第八話 幼馴染/凪サイド

 いつもよりちょっと遅い時間。隣の部屋の鍵が開く音がする。このアパートは壁が薄いからこういうのよく響いてしまうのだ。まぁ、帰ってくるのがちょっと遅くて気にかけていたからって言うのもあるのだが。


 あたしは部屋着のまま、亮輔を出迎えるために玄関の戸を開く。


「あ、亮輔。おかえ……り」


 亮輔と一緒に知らない女がいた。


 亮輔とは幼馴染で、同じ新潟県の山の中で育った。亮輔が東京の高校を受験すると言い出した時は驚いたが、あたしも頑張って同じ高校を受けることにしたのだ。楽な道のりではなかったけれど、それでも何とか同じ高校に入学することが出来た。あたしがそこまで頑張れたのは、亮輔がいたから。亮輔とは同じ病院で同じ日に生まれた。それからずっと一緒にいたのだから、これからもずっと一緒にいるのだとあたしは思っている。それなのに。


「誰、その女」


 自分でも思った以上に低い声だったと思う。それくらい衝撃だった。亮輔が自分以外の女と一緒にいることが。


「誰って、今日転校してきた皇さんじゃないか。同じクラスなんだからそれくらい憶えとけよ」


 転校生? ああ。そう言えばそんな話を聞いた気もする。興味がなかったから聞き流していた。でも、大事なのはそこではない。


「そういうこと聞いてるんじゃない。どうして亮輔がその皇さんとやらと一緒にいるんだよ」


 あたしが気に食わなかったのは、亮輔が他の女と一緒にいたこと。自分でもどうしてそんな風に思ってしまったのかはよくわからないが、とにかく気に入らない。


 そんなあたしに、亮輔はことの経緯を説明してくれる。夏休みに皇さんとやらと出会ったこと。皇さんとやらが転校してきたこと。皇さんとやらが隣に引っ越して来たこと。皇さんとやらがバイト先まで押しかけてきてバイトをクビになったこと。


 ってちょっと待った。クビ!? バイトを!?


 思わず表情が険しくなる。


「何だよそれ。疫病神か何かか?」


 どうして亮輔がバイトをクビにならなければならないのだろうか。皇さんとやらをにらめ付けると、眉間にしわを寄せた皇さんとやらが、あたしの前に立ちはだかった。


「随分な物言いね、玖珂崎凪さん?」

「な、何だよ。あたしのこと知ってるのかよ」

「それはもうしっかりと調べさせてもらったもの」


 皇さんとやらが不敵な笑みを浮かべる。


「何なら、今あなたが使っているパジャマのメーカーまで知ってるけど?」

「なっ!?」


 あたしのパジャマのメーカーを知っている!?


「い、い、い、言うな! それ以上言うな!」


 これはまずい。亮輔にだけは知られたくない。こっそりちょっとエッチなパジャマを使っているなんて。そりゃいつかは亮輔にも見てもらって、一緒に寝てみたいとか思っているけれど。少なくともそれは今じゃない。それは間違いないはずだ。


「全く。皇だっけ? お前おっかない奴だな」

「褒め言葉として受け取っておくわ」


 これ以上いらぬ情報を漏らされる前に引いておいた方が身のためだろう。


 その時、亮輔のお腹が鳴る音が響いた。今までバイトだったのだから夕飯はまだ食べていないのだろう。


「んじゃ、俺は部屋に戻るよ。おやすみ二人とも」


 部屋に入っていこうとする亮輔の腕を掴む。


「な、なぁ、亮輔。その、何だ。夕飯のおかずが残ってるんだけど、よかったら食べるか?」


 本当は亮輔と一緒に食べようと思って用意していたのだが、つい嘘を吐いてしまった。素直に伝えるのが、何だか無性に恥ずかしかったからだ。


「それは助かるけど。いいのか?」

「あ、ああ。お前さえよければ……だけど」

「それじゃあ、いただこうかな」


 亮輔が笑顔になる。それだけで何だか報われた気がした。


「そ、そうか。それじゃあ準備して持っていくから、ちょっと待っててくれ!」


 喜び勇んで部屋へと駆け込む。用意したのは大量のから揚げ。亮輔の好物だ。作ってから時間が経っているからすっかり冷めてしまっているが、温め直せば行けるだろう。味見もしたし、きっと亮輔は喜んでくれるに違いない。


 あたしはトースターにアルミホイルを敷いてから揚げを温める。待っている時間が惜しいくらいだ。こんなことなら自分の部屋で温めないで、亮輔の部屋に行ってから温めれば良かった。


 温めを待っている暇な間に浮かんでくるのは先ほどの出来事だ。


「皇……か」


 随分と亮輔との距離が近かったけど、あれはどういうことなのだろう。皇というとあの皇――皇財閥なのだろうが、それがどうして亮輔と一緒にいるのか。何だか胸の内がモヤモヤする。


「そう言えば、亮輔の隣に引っ越してきたって言ってたっけ」


 亮輔の隣の部屋という事は、自分とは逆隣ということだ。


「あれ? 亮輔の逆隣って誰か住んでなかったっけ?」


 よく憶えてはいないけど、引越し初日に亮輔と一緒に挨拶に行った気がする。いつの間に引越しなんてしたのだろう。


 そんなことを考えていると、トースターがチンと鳴って、温め完了を知らせてくれる。蓋を開けると、油がジュージュー鳴って美味しそうなから揚げがそこにあった。


「うん。我ながらいい出来!」


 あたしはキッピンペーパーを敷いたタッパーにから揚げを移し、亮輔の部屋に向かう。一応インターホンもあるけど、亮輔とあたしの仲だもん。鳴らす必要ないよね?


 亮輔の部屋の扉を開けて中に入る。


「亮輔! 今日はから揚げいっぱい作ったんだ! だからおすそ分けに……」


 あたしの視界にありえないものが映った。皇だ。


「……どうして亮輔の部屋に皇がいる訳?」


 心がスッと冷めていく気がした。ここはあたしと亮輔の居場所。他の女がいていい場所じゃない。


「どうしてって、言ってなかったかしら。今日から亮輔君は私の専属執事になったのよ」

「はぁ!?」


 執事? 執事って、あの執事か? マンガとかに出てくる。


「亮輔! どういうことだよ!?」

「ちょっと落ち着けよ、凪。俺もその辺りはよくわかってないんだ」


 再び亮輔がことの顛末を話してくれた。ちょっとあやふやでわかりにくかったけど。


「で、俺に執事にならないかって皇さんが」

「……いきさつはわかった。けど、執事って具体的に何をするんだ?」


 亮輔の方を見るけど、首を横に振っている。ならばと皇に視線を移すと、皇は右の頬に人差し指を当てながら答えた。


「簡単に言うと身の回りのお世話かな~。朝起こしてもらったり、食事の用意をしてもらったり、いろいろ。もちろんちゃんとお給料も出すよ? いくら欲しい? 月収で一〇〇万円くらいあれば足りるかな?」

「ちょっと待った! 桁がおかしいよね!」


 月収一〇〇万円。すごい金額だ。亮輔のバイトが月収五万円くらいって言ってたから、ざっと二○倍。一年以上働いてようやく手に入る金額である。そんな大金をポンと出せるのだから、流石は皇財閥と言ったところか。


「足りない?」

「どうしてそう思ったのかな!? 逆だよ! 多過ぎ!」

「え~、だって私の専属執事だよ? お金払ってでもなりたいって人がいるくらいだよ?」


 皇はよく見ると美人だ。こんな美人の下で働けるのなら、お金を払う人もいるかも知れない。


「とにかく、そんな大金受け取れないよ。そもそもまだ執事になるって決めた訳でもないし」

「でもお金欲しいでしょ?」

「そりゃ欲しいけどさ」


 亮輔がバイトばっかりしてるのはお金がないからだ。うちは近所の中では割りと裕福な家系だけど、朝霧家はそうでもない。きっと必死に仕送りをしてくれている両親に気を使っているのだろう。


「俺なんかに執事なんて務まるのかな」


 執事がどんな仕事かはあたしも知らない。出来ることなら手伝ってあげたいけど、あたしには部活があるし、そう都合よく時間を作れたりはしないのだ。


「最初は簡単なことからやってもらえればいいよ。とりあえず、今日の所はご飯から」


 そう言って、人差し指をピンと立てて見せる皇。スーパーの仕事はクビになっちゃったみたいだし、他に当てがあるとも思えない。恐らく亮輔はこの話に乗るだろう。そう思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。


「凪はもう夕飯は食べたのか?」

「いや、亮輔が帰ってきてから一緒に食べようと思ってたから、まだ……」

「それじゃあ、用意するから手伝って」


 亮輔からの「手伝って」は魔法の言葉である。これを言われると心の中がほわほわするのだ。あたしは「うん」と答えて、亮輔の横に並ぶ。


 亮輔のことだから、ご飯はきっと冷凍庫に入ってる。冷凍庫を開ければ、そこには一食分ずつラップに包まれたご飯が並んでいた。それを三つ取り出し、順番にレンジで温めていく。もちろんこの間にお味噌汁用のお湯を沸かしておくもの忘れていない。冷蔵庫の中身から考えて、今日のお味噌汁の具は豆腐と乾燥わかめだろう。なので豆腐を切るのは味噌を溶いてからでもいい。


 いざ調理に入ってしまえば慣れ親しんだ亮輔との時間だ。いつもだったら心がウキウキするところだけど、今日は皇がいるせいかちょっと乗り切れない。どうにも皇の存在が気にかかってしまう。ふと横を見ると、亮輔はいつも通りの表情でキャベツを刻んでいた。一体何を考えているのか。それが気になって仕方がない。


 皇の登場で、あたしの高校生活は構想から大きく外れてしまった。本当ならこのまま穏やかに亮輔と高校生活を過ごすはずだったが、予想外の障害が現れたのだ。まさか亮輔を狙う女が現れるなんて思っても見なかった。


 ここまで考えて、あたしはふと気付く。どうしてあたしは皇を邪魔だと思っているのだろうかと。これではまるで亮輔と二人きりになりたいと思っているようではないか。瞬間、顔が熱くなる。これは何だ。一体あたしはどうしてしまったのか。


 その正体が掴めないまま、時間だけが経って行く。次の問題が起こったのは翌日の朝。亮輔の部屋を訪れた時だった。

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