第2話

 それから何年かが経ったある強い雨の夜。

 この日、仕事が終わりくたくたになっていた俺は、さっさと風呂でも入って寝るかと思いながら、学生の頃からずっと住んでいる下宿の手前の道まで傘を片手にやってきたところで、ふと足を止めた。

 下宿前にあるそれぞれの部屋用ポストの集まりのすぐ横に、少女が立っている。長い銀髪をしたその少女は、髪と同じ色の半袖のワンピースに身を包み仏頂面をしていた。顔立ち自体は整っていたが、目付きの悪さのせいで色々と台無しになっている。

 見たことがない顔だ。そんな感想を抱く。あまり、交流がなかったから確証はなかったものの、おそらくご近所さんではないだろうと判断した。だとすれば、雨宿りだろうか。あるいは待ち合わせか。ぐだぐだ考えつつ、自分の部屋番号が書かれたポストの中をあらためる。中にはマンションの宣伝と近所でこれからオープンするコンビニのスタッフ募集のチラシがあった。

「ねぇ」

 聞き覚えのない声が耳に飛びこんでくる。ゴミを増やすのが面倒で、ポスト内のチラシは見ないふりを決めこんだ。

「ねぇってば」

 呼び声が大きくなった。どうやら、こちらに話しかけているらしい、と察し、振り向く。あるのは先ほどとさほど変わらない仏頂面。念のため、自分の方を指差すと、少女は頷いてみせる。

「ここに住んでるんでしょ」

「そうだけど」

 それがどうかしたのか、みたいなことを訊こうとしたところで、少女が、じゃあさ、と前置きをしてから、

「泊めてくれない?」

 と言った。目つきは悪いままで、嫌々という感じ。はっきりいって、人に物を頼む態度ではない。

「急にそんなことを言われてもな」

 見ず知らずの男にいきなり泊めてくれなんて頼んでくるうら若き少女。どこからどう見てもわけありだし、まず騙されていることを疑うべきだろう。なにより、今は疲れている。見るからに面倒なことにはかかわりたくはない。

「一泊でいいからさ」

 どことなくイラだった少女の表情。明らかに不承不承といった体だった。見れば見るほど、泊める気が失せていく。

「ホテルかネカフェにでも泊まればいい」

「お金、ないし」

「じゃあ、友だちの家にでも泊めてもらえばいい」

「そんなの、いない」

「他をあたってくれ」

「ここがいい」

 別の道を示しても、少女は聞く耳を持たずこの場所にこだわる。より関わりたくないという気持ちが増したものの、少女は梃子でも動かないように見えた。しばらくの間、睨み合う。ざーざー雨の音がうるさい。

 ついには覚悟を決めて、目を逸らして歩きだした。後ろからついてくる気配。気付かないふりをする。

 程なくして、自分の部屋の前へとたどり着くや否や、少女が扉の前で両手を広げて立ちふさがっていた。いつ追い越されて、前に回られたのかわからない。

「どいてくれないか」

「泊めてよ」

「他をあたれ」

 先程と似たようなやりとりをかわす。少女は黙りこんでこちらを見つめるばかりだった。雨音に乗せられて少し冷たい風が頬を撫でる。このまま立ち尽くしている時間が不毛な気がした。溜め息を吐く。

「わかったから、どいてくれないか」

 観念した。途端に少女はこちらを頭から足まで舐めるように見つめる。なんでこんな仕打ちを受けなければならないのかと思ったものの甘んじて受けいれた。やがて少女は満足したのか、扉の横へと体をずらす。

 あらかじめ取り出して置いた鍵を穴に差しこんで回した。隣から手元を見つめる気配。ここまで疑われるのであれば、一人だけ体を滑り込ませてしまおうか。そんなことを思いもするが、外で騒がれたりすれば迷惑きわまりないと考え、扉を大きく開けて、どうぞ、と入るよう促した。

「ありがと」

 申し訳程度のお礼とともに、少女はそそくさと室内へと飛び込んで行く。呆気にとられてその後ろ姿を見つめたあと、一歩遅れて部屋に入りこんだ。

 電気をつける。まず目に止まったのは明日出す予定のビールとコーヒーの缶がまとまったゴミ袋が二つ。我ながら随分と飲んだな、などと思いつつ、部屋を見回す。

 小さめの冷蔵庫、洗い物が残してある台所、トイレの扉、縛ってある雑誌、食器棚。そういったものの変わらない配置を見つつ、少女の姿がないことに気付く。

 早足でより奥のやや大きめな部屋へと移動し、電気をつけた。文庫本や雑誌、卓袱台などで埋まった床の間の道を抜けていく。窓際に置いてあるベッドの上で少女が寝息を立てている。

 こいつ、何の許可もとらずに。忌々しく思いつつ、起きろ、と声をかけるが、何の反応もしない。いっそ、頬でも張ってやろうか、と思ったものの、未成年の可能性がある少女に触れて騒がれたりすれば、一騒ぎになるかもしれないし、最悪ならなくとも後日諸々のあることないことを盛られた上で訴えられれば言い逃れの仕様もなく下宿を追い出されるかもしれない。住み慣れているうえに、年々家賃が安くなるこの場所を手放す気にはなれなかった。そもそも、少女を家に入れてしまった時点で、そのことが露見すれば俺の立場はただただ悪くなるばかりであるのだが、ほとんど無理やり押し切られた以上、仕方なかったと割り切る。

 押入れの中からブランケットと客用布団を取り出し、フローリングの上へと敷く。そうしたあと、あらためてベッドの上を見やる。

 寝息を立てる少女の表情はただただ安らかで、先程までの嵐じみた活力が噓のように思えた。手元で寝間着とバスタオルを用意している最中、もっとじっと覗きこめば、銀色の睫毛の長さが気になる。ここまで周到に染めたんだろうか。毛髪を染めたことがないだけに、随分ご苦労なことだな、なんて思いながら、風呂場のほうへと歩いていく。


 十数分後。客用布団の上に置いておいたブランケットは少女の上にかかっていた。風呂上りの気持ちよさに水を差されたような気分になりながら、再び押入れを開け放った。

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