第二章 腐海の森と白銀の少女

彼女のいない討伐戦

 リサはもういない。いつもユウマを振り回していたリサ。そしてユウマを導いてくれていたリサはもういない。ユウマに残されたのは数人のクラスメイトの信頼だけだ。その考えはクラスメイトに失礼だろう、けれどもそんな真っ当な理屈さえも強引にユウマは押さえつけた。


残念ながら、ユウマの心には穴が空いてしまったらしい。彼らの行為さえもそこから零れ落ちてしまう。心の穴を埋めるものなどある筈がない。この世界のユウマはリサが全てだった。そして今のユウマもリサとずっと一緒だった。リサがいなくなったあの日。あれからからユウマは次の日が来るのが怖い。


明日は未開拓エリアへの進軍が予定されている。未来ある若者を死地に追いやる愚行に付き合わされるのだ。頭の中でシミュレーションをしてみても、いつもリサの顔が浮かんでしまう。「忘れて」、元主人にそう言われているのに。


死ぬ気で戦え?馬鹿を言うな。今は生きる気力さえ残っていないのだ。未だに残る地球という星で過ごした記憶の残滓。その記憶だけがユウマの精神を保っている。もしもこの世界のユウマの心しか残っていないのなら、「死んでもいい」と突っ走るだろう。


ある意味「不死身」の体ではないことを有り難く感じる。ここ数日、碌に食べていない。お腹が空くということは、餓死が存在するということだ。勿論、そのままゾンビ化になれば目も当てられない。寧ろ、自分が死んでリサがどんな気持ちになるだろうかとか最悪な事を考えてしまう。自分にもそんなメンヘラ気質があるとは思ってもみなかった。もしかしたら、以前思い出した「過去のユウマの貯金」はこの気持ちを発散するためのものだったのかもしれない。


いつか来る別れだと知っていても、あんな形の『別れ』は想像していなかった。幸福な幸せを掴む彼女、そしてその彼女に選ばれた男を盛大に嫉妬するのが『最高の別れ』だったのだろう。だとしたら、彼女にあんな顔をさせた別れなんて絶対に納得が出来ない。


「あー、もーしょーがねーなぁー!」


秋の夜長に感謝を申し上げる。生きる理由を一つ見つけてしまったではないか。あの顔の訳を、あの涙の理由を聞く権利は最早ないのかも知れないが、どうしても聞いてみたい。きっとこれが世に言う「ストーカー気質」というヤツだ。


皆様には大変ご迷惑をお掛けしますが、誠に遺憾だとは存じておりますが、ここに世の中の敵、「ストーカー」が新たに誕生致しました。今後大変ご迷惑をお掛けしますが、どうか恨んでやってください。この俺「ユウマ」が全て悪いのです。


「さて、とりあえず、今日をまず生き残ろうか。」


学校への道、もはやあそこでの仕事をしなくて良いのだから、引っ越したい。どの景色も彼女へと繋がっている気がするから。だが、次の仕事もないのに敷金、礼金その他もろもろ、そんなものがあるのかは知らないが、手続きというものが面倒臭い。とにかく何もやる気が起きないのだ。引っ越し先選びは、部屋選びの段階が一番ウキウキするものだ。ありもしない妄想を抱きながら選ぶのが一番だ。だから今はきっと良い部屋を探せない。どのみち収入源も無くなったのだ、仕事が見つかるまではこの部屋からの通学を甘んじて受けよう。



 ユウマが登校すると学生がわらわらと校舎の前に集まっているのが見える。開館前のコンサート会場のようだ。VIP様のみ来館出来る仕組みがいつの間にか完成していたのだろうか。そもそも討伐に行くのだから、入館する必要もないという単純なものだろう。学校職員しか入館しなくてよい。どうやらこの学校には伯爵以上の派閥の学生は通う必要さえ無くなったらしい。


ここにきて国も隠さなくなってきたようだ。徹底的に学童を戦場に追いやるらしい。それにしても体操服とか置いてる奴や、学食で余ったパンを机に入れている奴もいるかもしれない、そんなことは考えないのだろうか。


「ユウマくん! おはようございます!」


「くん」をつけてユウマを呼ぶのはナディアだけだ。その言い方だけで判断できるので、今となっては有難い。特に周りの視線が痛い今日この頃では大変助かっております。


「おはよう、ナディアは学校に忘れ物とかしてないのか?」


「わ、私は今、教会の施設に寝泊まりさせて頂いているので、だ、大丈夫です!」


完全にユウマの質問は地雷ワードだったようだが、それを意に介さない強さを持っている少女がナディアだ。そしてここで新たなメンバーを紹介しよう。


「マイク、予習はばっちりだろうな?」


「お、おう。詠唱は、か、完璧だよ?」


天然パーマの赤毛、そばかすがチャームポイントのマイク。ニールご推薦というより、ニールの使いっぱ。英語の教科書に登場しそうな名前だが、その類稀なる普通さは賞賛に値するだろう。


「デルテはその・・・、今日は俺の後ろくらいにいろよ。」


「は、はい。今日は、よ、よろしくお願いします!」


エメラルドグリーンの髪の少女、ナディアの紹介だ。そばかすはマイクと被っているが、深緑のナディアの髪色とセットで覚えられるという特技を持つ。ちなみに、髪の長い女生徒にはポニーテールを義務付けている。別に趣味とかそういうのじゃない。あくまで戦いやすいからだ。


そしてあとはマルコからのご依頼『メリルの民』とその他諸々、要はクラスメイト、全て一般人だ。


と、そのくらい皮肉を言いたくなるような程しか戦力がない。


そもそも貴族街に学区を持つ魔法学校だ。伯爵以上ともなれば、お抱えの側仕えも多いだろうが、この学校の入学権利である13歳以上、18歳以下という要件を満たすとなれば、子爵、男爵ではほとんど人がいない。ユウマもあくまで「ボランティア精神ありますよマウント」で侯爵家に雇われた一人だ。どの貴族も懐事情は厳しいらしい。


「おはようございます、ユウマ。早速ですがエリアマップを確認しましたか?」


「エリアマップ?」


「だと思って、取ってきましたよ。こちらをお受け取りください。」


さーすが出来る側仕えマルコ、何をみんな列を作っているのかと思っていたら、どうやら資料配布の列だったらしい。どっちみち連れて行かれた先で戦うだけだ、そんなものに意味があるのかは分からない。


「ユウマ、どう思います?」


「んー。今日は浅めだな。」


勿論、前回が領主の指示で突っ込みすぎただけであり、コボルトレベルは出現するだろう。けれど事前に聞かされていた内容とは少し違う。


「初回だからということだとは思いますが、僕も同じように感じました。それにしてもここは・・・」


「だよなぁ。これってどう考えても公爵領だよなぁ。」


はい、途中参加型会話マシーンの登場です。ニールは今日も迷惑運転車両です。ちゃんとバックミラー、サイドミラー、そして目視での確認を済ませてから、車線変更をして頂きたい。


「ま、どっちみち俺たちは、王の命令には逆らえない。関係ないだろ。腐海の森自体はどこの領地って訳でもないんだし。それより俺はどうやって行くかの方が心配だな。片道だけでだいぶ掛かるぞ。」


「あー、それなら大丈夫だぜ、魔力水路の整備が出来てるらしいからな。」


「あー、あの乗り換えを何回も繰り返させる奴か。歩かないだけましかぁ。」


ニールのネットワークによると、現在絶賛魔力水路が建設中らしい。ただあれって凄く面倒くさい、大型バスでも用意して欲しい、そう思っていた。勿論、王都周辺はその通り面倒くさいのだが、改めて見ると魔力水路の機構はユウマが思っているものと違っていた。魔力水路にはそれに沿って電灯のようなものが一定の間隔で並んでいる。それに水路側に仕組みがあって魔力で水を押し流して進んでいると勝手に思い込んでいた。いや、普通そう思うだろう。


だが、突然皆を乗せた船が陸地も進み始めた。水面に隠れて見えなかったがこの船には車輪が内蔵されている。そして水路に仕組みがあるのだと思っていたら、電灯の方が魔力発生源だったらしい。どうやら王都は昔の水路を活用しているという事情だったらしい。立退きさせるとか王ならば簡単そうに見えるがそうではないらしい。あの電灯にはワイヤレス魔力転送機とでも名付けておこうか、とにかくWi-Fi的な何かなのだろう。そこから発生する魔力を受けて、この船は陸地を走っているらしい。さすがはニール、なんでも知っている。全国チェーンの御曹司ってだけはある。


そしてちゃーんと前回までに討伐したエリアには例の電灯が分かりやすく光っている。いつのまにやらワイヤレス魔力転送機が一定間隔で建てられていた。無料Wi-Fiなのだろうか、これで流行りのインバウンドによる収益も獲得できる。命の保証はありませんが。


「さて、今日は誰が監督なんだっけ。」


ユウマが誰か知ってる人が答えてくれるだろうくらいのノリで聞いた。知っての通り講師陣はお貴族様、こんな乗合バスみたいなものには乗らない。お抱え運転手付きリムジン的な馬車でやってくる。


「サイモン・ハント先生です。ユウマくん。」


ここでは初登場なのかも知れないので触れておく、サイモン・ハント先生は戦術・武術担当の教官だ。ただし今までそれらしいことは何一つ教えてもらえていない。戦場に生徒を送るなんて、教師のすることではない、だから私は教えない。だったら良かったが、残念ながら只見に来ているだけだ。


『皆一斉にかかれぇぇぇぇぇ!!』


と声だけは一人前だが、どこにかかっていけば良いのか、どう進めば良いのかまるで分からない。


「火炎魔法得意な奴集合!!」


ユウマはハント先生の言葉を無視して号令をかける。ユウマは王族の命令に叛いている。厳密に言えばもうすぐ王族になる人間の命令を無視している。これから王族になる人物の命令、その命令無視とはご存知の通り、『リサのことは絶対に忘れない』ということだ。


命令違反の烙印は甘んじて受けよう。リサのことはなんでも知っている。スリーサイズは勿論、身長、体重、生年月日、趣味嗜好、実家の住所までなんでも知っている。フラれた女性のことをここまで知っているのは模範的なストーカーなら当たり前だ。ならばその言動、一挙手一投足まで知っていて当然だ。


リサはこの魔の森にお花畑を出現させた。勿論、それはいくつかの魔法を駆使してだが、その中でどう考えても火炎魔法が最も効果的だ。結局森を焼いて燻り出すのが手っ取り早い。だがユウマの愚行はそこに止まらなかった。ユウマの前に集まった十人ほどの学生。ユウマは彼らを他の生徒から引き剥がすように、場所を移動させた。


「とりあえず、皆、目を瞑りなさい。これから言うことは、まぁ例え話だと思って聞いてくれ。別に試すってわけじゃない。別に報告もしない。」


全員が目を瞑っているかどうか、しっかりと確認していく。半目のやつがいたらその時点で、一回頭を叩く。平民だと分かっているからこそできる。モンペとかいう概念がないからこそ出来る、昔ながらの教師のようにユウマはゆっくりと一人一人確認していった。そして数人叩いた後で、ユウマは小さな声で言った。


「自分の命よりも唯一神の方が大切だ、という生徒は手を挙げなさい。だーれも見ていない。正直に言いなさい。だーれも見てません、正直になりなさい。」


給食費を盗んだやつ、手を挙げなさいをこの異世界で試してみた。しかも相当な内容の筈だ。ユウマは皆の手の動きをじっくりと観察した。なんとももどかしい、挙げようか挙げまいか、ふわふわふわふわしている。だからもう一言付け加えた。ちょっとしたスパイスだ。


「正直に手を挙げてくれたら、ご褒美も用意しています。ちゃーんと最前線で戦うというご褒美を。皆の盾になれるのです。羨望の中、孤高の存在になれるのです。」


はっきり言ってこれは脅しだった。当然だ。自分の命よりも神の命の方が大切なのだ。自己犠牲は愛であり、他人のために死ぬことこそ究極の愛なのだ。だったら敬虔な信徒には、その機会を与えてやる。


「はい。そこまでです。手を下ろしていいですよー。発表なんてしません。では今から話すことは絶対に話しちゃダメですからね。」


そう言ってユウマは火炎魔法を使える敬虔な信徒に『やってもらいたいこと』を説明した。結論から言うと、誰一人手を挙げなかった。残念ながら、ここで究極の愛を見ることは出来なかった。


「ここだけの秘密だから、絶対に誰にも言うなよ!自分たちに返ってくるからな。じゃあ列に戻れ。」


ユウマは彼らが隊列に戻るのを確認して、自分だけは最前線に立つ。


「マルコ、ニール、ナディア準備できてるか?」


「おう。ばっちしだぜ。ユウマ、何を話してたんだ?」


「それは教えられないなぁ。プライバシーの侵害ってやつだ。」


ユウマの横に長槍をもった生徒が並ぶ。ユウマを中心に弧を描くように長槍部隊が並んでおり、皆屈んでいる。そしてその後ろに先ほど集められた十人が二人一組で並ぶ。戦闘経験が多少あるニールとマルコには遊撃手として背面を警戒させ、中央にはヒーラーを集める。


なんてことはない、ただの槍衾やりぶすまだ。だが長槍は戦闘経験不足というハンデをあっという間に埋めてしまう。戦いの最前線をできるだけ遠くに置くことで恐怖心はある程度抑えることができる。当然相手のリーチにもよるがこの辺りは基本的にはコボルトが主体、皆が持つ身の丈以上の槍よりリーチは短い。


そして本当ならば三段構えにしたかったが少数のため二段構えにした火炎魔法部隊。ただこれらはごく一般的な戦術だろう。そこにユウマはこの世界特有のエッセンスを加えた。


「一番、詠唱開始!!」


火炎魔法部隊の五人が詠唱をし始める。だがすぐ側にいるはずの長槍部隊の生徒にさえ聞こえないほどの小声。ほとんど口パクで詠唱をしている。


「二番、詠唱開始!!」


詠唱のリズムは事前に調整済みだ。ただ一言変えれば良いだけ。二番と呼ばれた残りの五人も詠唱を開始する。それとほぼ同時に火球が森へと放たれた。ユウマは「一番、二番、一番、二番」と繰り返すだけだ。こんなことなら、もっとカッコ良い名前を考えておくんだった。


スパイスの効果は素晴らしいものだった。火球は皆が想像する以上の大きさで発射され、詠唱した当人でさえ吃驚している。燻り出されたようにコボルトが出現し、次々と長槍の餌食になっていく。ただ、当初の予定よりも詠唱のペースは落とした方が良いと感覚的に分かる。実践という緊迫感からか、疲労のペースが早い。マナ回復ポーションがたくさん調達出来れば良いが、現場支給されたものではこれが精一杯だった。


結局遊撃手である後衛のニールとマルコ、そしてユウマの出番である。但し、ここいらのコボルトは火球がリズムに併せて飛んでくると理解できるほどの頭脳はないらしい。魔法を警戒してのか、普段のコボルトの動きではない。ニールとマルコでも十分に対処できるし、長槍も効果的だった。そして、前線を少しずつ前に進めて、少しずつ森を焼け野原にすればよいだけだ。二酸化炭素問題など知ったことか。地球温暖化などこの異世界で唱えても仕方がないだろう。


「うわぁぁ、すごーい!!」


火炎魔法部隊の一人が感動の声を発した。自身の魔法の効果に感動しているのだろう。それも当然だ。彼女の魔法だけ格段に威力が違う。ユウマも驚いているほどだ。平民にこれだけの素質を持っている者がいるとは思ってもみなかった。


その少女は銀髪というよりも白髪に近く、瞳の色が紅い。『アルビノ』と一眼でわかる特徴である。それだけ目立っているにも関わらず、ユウマの記憶にはほとんど残っていない。おそらくは隣のクラスなのだろうが、整った顔立ちであり、はっきりと可愛い。リサ様があまりにも輝きすぎて、残念ながら彼女には光が当たることはなかったのだろう。リサという太陽の日の入りは彼女にとっての日の出なのだろう。


そんな感動の眼差しをこちらに向けられても、とユウマはストーカーにあるまじき行為を行なった。他の女子に対して照れてしまっている。あれだけリサ、リサと言いながらも、この男は簡単に他の女子に対して可愛いなどと思ってしまっている。はっきり言って最悪だ、とユウマは自分自身の厭らしい側面に辟易とした。


ユウマが振りかけたスパイスなどタネが分かれば、どうということはない。


『偉大なるほむら操りし勇敢なる神リブゴードよ、我は請う。不浄なる大地に制裁を。今こそ神の威光をここに示し給え。火炎弾ファイアボール


と詠唱させただけだ。つまり王を神に変えただけ。リサも言っていたではないか、神は人間味があると。だれだって『王』と呼ばれるより『神』と呼ばれる方が気持ちが良い。クイズ王よりクイズ神、石油王より石油神・・・なんか違う気がするが、兎に角リブゴードは本来神なのだ。王などと呼ばれ続けて辟易していたことだろう。


 勿論、ここまでは想像以上ではあっても想定内だ。問題はマナが枯渇し始める後半戦。こっちは最初から『ガンガンいこうぜ』だ。ボス戦のためにとっておくMPもラストエリクサーも持っていない。一応、終鈴は午後3時と決まっている。ハント先生だって残業は嫌なのだ。こればかりはハント先生に感謝したい。


予想通り、怪我人も出始めていた。ヒーラーがいるからまだなんとかなってはいるが、こんなことなら最初の儀式を他の魔法詠唱者にも伝えておくべきだったかもしれない。


「マルコ、無茶するな!! ニール後ろ頼む!!」


結局ユウマが縦横無尽に駆け回ることになった。ユウマは退職金という名の軍資金を貰ってはいるが、以前のように潤沢には使えない。侯爵様の恩恵は伊達ではない。だから今までよりも軽装だし、品質の悪い支給品にも手を出している。当然、戦い方は以前のままだ。肉を切らせて骨を断つ。そしてバレないようにヒールをしてもらう。



そしてユウマは自分自身に絶望した。なんだかんだ言っても『死にたくない』。あれだけリサのことを思い、リサのせいにして死んでやろうかと思っていた筈なのに、いざとなれば死にたくないと思ってしまう。自分の持っている、ほとんどぼろぼろのロングソードでコボルトをあっさりとぶつ切りに出来てしまう。死を免れようと必死になっている自分の体に筋肉に骨に嫌気が走る。何よりそんな自分自身が心底嫌いになる。


「ユウマくん、後ろ!!」


その声と同時に右肩が重くなる。おそらく鎖骨を折られたようだ。誰がどうみてもユウマは重症だろう。右がダメなら左だ。


「いってぇだろーがぁ!!」


自分への憎しみも込めて左腕のバックラーをコボルトに叩きつける。みるみる右肩が治って行くのが分かる。鎧のある部分で助かった。治っている様子が誰にも見えないのだから。


「このクソ野郎!!」


コボルトにとっては災難極まりない。ユウマは自分自身への怒りを全て周辺のコボルトに八つ当たりした。何度も何度も斬りつける。そして幾度も攻撃を喰らい、反撃を繰り返す。いつのまにか聴覚もなくなっている。きっと鼓膜でも破れたのだろう。耳から液体が流れているのが分かる。


 激しい耳鳴りの中、辺りを見回すと皆が何かを叫んでいた。別に誰かが危ないわけでもなさそうだし、見る限りモンスターはいない。


それにしても、そろそろ鼓膜が治っていても良さそうだと思って耳を触ると、なるほど血が固まって耳栓状態になっている。恥ずかしい仕草だが、耳をかっぽじる。すると少しずつ皆の声というより特にナディアの声が通りやすいのか聞こえてきた。


「・・ウマくん、もう撤退の時間・・・だよ?」


おっとどうやら、ハント先生に残業をさせてしまっていたらしい。それに皆にも申し訳がない。一分一秒でもこの場に止まっていたくない筈だ。


「あぁ、そっか。ごめん、聞こえてなかった。えっと皆無事そうだよな・・・」


「無事じゃないよ。ここに一人怪我人がいます!!」


『癒しの精霊アクエリス、不浄なる夷狄に穢されし・・・』


怪我人はユウマだったらしい。ナディアに怒られてしまった。いい加減気付いても良いものだが、気付かれると大事な大事なリサへのストーカー業務に支障をきたすので、黙って治癒を受ける。


「ありがと、ナディア。もう痛みはないよ。」


ナディアの頭はちょうど撫でやすいところにあるので、つい撫でてしまう。


「うん。よかったぁ。ユウマくん、帰ろ?」

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