第38話 ちひろ風邪をひく
「どうしたの?」
蒼乃がちひろを見る。次の日、なんだかちひろの様子がおかしい。
「なんか変な感じがする」
ちひろの顔はどこか赤くなっている。目も虚ろだ。
「風邪?」
蒼乃がちひろの顔を覗き込む。
「分かんない」
やはり、なんだかちひろは元気がない。蒼乃はちひろの額に手を当てた。
「あっ、熱がある。多分風邪だよ」
「うん・・」
「寝てなきゃだめだよ」
ちひろの額は、手でさわって分かるほどかなり熱かった。
「テレビ見る」
「ダメだよ」
ソファに座ってテレビを見ようとするちひろを、蒼乃は寝室に連れて行った。そして、ちひろをベッドに寝かせる。
「夜風に当たったのがよくなかったのかな」
昨日は遊園地で夜中まで、外で動き回っていた。ちひろはいつもかなりの薄着だ。
「テレビ」
「ダメ」
蒼乃は起き上がろうとするちひろをベッドに押しとどめ、布団をかける。
「退屈~」
横になってすぐに、ちひろは子どもみたいに駄々をこね始める。
「ちゃんと安静に寝てなきゃだめだよ」
それを蒼乃がなだめる。
「テレビ~」
しかし、ちひろはそれで大人しくするような人間ではない。さらに駄々をこねる。
「これは大変だわ」
蒼乃は困った表情でフーっと息を吐気ながら呟いた。
その時、そこにミーコーがやって来て、ちひろの寝ているベッドに飛び上がった。そして、膨らんだ蒲団の上を歩いて、ちひろの胸の辺りにやって来ると、そこに丸まった。
「ミーコーも心配してるんだわ」
蒼乃が言った。
「うん」
ちひろは少し大きくなったミーコーを、寝たまま腕だけ出して愛おしそうに撫でた。
「・・・」
そんなちひろを蒼乃が見つめる。最近、ちひろの表情が変わってきていると蒼乃は感じていた。ちひろと出会った頃は表情がほとんどないに等しかった。それが最近では、とても柔和になって人間らしい表情になってきている。
蒼乃は濡らして絞ったタオルを持ってきて、寝ているちひろの額に乗せた。
「どうして、タオルを乗せるの」
ちひろが目だけを動かして蒼乃を見る。
「熱を冷やすためだよ」
「ふ~ん」
「初めて?今までしてもらったことないの?」
「うん」
ちひろは、今まで一人でどうやって生きて来たのだろうか。蒼乃はあらためて思った。
「誰に教えてもらったの」
ちひろが蒼乃に訊ねた。
「う~ん、私がちっちゃい時に、お母さんが私にやってくれてたから・・」
「お母さん?」
「うん」
「お母さんって、良いもの?」
ちひろが蒼乃に訊いた。
「えっ」
ちひろにはお母さんがいないのか・・。なんとなく薄々気づいてはいたが、蒼乃はこの時そのことをあらためて知った。
「ちひろにはお母さんいないの」
蒼乃が訊くと、ちひろは小さくうなずいた。
「お兄ちゃんがいた」
そして、ちひろは言った。
「お兄さんがいるんだ」
蒼乃は少し驚く。
「うん」
「そのお兄さんはどこにいるの」
「自殺した」
「えっ」
蒼乃は驚く。
「クスリで頭おかしくなって死んじゃった」
「・・・」
初めて聞くちひろの話だった。
「お兄ちゃんは、自分の首をカミソリで切った。それで死んだ」
ちひろは淡々と話す。
「部屋中血まみれだった。部屋の壁一面が真っ赤になってた」
語るちひろに表情はなかった。
「吐きそうなくらい血の匂いがした」
「・・・」
あまりの生々しい話に、蒼乃は言葉もなかった。
「その日から、髪が真っ白になった」
「そうだったんだ・・」
蒼乃はちひろのきれいな白髪を見た。このきれいな白色の裏にそんな血の色があったなんて、蒼乃はなんと受け止めていいのか分からなかった。
「お兄ちゃんはジャンキーだった。ちっちゃい時からずっとクスリをやってた。だからやめられないんだって。そう言ってた」
「・・・」
「でも、お兄ちゃんのこと好きだった」
ちひろは遠くのお兄ちゃんを見つめるように言った。
「お兄ちゃん、時々、お菓子買ってくれた」
そこでちひろは蒼乃を見て微笑んだ。ちひろはうれしそうだった。お兄ちゃんのことが本当に好きだったのだろう。
「そうなんだ」
お兄ちゃんにお菓子を買ってもらっている幼いちひろの姿が蒼乃の脳裏に浮かんだ。多分、その時、幼いちひろはとてもうれしかったのだろう。蒼乃の胸は堪らなく切ない気持ちで締めつけられた。
「最後は、ちひろの顔も分からなくなってたけど、でも、お兄ちゃんだった」
ちひろは、寂しそうな表情をした。蒼乃が初めて見るちひろの表情だった。
「お兄ちゃんは一生懸命クスリをやめようとしていたけど、でも、ダメだった・・」
「そうだったんだ・・」
そんな悲しい過去があったなんて、蒼乃はちひろを見た。あらためて見るちひろは幼い子どもだった。ちひろは子どものまま時間が止まっている。今も多分、お兄ちゃんの生きていたその時のままなのだろう。ちひろは今もその時を生きている。蒼乃は思った。
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