第5話
「社さん。最近なんか元気そうっすね」
タイムカードを押して退社した直後、同じ時刻にあがった部署の後輩である栗栖が楽しげに話しかけてきた。
「そうか? ぶっちゃけ、このところ疲れて疲れて仕方ないんだが」
肩を回す。まだまだ若者ということで押し通したかったが、寄る年の波は徐々にではあるが俺の方へと押し寄せてきつつあった。栗栖はその幼気な顔をほころばせ、
「疲れているのかもしれないですけど、なんか以前よりも活力に溢れているように見えると言いますか……」
そんなことをのたまう。どこを見てるんだこの後輩はと思いつつも、小さく溜め息を吐いた。とはいえ、心当たりがないでもない。
「ちょっとしたお守りをしなきゃならくてな。元気が二倍くらいは必要なんだよ」
振り返ってみれば、やはり疲れていたのだろう。なにせ、あの猫の少女のことを人に話すこと自体がある種のリスクに繋がるのにもかかわらず、自分からべらべらと喋ってしまっていたのだから。
「社さん、結婚してなかったですよね。もしかして、親戚の方からお子さんを預かってたりするんですか?」
興味深げに尋ねてくる栗栖に、俺はよせばいいのに、
「違う違う。居候みたいな女がいてな。こいつがちょっとどころじゃないくらい面倒なんだよ」
日頃の鬱憤をこめてそんなことを口にしてしまう。栗栖は、へぇ、と呟いてから、
「先輩がそこまで言うんなら、面白そうですね、その人」
そんな風に目を輝かせた。他人事だからと勝手なことを言いやがる。
「面白い面白くないで言えば面白いかもしれないが、それ以上に面倒で仕方がない」
すぐに餌を寄こせとダダを捏ねてくるし、餌を出したら出したで文句を口にするし、人間の文明もなかなかやるじゃないかなどといっていまだにベッドを俺に返さず居座ったり。頭から爪先まで迷惑の塊だった。
「おかげで、以前よりずっと神経をすり減らしてる。そろそろ、いい加減にしてくれって思ってるよ」
こちらのそんなぼやきに、栗栖はなぜだか笑みを深める。もっともっととせがむ顔に、苛立ちを覚えた俺は、こうなればうんざりさせてやろうと、とりとめのない愚痴の数々をひたすら重ねていった。程なくして、言葉は途切れたものの、できるかぎりの言葉を尽くしたことにある種の達成感をおぼえながら息を切らす。
しかし、栗栖はやはりニコニコとしたまま
「僕、その人に会ってみたいです」
なんてのたまった。やはり、こいつにはあの猫の少女の理不尽さがつたわっていないみたいである。
「会っても特に面白くないぞ」
「そこら辺は僕の方で勝手に楽しむので……今日、先輩の家にお邪魔させてもらってもいいですか?」
栗栖はしれっとそんなこと口にした。
「唐突だな」
「思い立ったら吉日と言いますので。もちろん、先輩のご都合が悪いということであれば日をあらためますが」
言い方的に、栗栖の中で俺の家を訪ねること自体は決まっているらしい。今までも職場の人間の中では比較的話をする間柄だったものの、ここまでぐいぐい来られるのははじめてだった。
「正直、積極的に断わる理由はないが……てか、お前、たしか彼女と同棲しているとか言ってなかったか」
頭に浮かんだのは、時折栗栖の口から放たれる付き合いの長いという彼女との惚気じみた相談事。ムカつくなこいつ、と記憶に焼き付けていたのでよくおぼえていた。
「問題ないと思いますけど……社先輩のご助言通り確かめましょうか」
では、少し失礼して。そう言ってから、栗栖は素早く懐から取り出した受話器で相手を呼び出す。
「ああ、ルミ。今日、たまに話す社先輩の家に遊びに行ってこようと思うんだけど、いいかな? えっと、ご飯はどうするのかって? 今日ももう作ってくれているんだね、ありがとう。できれば先輩の家でごちそうになろうと思っているけど、それはそれとしてルミのご飯は残しておいてくれるとありがたいな。うん、うん……ありがとう。余裕があったら、お土産とかも買ってくるよ。うん、気を付けて帰ってくるから、そっちもしっかり戸締まりして警戒していてね。それじゃあ、また後で。愛してるよ、ルミ」
電話を切ったあと、こちらに向けてにっこりとする栗栖。
「許可は問題なくとれました。これで連れて行ってくれますか」
傍目からみても良好そうな関係を見せ付けながら、そう訴えかけてくる社の後輩、そんなにあの猫の少女が見たいのか、と呆れつつ頷いてみせた。
「遅い」
帰ってくるなり、玄関前でふんぞり返る銀髪の少女の姿。いつも通り、無駄にえらそうだった。
「悪かったな。こっちは好きな時間に帰れないんだよ。第一、俺が遅く帰ってこようとお前には関係ないだろ」
「関係はあるよ。出来合いのものより、社が作った方が美味いし」
衒いのない言葉。無駄に可愛らしい少女のような見た目に騙されてしまいそうだったが、言葉の奥にあるこちらをこき使おうという意図があからさまだったので、さいですか、と素っ気なく応じる。
「そうだよ。だから、社、今日もしっかりと銀子の餌を作ってね。……ところで、後ろにいる人間は誰」
いくつかの不毛な会話を繰り返した後、銀子は俺の後方にいる栗栖に意識を向ける。後輩であるところの男は、人間という雑な物言いに怒るでもいぶかしむでもなく、ペコリと頭を下げる。
「どうもはじめまして。栗栖ツバメと言います。社先輩の会社の後輩をさせてもらってます。どうぞ、以後お見知りおきを」
ごくごく丁寧な挨拶に銀子は目をぱちくりとさせたあと、再び俺の方を見ながら、栗栖を指差す。
「ねえ、社。もしかして、この栗栖とか言う人間、銀子の餌を横取りしにきたりしたわけ?」
あまりにも残念極まりない言動。自分が言ったわけではないにもかかわらず、俺は恥ずかしさに片掌で顔を覆う。一方の栗栖はキョトンとしたあと、上品な笑い声をあげた。
「あなた面白いですね。銀子さん、でいいんですか」
「うん、銀子は銀子だよ。銀子のなにが面白いのかはよくわからないけど、えっと、ありがとう、でいいのかな?」
おそるおそるといった体で語りかけてくる銀子に、栗栖は、いえいえお礼を言われることではないので、とやはりにこやかに応じる。なにが引っかかったのかはわからなかったものの、なぜだか銀子のことを気に入ったらしい。物好きもいるものだ、と思いつつ、傍から見れば一つ一つの行動や言動が新鮮に感じられるのかもしれない。
「それよりも気になることがあるんだけど」
不意に銀子が細めた目を栗栖に向ける。なにかなと尋ね返す後輩社員に、猫の少女は、
「栗栖。お前、やたらと鳥臭い気がするんだけど」
などとよくわからないことを言った。
何言ってるんだ、お前。何の臭いもしないじゃないか。口にしようとした俺の前で、栗栖が目を素早く瞬かせた。図星。そんな風に見えた。
「たしかに僕はよく鳥と一緒にいますけど、よくわかりましたね」
答えた時には、栗栖の表情は涼しげなものに戻っている。銀子は、舐めてもらっちゃ困る、と誇らしげに薄い胸を張った。
「こう見えても銀子は鼻が利くからな。敵の臭いくらいはしっかりと把握している」
「敵、ですか」
こころなしか後輩の顔が強張ったように見えた。銀子は、うん、と頷きつつ、
「これと似た臭いの鳥に、子供の頃に酷い目に合わされたんだよ。銀子は忘れっぽいけど死にかけた時のことくらいはおぼえている」
そう言い捨ててから、例のごとくじっとりとした目でこっちを睨みつけてくる。俺はひらひらと手を振り、わかったわかった、とうんざりし靴を脱いだ。
「もうちょっとで飯にするから、待ってろ」
「それを早く言ってよ。銀子は待ちわびてたんだから」
途端に目を輝かせた猫の少女は、全速力で家の奥に引っこむ。現金なやつめ、と呆れながら、栗栖の方を振り返った。どことなくぼんやりとしている後輩の肩を叩く。すぐさまはっとしたように顔をあげた。
「すみません、少し考え事をしていて」
謝る栗栖に、いいから、と応えてから、
「それにしても、お前、鳥を飼ってるのか。初耳だな」
なんて呟く。もっともそれなりに話すといっても、深く濃くかかわっているわけでもないので、知らないことの方が多いのだろうが。俺の言葉を耳にした栗栖は、お邪魔します、と靴を脱ぐ。
「飼ってる、っていうのはあんまり正確ではないですね。一緒に生きている、という方が正しいかもしれません」
妙な言い回しだったが、栗栖なりのこだわりがあるのかもしれなかった。そうか、とすぐさま話を切り上げ、洗面台の前まで歩く。後輩は律儀に後ろから着いてきた。
「ただ、銀子さんの敵らしいのは残念です。仲良くできるかなと思っていたんですが」
「なんだお前。今度はこの家にペットも連れてこようとしているのか」
「ええ、はい。社先輩とは、できるだけ長く濃く付き合っていきたいなって思っていますので」
好意的な視線を向けてくる栗栖の興味は、銀子だけでなく俺もまた対象になっているらしい。一応、今まで比較的親しく付き合ってきたのだから当たり前なのかもしれなかったが、それにしてもこちらに相談もなしにペットまで連れ来ようとするのは図々しくないかと思う。その傍ら、ふと先程電話していたルミと呼ばれた女性のことを思い出した。
「栗栖、お前もしかして、その鳥の世話はさっき言ってた彼女さんがしてたりするのか」
気になって尋ねながら手を洗い出す。栗栖は、なんて答えたらいいのかな、と唸り気味な声をあげたあと、
「一緒に生きてる、とだけ」
曖昧かつまたもやよくわからない物言いをする。何かをごまかそうとしているのかと疑い顔を覗きこむが、栗栖は困ったような表情こそしているものの、嘘を言っている感じではない。
「僕も洗面台を借りていいですか」
「ああ。っていうか、使ってくれ」
譲ったあと、その背中を見送る。直後に水道を流す音。どうやら、俺の頭の中にあった、彼女さんにペットの世話を押し付けて遊び回っている、という想像自体は崩れ去ったものの、なかなか説明し難い事情が横たわっているらしいというのだけは伝わってきた。そして、俺が見てきたこの会社の後輩は、今までの付き合いの範囲であれば、無駄な隠し事はせず来るべき時にはあっさりと事情を口にする種類の人間である。
面倒だな。近い未来に降りかかってくるかもしれない説明し難い事柄を厄介に思ったあと、すぐさま考えないことにする。わからないことをおそれてもどうにもできないのだから、わかってからどうにかしよう。
「ヤシロー、今テレビでなんかすごい食ってる人間の女がいるんだけど、銀子もこれくらい腹いっぱい食べたい」
居間の方から騒がしい銀子の声が聞こえてくる。テレビの音量もけっこう距離があるこちらに響いてくるくらいの大きさに設定しているらしかった。俺は台所の方へと足を向けながら、栗栖の前で笑みを作る。
「すまないが、ちょっと銀子の相手をしてくれないか。あいつ、一人で放っておくとうるさくし過ぎるからさ」
銀子がやってきてからというもの隣の部屋の女学生が壁を思い切り叩いてくるなんて日常茶万事だし、時々文句を言いに来たりもする。俺も似たようなことをされたら同じような反応をするだろうというのは容易く想像できた。
「それはかまいませんけど、僕、銀子さんに嫌われてませんかね?」
やや不安げに尋ねてくる栗栖に、どうだろうな、と応じる。
「銀子が体臭と人間性を切り分けているかどうかはよくわからん。ただ、できれば俺が料理を作り終えるまでの面倒をみてくれると助かる」
無理にとは言わないが。そこまで口にして、これはこれで強制しているように聞こえるかもしれないなと思う。とはいえ、ならばどう答えればいいのか、というのがよくわからず、内心で唸っていると、
「わかりました。僕もできれば、銀子さんと仲良くなりたいですし」
栗栖は笑顔を作り、俺の頼みを引き受けてくれることになった。
「ありがとう」
礼を述べつつも、果たしてこちらの言動を後輩がどう受けとったのだろうかと思いを巡らす。もっとも、放ってしまった言葉をなかったことにはできないのだから、気にしても仕方ないのかもしれないが。
「いえいえ。好きでやろうとしていることなので」
そう告げて、栗栖は居間へととことこ歩いていく。
大音量を発するテレビからは、相も変わらず大食い実況とおぼしきアナウンサーの声が響き渡っていて、そこに後輩の、どうも、という挨拶が混じった。間を置かずに発せられた、やっぱり銀子の餌を奪いに来たの、という無邪気な声。いえいえいそんなことはありませんよ、という答え対しての、ほんとかなぁ、と疑わしげな言葉。
冷蔵庫から取り出した鯵を取りだす。銀子がやってきてから、自然と魚の献立が増えた。だいたいいつも、出て行って欲しいと思っているのに、あんまりにも騒がれるせいか比較的猫の少女の要求を聞き入れてしまっている。そろそろ、毅然とした態度を見せるべきなのだとわかっているものの、家に居座る銀子を追い出す術がない以上、可能な範囲で静かにしてもらう必要があった。
小さく溜め息を吐きつつ、手早く下処理を済ませた鯵を魚焼きグリルに突っこむ。その最中、銀子の楽しげな笑い声とともに、栗栖って面白いな、という言の葉が耳に飛びこんできた。直後に重なる後輩の、いえいえそれほどでも、という謙遜。
そう言えば猫ってアルコールがダメなんだっけか。栗栖といる時は大抵飲み会になるし、今日もまた例外ではないだろう。もしかしたら、俺らが美味そうに飲んでいれば、銀子が酒に興味を持つかもしれない。幸か不幸か、これまでのところ俺が家でビールを飲んでいる際も、猫の少女が興味を持った様子はなかった。とはいえ、半ばハイになった俺と栗栖をみた時も同じ反応である保証はない。だとすれば、今日の飲み会は銀子にとって命にかかわる可能性がある。そもそも論として銀子のガワは人間であるものの、体の内側はどうなっているかはわかっていない。だから、酒を飲んでも大丈夫かもしれないしそうでないかもしれなかった。
仮に銀子が酒を摂取すると命にかかわるとすれば、合法的に猫の少女をこの部屋から消すことができるのでは。そんな想像が頭に浮かんだが、すぐさま打ち消す。気付かないままでアルコールを摂取させて命を奪ったとしても間違いなく寝覚めが悪くなるに違いないのに、知っていて気付かないふりをして殺したとなれば罪悪感に耐えられそうにもない。とにもかくにも、酒をとらせないのが無難だと思い、魚焼きグリルに火を入れる。
その後、魚の他に細々としたツマミを用意するなどして、予想通りの飲み会になった。栗栖は上機嫌に彼女とのあれこれを惚け、魚を貪り食った銀子は口寂しくなったせいか、前もって静止したにもかかわらず、平気に決まってるでしょ、などとのたまってアルコールを一口飲んで床に転がってしまった。俺は、大丈夫か、と思いながらも、人間の医者にかけていいのか獣医にかけるべきなのかわからなかったことと、比較的寝息がやすらかだったのもあり、様子身を決めこんでブランケットをかけた。その様を異常に優しげな眼差しで見守る後輩をやけに印象深く思いながら、終電前まで飲み会を続けた。
後輩が帰ったあと、安らかに眠り続ける銀子を見て、再びアルコールを摂取させてしまったことに対する不安が膨らんだりしたが、翌朝には何事もなかったかのように餌をねだってきたので、思わずデコピンをしてしまい大喧嘩になった。
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