第8話
飲み会の翌日。
目を覚ますと頭が重くて仕方がなかった。飲み過ぎたか、と反省しながら、水かスポーツドリンクを求めて冷蔵庫へと向かおうとする。その最中、窓のすぐそばでじっと座りこんでいる銀子が目の端に入った。
「おはよさん」
反射的に朝の挨拶を口にすると、ゆっくりとこちらを振り向いた銀子。
「おはよ」
短く素っ気ない返事。どことなく元気がなさそうだな、と思う。とはいえ、刺々しくなさからすれば言い合いが堪えているという感じはしないので、銀子もまた酒かなにかにやられているのかもしれない。……だとすれば、猫のアルコール摂取的な別の問題が浮かびあがってきそうだったが、人間の医者に見せていいものかという迷いがいまだにあったので、もう少し様子を見ようと判断する。
程なくして冷蔵庫へと辿りついた。中をあらためると、ちょうどスポーツドリンクの入ったペットボトルがあったので取り出し、手早く蓋を開けて傾ける。頭を中心に広がるだるさが幾分かおさまった。
その場でしばらくじっとしてから、再び冷蔵庫の中を見て、今度はハムとチーズを取り出した。その後、自作の小さな食器入れの上に置いておいた食パンの袋を手にとり、台所まで移動し、魚焼きグリルを開き、パンを一枚乗せて焼きはじめ、程好い時間で引っくりかえしてから、チーズとハム乗せて再び熱を入れる。グリルの細長いガラス窓からは内部が窺いにくかったものの、なんとなくで焼き加減を確認しているといい匂いがしてきた。そろそろかと思い火を消し、グリルを開く。いい具合に解けたチーズと焼けたハム、少しだけ焦げたパンが食欲を誘った。ふーふーと息を吹きかけ一口。まあまあだなと思い、もう一回、二回と齧っていく。さほど時間をかけずに食事を終えて、一息吐いた。やや物足りなくはあったものの、かなり酒を飲んだあとの朝なためか、これ以上食べると気持ち悪くなりそうだったため、使わなかった食パンとハムとチーズを元の場所に戻しにいく。
その途中、ふと、違和感を覚える。何かが足りない。そんな気付き。具体的に何が足りないのかはわからないまま、食べ残しを戻したあと、水道で軽く手洗いをして、居間兼寝室へと戻る。
すぐさま窓辺に違和感の原因を見つけた。
パンを焼いている途中に銀子がやってきていない。少なくとも同居しはじめてから今日までの間では一度もなかったことだ。だいたいは銀子の方からお腹空いた、とか、餌くれ、とねだってくるのが大半ではあるが、ごく稀に俺が料理をしたり用意したりしている最中にも匂いを嗅ぎつけやってきて、遠慮せずに食事をねだってくる。良くも悪くも食い意地を張っている猫の少女が、こと今日にかぎっては台所までやってこなかった。
そういう日もある、で済ませてしまえる程度の小さな問題。しかし、何かあったのか、と勘繰れそうでもある。とはいえ、俺自身もまだだるく、今のところさほど深刻な問題ではなさそうだったのもあり、銀子がベッドが空いているのを見てそこに寝転がった。
どうせ、腹が減ったら起こされるだろう。半ばたかをくくるようにして気だるさとともに体を転がした。
そんな予想通り、何分か後に、エサー、と背中を揺すられ起こされた。たぶん、銀子も二日酔いなのだろう。その日はそんな風に解釈した。
しかし、二日酔いという予想に反して、銀子は日に日に大人しくなっていた。食事だけはいつになくしっかりとこなし、容赦なくお代わりすらねだってくる日すらある。しかし、全体的に物思いに耽るようにして窓辺に座ってぼんやりとしたり、俺の背中を抱き枕にしたりしていた。元々、食っちゃ寝しがちな猫の少女ではあったものの、以前まであったうるささはなりを潜めた。その変化に俺は、最初こそ気を揉まなくて済むと喜んだものの、何日も続くとさすがに不気味になってきた。
その頃になると、何かあったのか、と直接尋ねたりしたものの、銀子は固い顔で首を横に振り、なんでもない、と訴えるのみだった。むしろこれは、なんでもなくない、と言っているのではないか。そう感じて追求を深める日もあったが、銀子はやはり、なんでもないの一点張り。取り付くしまもなかった。
夜な夜なベランダの端から空を見上げる猫の少女。その後ろ姿はさながらかぐや姫のように見えた。
「月に帰るんじゃないでしょうか」
ある日の昼休み、栗栖にその話をすると、大真面目な顔でそんな答えが返ってきた。
「ふざけてるのかお前」
「心外ですね。僕は真剣ですよ」
栗栖は眉を顰めて、弁当の中に入ったきんぴらごぼうを一口食してから、もっとも、月に帰るっていうのは比喩ですけど、と付け足す。ここまで来れば栗栖の言わんとしていることもわかった。というよりも、俺もまっさきに考えた可能性でもある。
「俺の家からいなくなる前兆だって言いたいのか」
「その通りです。材料が少なすぎて絶対とは言い切れませんが」
顔を曇らす後輩社員。好意的に銀子を見ていた栗栖からすれば面白くないのだろう。一方、俺の方としては、ようやく来たか、といった心地だった。
「先輩は随分と平気そうな顔をしてますね」
「元に戻るだけだしな」
そう、元に戻るだけだ。銀子がやってくる前の。それこそ、銀子という名が生まれる前の状態になるだけ。
「前から思ってましたけど、先輩、銀子さんに冷たいですよね」
後輩社員の物言いに、そうか、と胡乱気に応じる。
「元々、あいつの方から俺の家にもぐりこんできたしな。情が湧いてるか湧いてないかでいえば湧いてるかもしれんが、だからといって積極的に引きとめようと思うほどの執着はないよ」
こちらにかまってきたのは、常に銀子の方だった。その銀子がもううちにいる価値を見出せないのであれば、出て行くのは当然だろう。一転して険しい表情になった栗栖はこちらを睨む。
「僕が同じ立場だったら、そんなに気楽にかまえてられません」
「お前は相手が上江さんだからだよ。俺と銀子はもうちょい行きずりっぽい仲だし」
お互いに尊重しあっている間柄と、半ば一方的に付き纏われる関係性。そうなると色々と違ってくるのも当然といえた。なぜだか、後輩社員は疑わしげに俺の顔を覗きこむ。
「だったら、なんで今日、僕に銀子さんのことを相談したんですか」
「相談ってほどのことでもないだろ。大人しくしてる銀子が珍しかったから話題にだしただけだよ」
そして、半ば予想通り昼休みの暇潰しの一つくらいにはなった。そう思い、今朝買ってきたのり弁を食していく。
「やっぱり、先輩は冷たいですよ」
納得行かない、と言わんばかりの物言い。
「そうかもな」
自覚はなくはないかった。というよりも、銀子が人のかたちであらわれたばかりの頃も似たようなことを言われた気がする。あの猫の少女の目線で見ればずっとそんな感じに映ってはいるだろうし、俺は俺で雨の日に家に入れてやらなかったことに負い目がなくはなかったものの、それはそれとして出て行って欲しいと思っていた。
「もっと、大事にしてあげた方がいいと思いますよ。できるだけ後悔がないように」
そう言い捨てると栗栖は黙々と手作りとおぼしき弁当を食しはじめる。俺もまた、弁当箱内に残っていた魚フライを齧り、やたらと油っぽいな、と苦笑いした。
それから数日後。祝日の夜。夕食を終えた俺はベッドでごろごろしていた。外は台風がやってきていたのもあって、嵐の様相を呈していて、しきりにビュービューという音が耳に入ってくる。
ちらりと窓辺に目をやると、銀子が遮光カーテンを取り払って、窓越しに外を見上げていた。ここ何日かと同じようにただただじっとしているその姿に、俺は頭の片隅をくすぐられているような感覚に陥る。
ふと窓越しにこっちを見上げてくる子猫のことを思い出す。そう、今窓辺にいる少女、その人、いやその猫だった。銀子という名がついたこの猫のような人のような生き物は、服こそ着ていたものの、あの時とほぼ同じ姿勢で空を見上げている。かつてはガラス越しに外にいた猫は、今内側にいる人らしきものとなっていた。
ふと、あの時の子猫を家の中にかくまっていたらどうなっていただろうと夢想する。かくまってしまった以上は、育てなくてはならないと思ったかもしれない。本をびりびりにされたり、部屋中に糞尿を撒き散らされたり、壁に爪をたてられたりしつつも、少しずつしつけを済ませていったり。そんなことを四苦八苦している間に、鳴き声かなんかで大家さんに子猫の存在が露見する。即刻捨ててこいと迫られる可能性もないではないか、なにかと甘い大家さんのことだから、育ててくれる人が見つかるまでは飼っていていいと特例を出す気がしたし、あるいはなし崩しで責任を持って飼いなさいと肩を叩かれるかもしれない。……いや、そもそも、銀子がやってきた時も色々と厄介になりそうだったから話を通した以上、子猫に対しても俺は同じことをするかもしれない。とにかく育てはじめ、生活のかたわらということもあり、苛々したり、面倒になったりするのは間違いないが、時々、それこそほんの少しだけ心細さが解消されるかもしれなかった。
……そんな毎日があったかもしれない。おそらく、今とはまた苦労の質が違うのだろうが、さほど変わらない気もした。ともすれば、猫の少女がやってきたのは諸々の面倒を先延ばしにしたつけが回ってきた結果なのかもしれなかった。
それも、もう少しで終わる……のかもしれない。栗栖は月に帰るだとか言っていた。だが、俺はもう少しふさわしそうな俗説を知っている。
猫は飼い主に自分の死体を見せないようする。とりわけ、状況証拠的に一度死んだとおぼしき銀子が束の間の奇跡のあとにいなくなるというのはしっくりくる気がした。もっとも死に姿を見せないようにする条件は、飼い主に対して親愛を抱いている、だったような気もするから、案外次の日、部屋の中でごろりと猫、あるいは人の亡骸が転がっているかもしれないのだが。
相も変わらずどことなく深刻な表情で空を見上げ続ける銀子。それは来るべきその時を予感させる。思えば、騒がしく、面倒臭いばかりの日々だった。ただ、一方で退屈しなかったのも事実である。もし、予想通りだとすれば、寂しくなるな。少しだけ、そう思う。
それからどれだけの時間が経っただろう。雨の音は少しも小さくならない中、銀子がこっちを見た。
「社、起きてる」
「ああ」
眠くなりつつそう答えつつも、銀子はベッドに飛び乗る。やはり身軽だった。
「ちょっと話がある」
「なんだ、あらたまって」
ついに来たか、と思う。銀子はどことなく言いにくそうにしながら、目を逸らしていたが、やがてこっちを見上げてから口を開き……
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