第3話
それから数日後、
「私、猫なんだよね」
少女に言われて、
「さようか」
特に何の感動もなく受けとめる。少女は目付きの悪さそのままに瞬きをした。
「もっと、他に言葉はないわけ」
「なんか付け加えることがあったか」
そう思いながら、卓袱台の上の皿で、せびられて出した焼いた鯵を猫食いする少女を見る。かえって、少女は面食らったみたいで、
「いや、今の人間ってそういうのに驚くんじゃないの? 電気屋のテレビで見たドラマとかアニメでそんなことを言ってた気がするんだけど」
などと尋ねてから、また鯵を一口。思い切り頬をゆるめる。不覚にも可愛らしいと思ってしまった。
「そりゃそうなんだが」
頭を掻く。
話の合間に猫食いを続ける少女の姿。
ここ数日。なにかに驚くと、信じられないくらい飛び上がったり、外で近所の野良猫と四つんばいで睨みあったり、なんか急に鼠を咥えて捕ってきておやつとか言い出したり、
「だって、お前、普通の人間っぽさゼロだし。だったら、猫って言われた方がずっとしっくり来るっていうか」
すっかり身のなくなった魚の骨を舐めたあと、猫は不思議そうに首を捻り、
「いや、どこからどう見ても人間だったでしょ。ここ何年か見てきた通りに振る舞ったんだし、どう見ても完璧だった」
自らの行いに疑いを挟んだ様子もなくそうのたまう。頭を抱える。とりわけ、常識で考えればどこからどう見ても人間なこの少女が実は猫である、という方がおかしいのだ。であるのならば、自分を猫だと思いこんでいる精神異常者だと捉えるのが無難なところだろう。もっとも、猫だろうと精神異常者だろうと、さして対応は変わらないのだが。
「それでその猫さんが、俺に何の用だ。ついでに、用が済んだらさっさと出て行って欲しいんだが」
うんざりしつつ尋ねると、自称猫な少女はコップに顔を近づけてぺろぺろと水を舐めてから、
「こんないたいけな猫を、外に放り出す気なわけ」
冷やかな眼差しを向けて尋ねてくる。
「これまでは外で生きてきたんだろう。だったら、今から外に放り出されてもさして変わらないんじゃないのか」
とはいえ、俺としてもこの自称猫の面倒を見る義理もなければやる気もないため、突き放すことに対してさして罪悪感がない。なにより今まで生きてこられた以上は、これから生きることにもさして支障はないだろう。途端に少女の目が細まった。
「あんた、昔とちっとも変わらないんだね」
昔、という言葉が頭の片隅で引っかかる。自称猫は銀色の髪を掻きあげながら、
「雨の日だろうとなんだろうと子猫を外に放っておくようなやつなのは変わりないんだ」
忌々しげに呟く。数瞬後、何年か前の夜の記憶が蘇えった。
「お前、あの日の子猫か」
「やっと、思い出した」
自称猫の少女は表情を怒りに染める。
「あの日から、長い間、それはもう、生きてくだけで大変だった。なんとか屋根とか木の下で雨風をしのいで、ひもじいのに耐えながら数少ない食料をなんとか手にいれて、他の猫とも上手くやれなくて逃げ回る毎日」
「そう、か」
とりあえず大変だったのは伝わってきた。とはいえ、
「でも、ここペット禁止だったしな」
その点は今も昔も変わらない。
「いいじゃん。こっちは死にそうだったんだから」
「けど、お前、一日かくまったらここに居つくつもりだっただろう」
「うん、そうなったんじゃない。とても嬉しくなって毎日、このベランダに来たと思う」
微笑む。猫髭が生えたような幻視。気のせいかもしれないが、きわめて可愛らしい笑顔に騙されそうになる。
「それで飼ったとしても、いずれ大家さんに見つかってもっと酷い目にあったかもしれない。第一、当時の俺の財政はカツカツだったから碌に餌も与えられなかっただろう。結果として、やっぱり飢え死んだかもしれない」
当時の事情を伝える。おおむね当時の事情に基づいた言い訳だった。
「だから、あの日、どう動いたとしてもさして事情は変わらなかったよ、きっと」
「それでも」
自称猫はこちらをキッと睨みつける。
「せめて一晩でも、助けて欲しかったの」
その声は、俺の罪悪感を揺さぶった。とはいえ、こちらの言うことは変わらない。
「どっちにしろ終わったことだ。今も、二人、いや、一人と一匹を養うほどのゆとりはない」
端的に事実を伝える。少女は途端に不満気な顔をした。
「また、追い出すつもりなんだ」
「なにはともあれ、お前は今まで一匹で生きてきたんだろう。だったら、これからもそれでなんとかなるんじゃないのか」
野良猫の寿命は短い。そんなどこかで聞いた話には気付かないふりをする。第一、自分の命で手一杯なのにもかかわらず、人様、否、猫の面倒を見る余裕まではないし、そこに気力を割こうとは思わない。
「やっぱり、思った通りだ」
猫の少女は一人納得したように床にころん転がり、動かなくなる。
「何が思ったとおりなんだ」
「あんたが自分以外に少しも優しくないオスだってこと」
決めつけるような物言い。やけに知った風な口を聞くな、とぼんやり思いつつも、さほど腹は立たなかった。
「誰しも自分が一番可愛い。それはお前だって変わりないんじゃないのか」
「そうかもね。だから、自分のことだけ考えるよ」
なんて言って、高く飛び上がったかと思えば、ベッドの上へと乗っかってみせた。
「何のつもりだ」
「疲れたから、寝ころんだだけだけど」
猫の少女はごろごろと喉を鳴らしながら、気持ち良さそうにベッドにだらりと身を横たえている。
「そこは俺の寝床なんだが」
「知ったこっちゃない」
しれっとそう口にした。そもそもやってきた日からずっとベッドはこの自称猫の少女に占有されている。
「ここの家主は俺なんだが」
「それがどうした。家主だろうとなんだろうと、気持ちいいから寝ているだけだよ」
会話が成立しない。否、わかって成立させていないだけなのか。仕方なしに、ベッドへと近付き、引っぺがそうとして、その体に触れようとする。
「やれるだけ勝手にしてやるつもりだから」
覚悟しといてね。そう付け加えた猫の少女は、すぐさま寝息を立てはじめる。あまりにも安らかかつ無防備な表情に、思わず手が出しにくくなった。
ベッドの横で膝立ちになりながら、寝転がる少女を見下ろす。どうにかして追い出さなくては。そんな意識がある一方で、この勝手きわまりない猫を放っておきたい気持ちもまた俺の中には存在した。
何年か前の罪悪感が蘇えってきたのか、あるいはわざわざ相手にするのが面倒になったのか。どちらかは判断がつかなかったものの、とにもかくにもブランケットをばさりと上からかけてやる。
直後に蹴飛ばされたブランケットが俺の顔にボスンとぶつかった。
やっぱり明日追い出そう。
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