第十八話 ハプニングは突然に/凪サイド

 朝。


 いつもの時間に亮輔に起こされる。あたしにとってはこれこそが日常。いつまでも変わらない、当たり前のことだと思っていた。


 そう、この日までは。


 落ちそうになるまぶたを何とか持ち上げながら、制服に袖を通す。ワイシャツのボタンを閉めながら、一向に育つ気配のない胸を見下ろした。


「何で育たないかな~」


 牛乳は毎日欠かさず飲んでいるし、豊胸にいいとされるマッサージも行っている。にもかかわらず、この小さな胸は膨らむ素振りのひとつも見せてくれない。母親からして胸が小さいのだから、希望を持つことすら許されないと言うことなのか。


 あたしは知っている。亮輔は胸の大きな女子が好きだと言うことを。幼い頃からずっと一緒にいたのだ。あいつの視線を追っていれば、自ずと見えて来る。特に最近はその傾向が顕著で、周囲に胸の大きな女子がいると、吸い寄せられるように視線を送っているのがわかった。


 亮輔もお年頃だ。それ自体は仕方のないことだと思っている。問題なのは、その視線の先にいるのがあたしではないということ。当たり前のこと過ぎて普段はあまり意識していないが、亮輔とあたしは二人で一組なのだ。一緒にいることが自然であり、そこに他者の介入する余地はない。


 なのにだ。最近は亮輔は他の女ばかり見ている。亮輔はボッチだから、今までは女子側からのアクションはなかったのだが、ここに来て皇の登場である。彼女があらゆる手段を用いて亮輔に近づこうとしているというのは一目瞭然。これはよくない兆候だ。亮輔が彼女の執事をするということになれば、あたしと一緒にいる時間よりも、皇と一緒にいる時間の方が増えてしまう。そうなったら最後、あたしと亮輔の関係が途絶えてしまうのではないか。そんな気すらしてくる。


「そんなの嫌だ」


 生まれた時から一緒にいて、二人で仲良くやって来たのだ。今になってその関係が終わってしまうなんて、とても考えられない。何とかして、亮輔と皇を引き離す必要がある。


 とここまで考えて、あたしの思考がふと止まった。


「何であたし、亮輔を取られたくないんだろう」


 確かに亮輔はいい奴だ。顔は普通だが、気配りが出来るし、料理は上手い。あたしの話をいつも親身になって聞いてくれるし、休日は一緒に遊んでくれる。亮輔と一緒にいると、心がホワホワして、とても満ち足りた気分になるのだ。


「あれ? これって――」


 確か昔読んだマンガに出てきた気がする。専ら少年マンガばかり読んでいたあたしが、唯一読んでいた少女マンガ。幼馴染に恋をして、いくつもの障害にさらされながらも、最後にはめでたく結ばれる。そんなストーリーだったはず。


「恋?」


 幼馴染に惹かれる主人公が、今の自分と重なって見える。


 あたしと亮輔は幼馴染で、一緒にいると幸せで、でもそれが辛い時もあって。今のままがいいのか、もっと違う関係になりたいのか、そんな風に考える。これはまさに少女マンガの主人公が体験していたことそのものではないか。


 その瞬間、あたしの中で何かが繋がった気がした。


「そうか。あたし――」


 考えてみれば、気付く機会はこれまでにも何度もあったのかも知れない。それを見落としてきたのは、ひとえにあたしが未熟だったからだ。詩音先輩の言っていた言葉の意味も、今なら理解できる。


「失ってから気付いたんじゃ遅いんだ……」


 皇が亮輔に恋をしているかはわからないが、それがどんな関係であれ、このままでは亮輔を彼女に取られてしまう。皇は亮輔のことを大層気に入っている様子だし、亮輔の方も積極的な皇の勢いに流されつつあるのが現状。皇は美人だし、胸も大きいし、亮輔にとっても放っておけない存在のはずだ。


 となれば、あたしが取るべき行動はひとつ。亮輔と皇の間に割って入ることだ。


「よし。さっさと着替えて亮輔のところに行こう」


 そうと決まれば善は急げ。あたしはさっとブレザーを羽織り、荷物を手に取ると、玄関の扉を開けた。すると――。


「え……」


 出くわしたのは、亮輔と皇が彼女の部屋から出てくる場面だった。思わず身体が硬直する。


「亮輔……何で……」

「いや、その、あれだ。俺は皇さんを起こしに行っただけで、やましいことは何も――」

「なら何で二人して部屋から出てくるんだよ」


 亮輔が言葉に詰まった。それはつまり、皇との間に何かしらの出来事があったと言うことだ。


 次の瞬間には、あたしはその場から駆け出していた。考えての行動ではない。無意識に身体が動いていたのだ。


 あたしの行動に対する亮輔の反応は気になったが、振り向くことなく、あたしは走り続ける。どこをどう通ったかはわからないが、気付けばあたしは学校に到着していた。


 荒くなった呼吸を落ち着けようとするが、先ほどの場面が脳裏に浮かんで、上手く呼吸が整えられない。頬を流れた汗が滴り、地面にいくつものしみをつける。


「……亮輔」


 この動揺は間違いない。あたしは亮輔に恋をしている。別の女性と親密な関係になろうとしている亮輔を見て、我慢が効かなかったのだ。


「どうした、凪? そんな血相変えて」


 膝に手をつき、頭を下げているところに、詩音先輩の声がかかる。あたしはすぐさま声のする方に目を向けた。いつもと変わらぬ詩音先輩の姿。その様子に、あたしは少し落ち着きを取り戻す。


「詩音……先輩……」


 あたしは縋るように詩音先輩にもたれかかった。そんなあたしを詩音先輩は優しく受け止めてくれる。


「話は聞くから、まずは呼吸を整えな」


 朝練前だし、あまり詩音先輩に迷惑かけても悪いかなとも思ったが、今は取り繕うだけの元気が出る訳でもなく。あたしは大人しく詩音先輩の胸の中で深呼吸をした。




 どのくらい時間が経っただろう。落ち着きを取り戻したあたしと詩音先輩は、中庭のベンチに座っていた。


「それで? 何があった訳?」


 詩音先輩が切り込んで来る。こういう時、変に気を使わないのが詩音先輩のいいところだ。あたしは今朝あった一連の出来事を、そっくりそのまま詩音先輩に話して聞かせる。


「なるほどね~。くだんの彼が転校生と」

「はい。咄嗟に逃げてきちゃったけど、あたしどうすればいいのかわからなくなっちゃって……」


 詩音先輩は「ふむ」と顎に手を当てて、考え込む素振りを見せた。


「亮輔君は皇さんと一緒に部屋から出てきたんだよね?」

「そうです。何か二人とも妙に親しげで――」

「でも二人の間に何があったか、まではわからない、と」


 コクリと頷く。


「まぁ、皇さんが亮輔君を相当気に入ってるっていうのはわかった」


 私はがっくりとこうべを垂れた。はっきり言って、容姿で比べたら、あたしが皇に勝つ道理はない。亮輔が彼女を選んだとしても、仕方がないと、心のどこかで思ってしまっている。


「でもさ、それってあくまで皇さんの一方的な好意だよね?」


 だからこそ、詩音先輩のこの一言に、あたしはとても驚いた。


「え、だって、皇は美人でスタイルもよくて、あたしなんかとても太刀打ちできる相手じゃ――」

「亮輔君がそう言った訳?」

「え、いや、そうじゃないですけど……」

「なら、まだ亮輔君が皇さんを選んだと決まった訳じゃないじゃない」


 「それに」と前置きをしてから、詩音先輩はニヤリと笑う。


「ようやく凪も自分の気持ちに気が付いたみたいだし?」


 しまった、と思った時には既に遅かった。詩音先輩は実に楽しげな様子で、あたしに詰め寄ってくる。


「もっと早く素直になってれば、こんなことにはならなかったかも知れないのに」

「そ、それは、幼馴染なりの距離感の問題と言うか、何と言うか……」


 実際、幼馴染と言うのは、元々距離が近い分、下手に関係を弄りにくい部分があるのだ。離れればそのまま疎遠になってしまうし、逆に近づけば、今度は家族のようになってしまう。幼馴染から恋人になるというのは、実は案外難しいものだ。


「で、これからどうするの?」

「どうって……」


 言葉に詰まる。皇には取られたくないけど、だからと言って自分から行動を起こせるかと言えば、それはまた別の話。正直、あんなに素直に好意を示せる皇が羨ましくもある。


「黙ってたら何も伝わらないよ?」

「それは、そうなんですけど……」


 現実は恋物語のように、最後はハッピーエンドと決まっている訳でもない。もちろん全ての恋物語がハッピーエンドを迎えている訳ではないのは知っているが、あたしのケースがそうなったらと思うと、足がすくんだ。


「とにかく、自分の気持ちに気付いたなら、積極的にアピールしていかないと」

「アピール、ですか?」

「そうだよ。凪はイケメン系だけど女の子なんだから、ストレートに好意を示せば、大抵の男は釣れるって」

「そんな魚釣りみたいに――」


 「魚釣りみたいに上手く行く訳がない」と言おうとしたが、食い気味の詩音先輩に言葉を遮られてしまう。


「いい、凪。恋は戦争よ? 魚釣りみたいに餌垂らして待ってるだけじゃダメ。あの手この手で相手を誘惑するの」

「誘惑って……」


 自分の小さな胸を見下ろした。どう考えても、この部分では皇には勝てない。


「胸の大きさが何だ。女の武器は一つじゃないんだよ?」


 そう言って、詩音先輩は私のシャツをぺろりと捲った。


「ちょっ――、先輩、何を!?」

「この引き締まったボディーを御覧なさい。鍛え上げられていて、それでいてゴツくないおなか。それに――」


 詩音先輩があたしのお尻をむんずと掴む。


「適度に重くて張りのあるおしり。あんたのポテンシャルは高いってこと、もっと自覚しなさい」


 いつもの詩音先輩らしくはないが、熱の入った演説は多少なりともあたしに勇気をくれた。


「あたし、自信持ってもいいんでしょうか」

「心配すんな、あんたは可愛い! 恋する乙女はいつだって最高に魅力的なんだから!」


 詩音先輩はグッと拳を握り、声高らかに叫ぶ。その様子がおかしくて、あたしはつい吹き出してしまった。


「こらこら、あんたのために恥ずかしさを偲んで叫んだんだから、笑わないでよ」

「ごめんなさい。でも、本当に感謝してます、詩音先輩」


 あたしは立ち上がって、詩音先輩に右手を差し出す。その意図に気が付いたのか、詩音先輩はすぐにあたしの手を取ってくれた。


「あたし、これから頑張ってみます。どこまで出来るかはわからないけど……」

「もしダメだったら言いなさい。私も力になってあげるから」

「はい! よろしくお願いします!」


 女の友情を確かめ合ってから、あたし達は少し遅れて朝練に参加する。先生には怒られちゃったけど、後悔はしていない。だって向かうべき未来が、こうしてはっきりと見えたのだから。

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