単純過ぎるせいか。銀子は娘になにを願われているのかは素早く察していた。

「クロ、おなかすいたしかいえないわけじゃないもん! ……だけど、おなかすいたの!」

 直後に先程までの説得を無にされた白実の舌打ちと、銀二のひぇっという声が耳に入ってくる。それにしても黒江、どこまで計算でやってるかはわからなかったが思いのほかしたたかに成長していってるのかもしれない。

「ほら、やっぱりお腹空いたじゃん。けど、社が夜までは待てって言ってるんでしょ」

 途端に末娘はぴたりと動きを止め、おそるおそるといった風に背後に振り向く。その視線の方を見れば、どことなく腰が引けた長男と、不自然なほど整った作り笑顔を浮かべている長女の姿があった。途端に黒江は両目をじわっとうるませ、母の膝に縋りつく。

「社」

 声をかけられて振り向けば、銀子は自らの足に引っ付く娘を指差し、

「クロエと一緒に狩りをしてきてもいい?」

 と尋ねてきた。俺はそう来たかと思いつつ、頭を巡らし、じゃあ、と口を開く。

「まず、黒江にできるだけ体を動かさせてやること」

「うん、わかってるから、狩りしに行こうって言ったの」

 淡々とした声音を口にする銀子に、もう一つ、と指を立ててみせた。

「いつも言ってるが、人の飼っているものに手を出さないこと。それから、鳥とか目立ちそうなものを狩る時もできるだけ人に見えないところでやるように。あと、狩った肉類にはしっかりと熱を……」

「わかってる。何度も聞いたってば。本当に社は心配性だな」

 呆れたように応じる銀子。答えの割には、ここ十年くらい、何度も危ない橋を渡っていただろうが、と文句を云おうともしたが、なるようにしかならないので、そうだったな、と答えるに留める。母となった猫の女は、黒江の視線の高さまで膝を屈めた。

「てなわけで、これから食べ物を取りにいこう。ご飯をいっぱい食べるんだったら、たくさん体を動かした方がいいからな」

「……クロ、ドジだもん。うまくかれない」

 自信なさ気な娘に対して、母親は両肩にそっと手を置いてみせてから、

「やってるうちに上手くなる……と思う。ぎん……お母さんも最初はへたっぴだったし、繰り返しているうちにうまくなったんだ。それに今ならお母さんが色々教えながらやれるから、きっと楽しいよ」

 そんな風に説得をする。……生後一年足らずの長女を野原の真ん中に放りだして狩りをさせようとした頃に比べれば、人の生態に理解を示しはじめているなとちょっとだけ感動した。そもそも論として、町に住む人が狩りなどするな、という話かもしれないが、そこは半分猫なのだから、いたしかたあるまい。

「……おかあさんは、クロをたすけてくれる?」

 おそるおそるといった体で尋ねる末娘に、母親は、うん、と答える。

「もちろん、手伝いはするよ。クロが上手く狩れるようにね」

 援助は惜しまない。力強い声音に後押しされて覚悟が決まったのか、黒江はようやく銀子の足から離れた。

「じゃあ、いく」

「よしよし、いい子いい子」

 喉を撫でられ目を細める末娘と、そこに慈しむような目を向ける母親。それを羨ましそうに眺める長男に、どことなく気に食わなそうに見つめる長女。

 思えば遠くへ来たものだ。少なくとも十年以上前の俺に今のことを話しても信じてもらえないに違いない。というよりも、渦中にいる俺ですらいまだに現実感が乏しかった。


 *

 

 できた。

 その一言を最初理解できなかった。というよりも、想像の外にあったからなかなか結びつかなかったといった方が正しいだろうか。それでも少し落ち着けば、言わんとしているところは見えてくる。とりわけ、やや気まずそうにしている猫の少女の顔を見れば、事態を把握するのは容易だった。

 一応、最初にした時から最後にした時までゴムはつけていた。とはいえ、避妊成功確率は絶対ではないらしいし、あるいは道具のつけ方に不備があったのかもしれない。なんとなく自らに言い聞かせつつも、もはや冷静ではなくなっていた。

 ごめんなさい。

 なぜだか、銀子が謝ってくる。

 いや、お前が謝ることじゃないだろう。

 そもそも、お互い同意のうえで行為に及んだ時点で共犯なのだから、片方に責任を押しつけるというのもおかしな話だ。

 できた以上は、頑張るよ。

 堕胎という選択肢もないではないが銀子の出自が出自なだけに、人と同じような手段でそれができるかどうかはわからない。それに猫の少女の常識としてはできたら産むとなるだろう。

 いや……そうじゃなくてね。

 となれば、まずは先立つものである。幸い、就職してからの出費は飲み代くらいなものだから、僅かながらではあるが貯金があるにはあった。とはいえ、ちゃんと計算しなければわからないとはいえ、それだけでは心もとない。となると、しっかりと切り詰めて考えなくてはならなかった。

 ええっと、実は……つい出来心で、

 一番、厄介なのは子が一人ではなかった場合だ。猫は一回の出産で五匹ほどの赤子を産むと聞く。仮にもしも五つ子だった場合、明らかに足りなくなる。となれば、金を借りるあてを探さなくてはならなかった。

 あの、コンドームとかいうゴムきれに穴を、ね。

 こうなってくると噂しか耳にしないが、臓器でも売って金にするしか……待て、今なんて言ったこの女。

 追求の目を向けると、銀子は気まずそうに笑い。

 仔作りするんだから、仔ができないのはおかしいだろうって思ったからなんだけど……できてからすぐに社の給料そんなに多くないなって気付いたらなんか血の気が引いてね。

 なんてほざいたりして……


 /


 このあと、罵声なんかも飛び交ったりしたものの、結局のところ子ができてしまった以上は、親になるしかないと覚悟を決めた。銀子の戸籍や保険などと言った割と洒落にならない問題も含めて、家族や大家さん、それに栗栖たちの協力なんかで、どうにかできたりできなかったりしたあと無事白実が生まれた。五つ子になるかもという懸念は杞憂に終わったものの、それが常に同じとはかぎらないため、後の銀二や黒江ができたときもびくびくしていたが、今のところ一気に二人以上が生まれてくるということはない。人が増えると必然的に手狭になっていったので、長男が産まれる前後に大家さんの計らいで近くにある広めの借家に移った。とにもかくにも……とても周りの人に恵まれた。

「そう言えば、社」

 末娘の喉をごろごろとしたまま、妻が話しかけてくる。なんだ、と応じると、

「今日は栗栖と鳥とカヤが遊びにくるって言ってたよ」

 栗栖夫妻と一人娘の来訪を伝えてきた。

「できれば、もう少し早めに教えておいて欲しかったんだがな」

 頭を掻く俺の前で、銀子はニィッと笑い、

「社に嫌がらせするのが銀子の生き甲斐だからね」

 と満足げに言った。小さく溜め息を吐く。とはいえ、そんなに悪い気分というわけでもない。

「さいですか」

「そうそう、さいなんだよ」

 妻は楽しげに言ってみせてから、黒江の掌を優しく包みこんだ。

「じゃあ、行ってくるよ。とびきりおいしいご飯、期待してるから」

「いっぱいつくってね」

 母子ともにそう告げてから、ベランダへと向かっていく。どうやら、そちらから出ていくらしい。その後ろ姿を見ていると両側から掌を引かれる。

「これから仕込みなんでしょう。わたくしもお手伝いします」

「俺も。父ちゃん大変そうだし」

 長女と長男の気遣いに、ありがとな、と応じながら、今日もこれから忙しくなりそうだな、と思った。そのかたわらで、さて今日の献立はどうしようと頭を巡らす。とりあえずいっぱい作ろう。作るもの次第では大家さんも誘ってみてもいいかもしれない。休日らしい騒がしい食事会。たぶん、今日もいっぱい疲れるだろうが、さしあたってはみんな楽しければいいか。

「まったく、面倒ばっかり持ちこむな、あいつは」

 まだまだ今日は長いと思いながら、踵を返す直前、ベランダから出ていく間際の

銀子と目が合う。そのままなんとはなしに見つめあっていたものの、お互いに子供に手を引かれるままに背を向けあった。

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ベランダで猫と見つめあった話 ムラサキハルカ @harukamurasaki

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