第二十九話 母、来襲/琴音サイド
奇妙な緊張感に包まれ、誰も反応出来ないでいるうちに、カラオケ機が玖珂崎さんの歌の採点を始める。ちらりと流し見た点数は九五点。なかなかの高得点だ。これだけで、彼女がこの曲を以下に歌い込んで来たかがわかる。
その努力は称えよう。しかし今重要なのはそこではない。玖珂崎さんが亮輔君に対して、愛の告白を
それをなかったことにするのは容易ではない。よほど強い衝撃で打ち消さなければ、亮輔君は玖珂崎さんの胸中に気付き、自然とこれまでとは違う関係になって行くだろう。
それだけは阻止したい。そう思う自分がいた。
「凪……。俺は――」
亮輔君が何か答えようとしている。
いけない。私の直感がそう叫ぶ。亮輔君が口にしようとしているのは、玖珂崎さんにとって都合がよく、私にとっては都合が悪い、そんな内容に思えたからだ。
咄嗟に会話に割って入ろうとした瞬間。部屋の扉を開け放って、見知った顔の女性が入り込んで来た。
「お母……様……」
そう。乗り込んで来たのは私の実の母親――皇静音その人だ。年齢にして四○代手前だと言うのに、二○代の頃と変わらぬ美貌を持った魔性の女。元々は一般家庭の生まれだが、その美貌と才覚で、当時皇財閥の跡取り候補であった父に見初められ、見事皇財閥の一員となったという。現在は皇グループ傘下のいくつかの会社の取締役を兼任する一方で、自ら立ち上げたファッションブランドも経営しているバリバリのキャリアウーマンだ。
そんないくつもの会社を抱えた人が、何故こんな時間に、こんな場所にやって来たのか。そもそも私の居場所を知っているのは皇傘下の人間では新垣だけのはずだ。
「……どうしてここに?」
私は母に問う。
「それは、あなたが皇家の人間として恥ずかしくない生活をしているか確認するためです」
母は静かに答えた。相変わらずよく通る声だ。カラオケ屋特有の喧騒の中でも、はっきりと耳に届いてくる。
「それは毎日ご報告差し上げているではないですか! そもそも、どうして私がここにいるとわかったのです?!」
私は思わず声を荒げた。いくら母親とは言え、私ももう小さな子どもではないのだから、こちらのプライベートにはあまり口を出して欲しくない。
「新垣はあなたの専属メイドである前に、皇家の使用人なのですよ?」
やはり情報の出所は新垣のようだ。普段は口の堅い新垣だが、母からの指示では口を開かざるを得ないだろう。下手に逆らえば、それこそ未来がないのだから。
「確かにあなたからの報告は耳にしています。しかしあなたももういい歳でしょう? 隠しごとの一つや二つはあるかと思いまして、こうして確認に来た次第です」
言われてすぐに気付く。妙に素直に転校させてくれたと思ったら、こんなところで突っ込んでくるのか。確かに説得する際には、適当に耳障りのいい言葉ばかりを選んだのだが、どうやら母は持ち前の直感で私の意図に気付いたらしい。
「それで? そちらの殿方達は、あなたとどういう関係なのかしら?」
そういうことか。恐らく母は亮輔君のことを耳にしている。いくら母親とは言え、あまり深く踏み込まれるのは気に食わない。
「私の友人です」
ちくりと胸が痛む。輝崎君はともかく亮輔君をただの友人と呼んでしまっていいのだろうか。両親には内緒にして来たとは言え、彼は専属執事に抜擢した、私のお気に入りだ。せっかく見つけたのだから、わざわざ手放すような真似はしたくない。
「本当にそれだけ?」
「何がおっしゃりたいのです?」
本当はわかっている。母が何を言いたいのかを。
「では単刀直入に聞きます。あなたはそちらの殿方達と、男女の関係になりましたか?」
やはり来たかと、私は身体を硬直させた。亮輔君と初めて出会った夜。私達は同じ屋根の下に二人きりでいたのだ。そういう疑いをかけられても仕方がない。
「荒木から話は窺っています。先日、あなたが家を抜け出した際、少年と行動を共にしていましたね? 確か朝霧亮輔さんでしたか。そこにいる殿方のどちらかが、その朝霧亮輔さんなのではないのかしら?」
荒木と言うのは、あの晩、亮輔君が体当たりをした黒服の名前だ。咄嗟のことだから顔までは覚えていないだろうと踏んでいたが、どうやら見込みは甘かったらしい。
「仮にそうだったとして、お母様に何か不都合が?」
「もちろんありますよ。あなたはいずれ皇財閥の跡取りとなる方と結婚をする身なのですから、それまでは清い体でいてもらわないと。そういった遊び相手を作るのは、子どもを生んでからでも遅くはないでしょう?」
遊び相手。この場合は不倫相手という意味だ。この言葉を聞いた瞬間、私の頭が激しく沸騰するのがわかった。
「――っ!? 亮輔君をそんな風に言わないで!」
私は亮輔君と、世間に公表できないような関係になりたい訳ではない。そもそもそんな言い方は、亮輔君に対しても失礼だ。
私は母を睨みつけ、右手を振り上げようとした。しかし――。
「いくら母親とは言え、その言い方は酷いんじゃないですか?」
いつの間に割って入ったのか。亮輔君が目の前にいた。私を背に隠し、母に立ち向かわんとする彼の何と勇ましいことか。そんな彼の姿を見て、私の心臓が大きく跳ねる。
「どちらかと思ったら、あなたの方でしたか。なるほど。確かによい目をしていらっしゃる」
心臓の鼓動がうるさくて、母が何を言っているのかよくわからない。
「あなたのお嬢さんは行きずりの男と関係を持つような女性ではありません。謝罪してください」
「あら。それをあなたが言うのですか? 人様の娘を勝手に連れ出したあなたが」
久しぶりに見る亮輔君の背中。男の子としてはそれほど大柄ではないけれど、それでも女子である私から見れば、充分に広くて、逞しい背中だ。
「確かに、私の勘違いでお嬢さんを連れ出してしまったのは事実です。ですが誓って、やましいことはしていません」
「口では何とでも言えますよ?」
「おっしゃる通り。しかし、ないものはないのです。それを証明せよと言うことは、まさしく悪魔の証明になります。それともお嬢さんの身体検査でもしますか?」
亮輔君の声だけは妙にはっきりと聞こえる。どうやら必死に私を庇ってくれているらしい。何と言う男らしさか。こういう時、女である私は痛感する。結局のところ、女性というのは少なからず、男性の庇護下にあることに幸せを感じるものなのだ。
しばしの無言。それでも私にとっては、長い長いものであった。その間に私は若干の冷静さを取り戻す。
「……なかなかよい人材を発掘したようですね、琴音」
ふと母の口からこぼれた一言。その一言に、これまであったプレッシャーは感じない。どうやら母も、亮輔君の凄さに気付いたようだ。
「そりゃ~もう。この私が見出した人材ですから」
私は気をよくして、自らの腰に手を当てる。そんな様子の私を見て、母はフッと笑みをこぼした。
「改めまして、琴音さんの暫定専属執事をさせていただくことになりました。朝霧亮輔です」
亮輔君が頭を下げる。その姿はお世辞にも上手とは言えなかったが、私のために精一杯を尽くしてくれているのだと思うと、胸が躍った。
「まぁ、琴音が専属執事をつけるなんて。今までは男性使用人のことを毛嫌いして、身の回りのことはみんな新垣に任せきりだったのに」
思わぬ母の一言に、私は動揺する。
「あ、お母様! それは亮輔君には秘密なのに!」
これ以上余計な昔話をされてはたまらない。私は母の口を手で塞ぐ。すると母が耳元に顔を寄せてきて、意地悪な笑顔で小さく呟いた。
「なかなかいいじゃない、彼。彼なら
私は頬が熱くなるのを感じる。何せ、母はこう言ったのだ。亮輔君ならば、私の将来の結婚相手として丁度よいのではないかと。
「ちょっ! お母様っ!?」
そこまで考えていなかった私はただただ動揺するのみ。玖珂崎さんのせいで胸を騒がしていた焦燥感も、今ではすっかり消えている。亮輔君の方を見ると、彼の口元も緩んでいた。
「亮輔君も! 何ニヤニヤ笑ってるの!?」
「あれ? 俺笑ってた?」
亮輔君は口元をぐりぐりとこねくり回している。そのしぐさはちょっと可愛いが、今はそれどころではない。
「ああ、もう! お母様! こんなところでいつまでもお話している暇はないのではありませんか?!」
「あら、そうでした」
母は黒服達に今後の予定を確認し、去り際に亮輔君に視線を向ける。
「朝霧さん、今日はお話が出来てよかったです。私は皇
「……は、はい」
「娘のこと、どうかこれからもよろしくお願いしますね」
「その点に関してはご心配なく。執事として、誠心誠意お仕えさせていただくので」
執事としては申し分ない答えなのに、どこか物足りなさを感じるのは、先ほどの母の言葉が原因なのだろうか。
「執事として……ですか。本当にそうなるか怪しいものですね」
それだけ言い残して、母は黒服達を引き連れて去って行った。
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