第六話 バイト/琴音サイド
亮輔君がバイトをしている間に、私はいろいろと準備を進める。本当はバイトをしている姿も目に焼き付けておきたかったのだが、引越しともなれば本人がいないことには始まらない。
元々この部屋に住んでいた親子に新居を宛がい、迷惑料としていくらかのお金を握らせたのが昨日のこと。喜んで退去して行った親子は今後新しい住まいで幸せに暮らしていくことだろう。
とにかく、空き室となったこのアパートの一○二号室を一日で私用に改良しなければならない。時間は有限だ。少しでも遅れれば私の計画に支障が生じる。多少狭いが住めば都とも言うし、そこは目を瞑ることにした。
「タンスはそっち。ソファーはそこで」
皇グループの息がかかった引越し業者に私物の搬入を急がせる。元々の私の部屋よりだいぶ狭いからこれでも結構荷物を厳選したのだが、それでも物で溢れかえってしまう。これは少し持って帰ってもらった方がよさそうだ。
最低限生活に必要なものを残し、搬入が終わった頃には、あたりはすっかり夕方になっていた。
「これが私の新居か~」
これまでは大きな屋敷の一室が私の部屋であったことを考えれば、生活のグレードはだいぶ下がる。それでもこの生活を選んだのは、ひとえに彼の存在があったからだ。
「お嬢様。本当によろしいのですか? このような住まいで」
メイドの
「ええ。構わないわ」
新垣は私が幼い頃からのお付で、歳も近い。今回の引越しに同行する唯一の使用人だ。今日からは新垣と同じ部屋で暮らすことになる。本人を説得するのには随分と苦労したけど。
「わかりました。もう何も言いません」
「結構。今日からはルームメイトね?」
そう言って右手を差し出す。新垣はそれを取らず、深々と頭を下げた。ほんと、この辺りは融通が利かないというか、頭が固い。
「さて、亮輔君の様子でも見に行こうかな~」
彼のバイト先はもちろんチェック済みだ。歩いて行くには少し遠いが、今からなら彼の勤務終了には間に合うだろう。
「お供します」
当然のように新垣がついて来ようとする。
「え? 新垣も来るの?」
「当然です。私はお嬢様の護衛も兼ねていますので」
護衛。自分でも大層な響きだと思う。逃れることの出来ない皇の血統という呪縛。それを体現しているようで、私はあまり好きじゃない。
「……ついて来るのはいいけど、亮輔君には見つからないようにしてよ? そういうの見ると、彼たぶん気を使うから」
「気配を消せと言われるのであればそうします。それも私の仕事ですので」
暗くなり始めた周囲に新垣の姿が溶けるように消える。もちろん本当に消えてしまった訳ではない。周囲の風景に溶け込むように気配を調整し、目立たなくなっているのだ。
思わずため息を吐く。何だか複雑な気分だ。ちょっと彼と会うだけなのにどうしてここまで警戒されなければならないのだろうか。私は彼と楽しくお話がしたいだけなのに。
「ま、いいか」
結局新垣を引き連れて、彼の職場であるスーパーへと足を延ばすこととなった。
スーパーへと到着すると、入り口からレジの様子を窺う。もうすぐ閉店と言うことで、店内は閑散としていた。それでもレジ担当の彼はきりっとした顔で立ち、たまに来る客の商品をレジに通している。
こんなきりっとした顔もできるんだ。学校にいる時とは正反対。その姿は初めて私の手を取ってくれた時のように頼もしかった。
「あれが噂の君ですか」
新垣がスッと現れる。値踏みするように彼を眺めた後、私の方に目を向けた。
「お嬢様はああいうのが好みなんですか?」
その問いかけに、ふと顔が熱くなる。
「ば、ちがっ。そういうのじゃないわよ」
思わず大声を上げそうになるのをグッと堪えた。全く、いきなり何を言い出すのかしら。
「違うんですか?」
答えに詰まる。ここではっきり「違う」と断言してしまうのは、彼に悪い気がしたのだ。
「い、いいから。新垣はもうちょっと引っ込んでて」
「……わかりました」
再び新垣の気配が消える。新垣の気配が完全に消えたのを確認してから、私は店内に踏み込み、手近にあった飲み物コーナーからスポーツドリンクを一本手に取った。それを持ってレジに行く。彼はもう目と鼻の先。客の気配を察したのか彼がこちらに気付く。
「やぁ、亮輔君」
ちょっと驚いた様子だったけど、それでも私が手に持っている物を見て、客だと判断したようだ。
「いらっしゃいませ~」
ちょっと間延びした声。疲れているのか、客が顔見知りだから気が抜けたのか。まぁこの際どっちでもいい。
「袋はご入用ですか?」
「そのままでいいよ」
「それではテープのみ張らせていただきます」
テープを一枚契り、バーコードの上に貼る彼。こういう店で買い物をするのは初めてだけど、これがルールなのだろうか。
「一四九円でございます」
「カードで」
いつも通りカードを差し出す。
しかし、カードを受け取った彼は何やら驚いたような顔をしていた。
「どうしたの? 亮輔君」
今時カードが使えないなんてことはないだろう。ならどうしてこんなに驚いているのか。私にはさっぱりわからなかった。
彼は恐る恐ると言った感じで機械にカードを通す。すると機械は正常にカードを読み込んでくれたようで、レシートと利用明細が吐き出された。
「こちらレシートと明細でございます」
「ありがとう」
スポーツドリンクとレシート、利用明細を受け取り、私は周囲を見渡す。他にレジに来そうな客はいない。これ幸いとばかりに、私は彼に話しかけた。
「ねぇ、亮輔君。この後暇?」
彼はしばらくポカーンとしてから、それでも居住まいを正して言う。
「お客様。申し訳ございませんが、当店では店員のお持ち帰りはお断りさせていただいております」
「いいじゃん。もうすぐ勤務終わりなんでしょ?」
困ったような顔をする彼。すると、店の奥の方からおじさんの店員がやって来た。
「お客様。うちの朝霧に何か不手際がございましたでしょうか」
丁寧な言葉使い。態度からして、この店の店長さんだろうか。これは都合がいい。
「いいえ。大変満足な接客でした。ですので」
いつもより大げさに笑顔を作り、店長さんに向けて言う。
「少々引き抜きの交渉を」
「引き抜き……でございますか?」
いきなりのことで流石の店長さんも驚いている様子。ここは私の身分を明かしておくのがよさそうだ。
「申し遅れました。わたくし皇琴音と申します」
店長さんに名刺を差し出す。これで事足りるはずだ。何せこのスーパーは皇グループ傘下の企業の一つ。私の名前を出せば相手がどういう対応をしてくるかは、これまでに嫌と言うほど経験している。案の定、店長さんはペコペコと頭を下げ始めた。
「朝霧君も頭を下げなさい。この方はわが社の経営母体である皇グループのご令嬢だよ!?」
店長さんに釣られて、彼も頭を下げる。彼はこのスーパーが皇グループの傘下であることを知らなかったようだ。別に彼に頭を下げて欲しい訳ではないが、店長さんの顔を潰すまいという彼なりの配慮なのだろう。
「顔を上げてください店長。現在の皇グループはあくまで父のものであって、わたくしはその家に生まれたというだけの高校生ですから」
「いえいえ。皇グループのご令嬢に失礼があってはなりませんので!」
たまたま皇家に生まれたに過ぎない女子高生に頭を下げる中年男性。こんなことはもう慣れっこだが、見ていてあまり気持ちいいものでもない。
「それで引き抜きの件でしたよね!? うちの朝霧でよろしければ、どうぞ使ってやってください!」
「ちょ、店長!?」
「朝霧君、今までありがとう! 新しい職場でも頑張ってくれたまえ!」
「そ、そんな~」
店長さんは自分の保身に走ったようだ。こちらとしては都合がいいが、これだから大人と言うものは信用できない。
それでも私はそんな心中を胸の奥に隠し、笑顔で店長さんに答えた。
「話が早くて助かります。このお店のことは父にもきちんと報告させていただきますね」
「はは~。どうぞ、どうぞよしなに!」
悪い人ではないのだろうけど、今までがんばっていた彼に対する敬意が足りない。そう思わずにはいられなかった。
「朝霧君、今日はもう上がっていいから。皇さんのことを送って差し上げなさい」
「は、はぁ」
同じアパートに帰るのだし、これはこれでよかったのかも知れない。バックヤードに入っていく彼を見送ってから、私は店長さんに話しかけた。
「店長さんは、朝霧君の仕事ぶりをどう捉えていましたか?」
突然振られた話に、店長さんは少し考えるしぐさを取ってから、それでも忌憚ない意見を聞かせてくれた。
「そうですね。少し引っ込み思案な所もありますが、彼は真面目で、よく働いてくれましたよ。まだ入って四ヶ月ほどですが、レジ打ちの速さと正確さではうちでトップでしたから。お客さんからの評判も良くて、わざわざ彼のレジに並ぶ人もいたくらいです」
こうして聞いてみると、店長さんは彼のことを高く評価していたようだ。私に対する態度はあまり好ましいものではなかったが、彼を評価するその姿勢には共感できる。
「きっと新しい職場でも、彼は活躍してくれるでしょう。もう少し普段から愛想をよくすればもっといいんでしょうが」
「そう……ですね」
そう言って笑う店長さんは、少し寂しそうだった。
帰り道。
私は自転車を押す彼の前を歩く。たぶん近くには新垣が控えているのだろうが、それはこの際気にしないことにした。
「ねぇ、皇さん。そっちは俺の家の方向だけど……」
「大丈夫だよ。私の家もこっちだから」
私はにやりと笑う。きっと彼は驚くに違いない。今からその時が楽しみだ。
そうして辿り着いた我等がアパート。その名もしらかば荘。
「ここ、俺のアパートだけど?」
「今日からは私のアパートでもあるのだよ、亮輔君」
「はい?」
彼が素っ頓狂な声を上げる。
「だから、今日から私もここの住人なんだよ」
「そんな馬鹿な。このアパートはもう満室のはすだよ?」
そう。確かにこのアパートは満室だった。だが、そこは皇財閥の娘である私だ。皇家に生まれたことをあまり幸せだとは思っていない私だが、こればかりは皇でなければ不可能であっただろう。
「そこは、ほら。いろいろとやりようがあるでしょ?」
指先をくるくる回す。
「君の部屋の隣。一○二号室を私が買い取ったんだよ。元々住んでた人達も快く了承してくれたよ?」
最初にこの部屋を訪れた時の光景が脳裏に浮かぶ。あの時の夫婦の驚き様ったらなかった。お金で解決できないことも多いのが現実だけど、お金で解決できることは確かに存在するのだ。
「今日の夕方には私の荷物の搬入も終わってる。これで晴れて私の新生活が始まると言う訳さ」
彼は開いた口が塞がらない様子だった。
「本当にここに住むの?」
「住むよ。言ったじゃない。私の執事にならないかって」
「本気で言ってるの?」
「冗談でこんなこと言わないよ。私は君に執事になって欲しいんだ」
最大級のキメ顔で、彼にそう伝える。これでわかって貰えただろうか。私の本気度合いを。
「とりあえず飯にしよう。腹減ったし」
彼はため息を吐きつつそう提案してくる。そう言えば夕飯がまだだった。もうすっかり遅い時間だが、彼が食事にするというのならそれに付き合おう。
「そうだね。私もお腹空いた」
そう言って、彼の後に続く。その際に、ちらりと隣の部屋の扉に目を向けた。私の部屋とは逆隣にあるその部屋は、彼と付き合う上で避けては通れない人物の居住宅。元々彼に近しい人物なので、私と言う存在が介入したことで何かが起こることは想定の範囲だ。
とは言え、彼女がどう反応するかまではわからない。何が起こっても対処出来るよう私は気を引き締めつつ、新垣に「手出し無用」とメッセージを送るのだった。
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