第4話

 猫の少女が下宿に住み着いてから一週間ほどが経った。その間、後が怖いと思って大家のおばさんに少女のことを申告したら、ついに彼女ができたんだね、なんてべたな勘違いをされ、こちらの話を聞かない大家さんが勝手に家賃を三千円ほどまけてくれることになったり、名前がないのが不便なので尋ねれば、飼い猫じゃないんだからそんな記号なんて持ってるわけないだろう、とか逆ギレされたので、じゃあ銀子で、と雑に名前をつけたら、毛の色で決めるとか人間の癖に知性の欠片も感じられないな、などと嘲笑されて小競り合いに発展したりと、たいしたこともない日々が流れていった。

 そんな同居人、あるいは同居猫がいる部屋に、嫌でもなれたある日曜日、

「今日は、肉を所望する」

 昼寝から覚めたばかりの猫の少女あらため銀子は、寝惚け眼でわがままを口にした。

「猫って言ったら魚かキャットフードだろ」

 偏見、もとい俺なりの事実を口にすると、銀子はわざとらしく溜め息を吐いてみせる。

「化石みたいな知識だね人間。昔、外で見たテレビ曰く、ヨーロッパとやらの同胞は肉をむしゃむしゃやるんだってさ。だから銀子は肉を所望する」

 まだ言い慣れないらしい自らの名を口にしながら、銀子はそんなことを言ってみせた。よくよく考えれば、猫って肉食寄りの雑食だったか。そんなことに思い当たる。とはいえ、わかったからといってわざわざ言うことを聞く義理もない。

「肉が欲しけりゃ、勝手に外で取ってくればいいんじゃないのか。鼠とか捕ってくるの得意だろ」

 現にこの一週間も、銀子は猫の本能なのか狩りに出て、鼠やらゴキブリやらを捕まえてきた。しかし、銀子は首を横に振る。

「今日は人間も休む日なんでしょ。なのになんで、わざわざ、銀子がせかせか働かなければならないわけ」

 なにを言っているんだこいつは。そんな目を向けられる。俺からすれば、たびたび出て行けと立ち退きを要求しているにもかかわらず、この部屋に居座っている銀子こそ、何言ってるんだこいつは、という気分なのだが、相手にするだけ無駄なので床に寝転がった。

「さようか。だったら、俺も休む」

「待って。せめて、銀子の餌を用意してからにしてよ」

 そう言ってベッドを飛び下りた猫の少女は、俺の肩を揺する。かたちは普通の人間のものになっているはずだったが、銀子の掌の内側からは肉球の感触がした気がした。

「仕事で疲れてるんだよ。たまの休日くらいはだらだらさせてくれ」

「たまの休日じゃなくとも、お前はごろごろしてるじゃない」

 生意気にも事実を口にする猫の少女。痛くも痒くもなかった。

「肉ちょうだい、肉」

 諦めない銀子に何度も肩を揺すられる。この下宿にやってきてから、さほど経っていないにもかかわらず、野良猫根性は飼い猫根性に入れ替わってしまったみたいだった。

 今日こそ追い出したい。そう思うものの、鍵を閉めていてもいつの間にかどこからか部屋に入ってくるので、今のところ具体的な方策にまで発展していない現状、まず真っ先に目指すべきことはこの鬱陶しさからの解放だろう。

「わかった、わかったからもうちょい大人しくしてろ」

 立ち上がる。おお、という期待の籠もった声があがるものの、肉などあっただろうか、とか、そもそも熱を入れたほうがいいのか悪いのかもわからず冷蔵庫まで足を向けた。背後からは例のごとく四足の鳴らす小気味のいい音。

 扉を開け放つと、缶ビールが数本入っている以外は、魚肉ソーセージが一本あるだけ。……昨日までの俺はこれでどうやって日曜日を乗り切ろうとしていたんだろうか?

 振り向く。案の定、四つんばいになった銀子が、ねぇ肉は肉は、と無邪気に尋ねてきた。おねだりに負けたとはいえ、簡単な約束を結んでしまったせいか、小さな罪悪感が湧きあがる。

「悪い。これしかなかった」

 正直に告白すると、猫の少女の目はあからさまにがっかりしだした。

「使えない人間だね」

 溜め息を一つ。殴ってやろうかと思い、包装を開けたばかりの魚肉ソーセージを引っこめようとする。その先端に銀子が噛みつく。

「はっへ、はへはひほはひっへはひべほぉ」

「いいから、食ってから喋れ」

 魚肉ソーセージから包装をすっぽ抜かせると、銀子は首を縦に振り、吸い込むようにしてたちまちたいらげた。

「待って、食べないとは言ってないでしょ」

「いや、それくらい聞きとれたから」

 しかも食ってから言われてもな。

「これはこれでけっこう美味かった」

「さようか」

 安あがりで済みそうで助かるな、うん。

「それはそれとして、夕食は肉を所望する」

「それは引っこめないわけね」

 わかってたけどさ。もっとも、どっちにしても買い物には行かなければならない。

「じゃあ、買い物行ってくる」

 そう告げて、近くに置いてあった財布を手にするが、途端に肩を掴まれる。いつの間にか、銀子が二本足で立っていた。せかせかとしたやつだ。

「待って、だったら」

「ちゃんと買ってくるから、留守番をしててくれ」

 要求が終わる前に、一応の抵抗を試みる。途端に銀子は頬を膨らました。

「銀子も行きたい」

 予想通りの言葉。しかし、俺としてはおいそれと認めがたい。

「銀子、お前、普段も人間のふりをしたままでいられるか?」

 途端にキョトンとする猫の少女。

「なんで、わざわざ銀子が人間の真似事をしなくちゃならないわけ?」

「お前の今のかっこうは人間だろう」

 わけもわからずといった体で頷く銀子。俺は、どんな言葉を選べばわかってもらえるかを考えながら、口を動かしていく。

「そんな姿かたちは人間なお前が、猫みたいに四つんばいで歩いたりしたらどんな風に見られると思う」

 尋ねてみると、銀子はよくわからないらしく、眉に皺を寄せ、うぅんうぅん、と唸りだしていた。そもそも持ち合わせる常識が違うのだから仕方がないことではあるが、説明するのは骨が折れそうだ。

「この国の公の道で四つんばいで歩くのは、だいたいは幼い子供か一部の特殊な人くらいで、普通の人はあまりしない」

「銀子はそもそも人じゃないけど」

「そうだな。ただ、銀子が自分を猫だと思っていても今の見た目は人だから周りからは人として見られる。そうなると人っぽい振る舞いをしていないと変な目で見られたりする」

「変な目で見られると何か不都合なことがあるの?」

 根本的な問いかけ。言われてみれば、今の銀子的には不都合はないかもしれない。あるとすれば、あくまでも同行者である俺側の信用である。

 勝手にやるといったこいつのことだ。俺側の弱味を見せたところで、関係ないと振る舞うかもしれない。だから、

「人間の中には、変な人を放っておいてくれない人っていうのもいる。そういう人に万が一目を付けられたりすると、今みたいな勝手な生活を送れなくなるかもしれないな」

 話をあくまでも銀子側の不都合であるという方向に持っていく。

「具体的には」

 食いついた。俺は頭の中で話を組み立てていく。

「猫人間とか言われてどこかの施設に連れ去られるかもしれないし、そうでなくても大家さんに白い目で見られて出て行けと言われるかもしれない。最悪、俺もお前に餌を与えられなくなるかもしれない」

 最後に関しては今すぐにでも打ち切りたいところだったのだが、面倒だったので交渉材料に用いる。途端に銀子が顔色を変えた。

「そう言えば、そういう展開はアニメで見たことがあるな。銀子も人体実験にあったりするのか……大家から優しくしてもらえなくなるのは嫌だし、お前からの餌がなくなるとか考えたくもない」

 だいたい考えていることが口から出ているらしく、どんどん深みにはまっていく様は、少々面白くはあった。とはいえ、あおり過ぎるとそれはそれでなにかしらの面倒を呼び込む可能性もある。

「だから、もしも着いてくるんだったら、後ろ足二本で歩いて大人しくていること。それが条件だ」

 言ってから、結局銀子が着いてくることを前提に話をしてしまったと気付く。

「わかった。人間どものオモチャにはなりたくないしな」

 案の定、猫の少女は素直に条件を呑んだ。こうなると今更、やらかしそうだから留守番していてくれ、とは言い難い雰囲気だ。仮に言ったとしても、散々ごねられたうえで強引についてくるに違いない。ならば、もはや、選択の余地はなく、


 

「そう言えば、お前はいつからその姿になったんだ?」

 近場のスーパーからの帰り道でそんなことを尋ねたのは、疲れきっていたからかもしれない。なにせ初めてスーパーの中に入った猫の少女は、コーナーが変わるたびに目を光らせ足を止めたし、肉や魚があれば金も払わずに手を伸ばそうとしたり、試供品コーナーの焼肉を食べつくしかけるなど、おおむね予想通りではあるものの初見では止めにくい行動をとってきたので、スーパー内では神経が休まらなかった。そんな風なところから人通りが少なくなり警戒心が薄れたゆえに、何の衒いもない問いかけが飛び出したのだろう。

「その姿って言われても、よくわからないんだけど」

 名付けた通りの色合いの眉毛を動かす銀子に、どう言ったものかと考えながら、周囲に人がいないのを確認してから、

「お前、元々は猫なんだろ。いつから、人間みたいな見た目になったんだよ」

 聞きたかったことをまとめた。実のところ、銀子が猫であるという自己申告が、そのものの真実であるかただの頭のおかしな少女の妄言なのかというのはいまだに判断しかねていたが、本人あるいは本猫が持ち合わせている、猫の少女である、という世界の見方自体に嘘はないだろうと思っている。だから、この問い自体も、猫の少女であるという事実に対する疑いの検証というよりは、単純な興味本位だった。

 銀子は、うーん、と唸ってみせてから、

「よくわからない」

 正直に告白してくる。

 自身のことなのにわからないとは、これいかに。そう思ったものの、よくよく考えれば自分の姿かたちなど普通に暮らしているとさほど意識しないのかもしれない。

「俺と再会した時は、少なくともその見た目だった。その前はどうだったか、わかるか」

 さほど期待はできないな、と思いながら尋ねると、少女はアスファルトの上に腰を下ろした。行儀が悪いと止めようかとしたが、真剣に思いを巡らしているみたいだったので、一端棚上げして見守る。

「お前と再会した時に、今度こそここに居座ってやるって決めたのは覚えてる」

 猫の少女の述懐に、おい、と突っこみそうになるが、

「ただ、その前のこととなるとぼんやりとしている」

 本人あるいは本猫的に色々と思い出そうとしているらしいので、もう少し泳がせておくことにした。

「その日の飯もろくに確保できなくて、ひもじくてひもじくて。そんなひもじいままの時に雨が降ってきて、体がどんどん冷えていってなんとか屋根の下に入って……たぶん、お前の下宿のポストの下くらいにたどり着いて、なんか眠くて眠くて、そのままひもじいと眠いの間を行ったり来たりして……ああ、そうだ。目が覚めたら、なんか目線がやたらと高くなってて、見下ろしたら二本足で立ってたから、なんだこれって思って四本足になろうとしたところでお前が帰ってきて、冷たくしてきたやつだって思い出したんだ」

 どうやら、銀子が今のかたちになったのは俺と再会した直後らしい。少なくとも発言からはそう読みとれる。ただ、銀子の口にした事柄を一つ一つ拾っていくと、もしかしたらという想像が頭の中に湧きあがってきた。

「もしかして、お前さ」

 言いかけて口を噤む。言葉にした途端、真実になるように思えてどうにも気が引けた。

「もしかして……なに?」

 銀子は促してくるので、なんでもない、とごまかそうとするが、じっとりとした猫じみた眼差しが沈黙を許そうとしなかった。

 道端でしばし見つめ合う。その間、犬の散歩をする老人が通り過ぎたりしたが、普段であればそちらに注意を逸らしがちな銀子がこちらに集中しきりだった。これは俺が話さなければ梃子でも動かないつもりだなと察して観念する。

「猫としては一回死んだんじゃないのか、って言おうとしたんだ」

 なんとはなしに想像した内容は、少なくとも銀子にとってはあまり都合の良くない事柄のはずだった。

「前から思ってたけど、お前の言い回しはいちいち難しい。もう少しわかりやすく話せ」

 動じているゆえに理解をこばんでいるのか、本気で俺の物言いがわかりにくいせいで理解できていないのか。どちらとも判断がつかなかったものの、できるだけ整理して話そうと試みる。

「そんなに難しい話じゃない。俺の下宿にやってくる前のお前は、ひもじさと同時に突然の雨で体力を削られていた。それで生命活動が極端に弱まって、まどろみの中で生死をさまよった。その結果として実際に猫であるお前は死を迎えた」

「いや、それはおかしいだろう。じゃあ、こうして生きている銀子はなんなんだ?」

 素朴な問いかけ。その通りだと思う一方、こうして銀子が人間として生きていることが証拠の一つに他ならない。

「そもそも、普通だったら猫は人間にならない。お前もそこら辺はアニメやドラマやらで知ったんだろう」

「ああ。だから、銀子は銀子が猫だって告白した時にお前の神経を疑ったんだ」

 少なくともこの点に関しては銀子も俺と似たような常識を持ち合わせているらしい。俺は、ああそうだな、と頷いて見せながら、

「その普通じゃないことが起こった以上、その普通ではないことを呼び起こす常ではないなにかが起こったんじゃないかと思った。それでその何かが何であるのかを考える時、俺と顔を合わせる前のお前の状況からするに、一回死んだんじゃないかと推理した」

 自分なりの考えを伝えた。銀子は身じろぎせず、

「やっぱりよくわからない。死んだら死んだままだろう。銀子はそういう仲間をよく見送ってきた」

 やはり自身が体験したとおぼしき死生観を通して、違和感を訴えてくる。

「普通はそうだ。だから、死そのものが重要なんじゃなくて死を通した何かによって人間のかたちになったんじゃないかなと思った」

「だから、その何かって」

 俺は首を横に振った。

「さすがにそこまではわからない。ただ、普通じゃないことを呼び寄せたのは、猫のかたちをしたお前の死であるんじゃないかと思った。少なくとも人のかたちになる前のお前の状況からだとそれが一番想像しやすかった」

 もちろん、これは仮説も仮説。飛躍だらけであるし、何の根拠もない。今の段階ではただの思いつき。ただそうなのではないのかと思っただけだ。

「実のところ、お前が死んだという確証はない。ただ、深く眠っているうちに体が人間のものに変わったのかもしれないし、お前が覚えていないだけで他になにかがあったのかもしれない。だから、今までの説も俺の想像でしかない」

 忘れてくれてかまわない。そう付け加える。銀子はしばらくの間、やはり身じろぎせずにこちらを見つめていた。

「そう、か」

 やがて、そんな風にぼそりと呟いてから、

「銀子は、一度、死んだのか」

 なぜだか、俺の仮説に納得したように言ってみせた。

「さっきも言ったがあくまでも、そうかもしれないってだけだぞ」

「それくらいは銀子もわかってる」

 馬鹿にしないで、と不快げに眉を顰めてみせてから、

「ただ、今のお前の話は信じるに値すると思った。だからたぶん銀子は死んだんだろ」

 非合理的に事実を受け止めてみせる。

「あっさりとしたもんだな」

 俺の問いかけに、銀子は不思議そうな顔をした。

「これ以上、なにを思えと? 猫だろうと人だろうと、たいていは死ぬんだ。それがこの間でもこれからでも銀子には関係ない」

 きっぱりと言い切るその様子に、さいですか、と応じる。正直、同じように伝えられて実際に自らの死を信じたとして、動じずにいられる気がしないだけに、この猫の少女のことをただただ強いな、と思った。

 銀子は話は終わりでいいかと尋ねてくる。そう言えば、俺から会話を切り出したんだなと思い当たり、ああ、付き合わせて悪かったな、と応じる。

「まったくだ」

 銀子は腕をふんぞり返ったあと、けど、と前置いて、

「死にそうだったところで命を拾えたんだったら、銀子は今度こそ腹いっぱい食べて、いっぱいいっぱい安心して寝たいな」

 なんて付け加える。

 ここに来て、本人あるいは本猫の言を信じるのであれば、銀子は銀子という名を付けられる前、ずっと野良猫と過ごしていた、という事実の重さに突き当たる。本人の言う通りであれば、上手い具合に餌にありつけず、常に自分より大きい外敵を警戒しながらの生活の中で、安眠などは出来なかったに違いない。その生活に比べれば、安定して餌を得られ寝床があるというのは銀子にとってどれだけ心の安らぎになるのだろう。……俺としてははなはだ不本意ではあるけれど。

「帰って焼肉食うか」

「待ちわびてた」

 自然とお互いに早足になる。家はすぐそこだから当然だった。

 ……焼肉が出来た途端、あっという間に平らげた銀子がこっちの皿にまで侵攻してきて、喧嘩になったのは言うまでもない。

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