第36話 象のぬいぐるみ

「あっ、あれ食べる」

 ちひろが突然何かを指差した。ちひろが指差した先にあったのは、外観をカラフルな色彩にペンキで塗られたクレープ屋だった。クレープ屋からは何とも言えない甘い香りが漂ってくる。

「うん、食べよう」

 蒼乃もこれにはノリノリだった。二人はクレープのお店に走り出した。

「これがいい」

 ちひろが指さしたのは、その店で一番ダントツに値段の張るスペシャルフルーツミックスクレープだった。

「私はチョコバナナかな」

 蒼乃が言う。蒼乃はその二つのクレープを、小窓からジャムおじさんみたいな人の好さそうな丸顔をほころばせているおじさんに頼んだ。

「はい、お待たせ」

 しばらくして、全ての種類のフルーツがこれでもかとてんこ盛りのてんこ盛りに盛られた、これを最早クレープと呼んでよいのかと困惑するほど巨大なクレープをジャムおじさんが小窓から差し出した。それをちひろが受け取る。

「うまい」

 受け取るとほぼ同時に、ちひろはそれに思いっきりかぶりついた。そして、そのままもしゃもしゃと勢いよく食べ始める。

「おいしい」

 口の周りにいっぱい生クリームをつけ、クレープを食べるちひろは子どもみたいに本当に幸せそうな顔をする。蒼乃はそんなちひろの姿を見て、自分も何か胸に堪らない幸せを感じた。これはいったい何だろう?蒼乃は思った。

「友情?母性?」

 蒼乃はなんだか分からなかった。はっきりとはしないその感情を、でも、何か特別な感情であることだけは分かった。

「はい、こっちのお嬢ちゃんにも」

 ジャムおじさんが蒼乃にチョコバナナクレープを差し出した。こちらは普通の大きさだった。

「ありがとうございます」

 蒼乃もチョコバナナクレープを受け取り、それをさっそくかじる。

「あま~い」

 口の中に広がる何とも言えない堪らない甘さが、感動的に全身を突き抜ける。

「幸せ」

 蒼乃も一瞬で幸せになった。

「お嬢ちゃんたちは二人だけで来ているのかい?」

「はい」

「すごいね~」

 ジャムおじさんは二人に、子どもみたいな物言いで接する。知らない人が見たら確かに、二人は中学生くらいに見えるのかもしれない。ジャムおじさんに、私たちはここにバカでかいアメ車をぶっ飛ばして来たのよ、と言ったら、腰を抜かすに違いない。蒼乃は思った。

「あっ、あれやる」

 あっという間に、ペロリと巨大クレープを食べ尽くしたちひろが、広場の向こうに見える小さな建物を指差した。

「えっ」

 蒼乃がその方を見ると、それは射的だった。

「っていうか、もう食べたの」

 蒼乃はもう一度ちひろを見る。

「うん」

 蒼乃はまだ自分のチョコバナナクレープを受け取って一口かじっただけだった。

「行こっ」

「えっ、ちょっと」

 しかし、ちひろは蒼乃の手を取って走り出す。蒼乃も手を引かれるがままに走り出した。

 二人は射的場の前に立った。一回五百円。弾は十個。夜店の射的なんかとは違って、店は大きくしっかりとした作りで景品もたくさん並んでいた。

「これでありったけちょうだい」

 ちひろはまっさらの一万円札を突き出した。店主は驚く。が、すぐに二百発のコルクで出来た弾を持って、ちひろの前に置いた。

「すごいね」

 蒼乃が棚に並ぶ景品を見る。的になる棚に並ぶ景品は、バラエティ豊かに色んなものがあった。定番の小さなキャラメルの箱から、お菓子、おもちゃ、ポケットゲーム機、鉢植えの花やフライパンまである。絶対に落とせそうもない大きさの家庭用ゲーム機や、ノートパソコンまである。

「あっ、あれすごい」

 その中で蒼乃が一番心惹かれたのは、中央の一番高い棚に乗っている四本脚を前に突き出すようにして座る、大人でも抱えるほどの大きさもある巨大な象のキャラクターのぬいぐるみだった。

「かわいい。あれ」

 蒼乃は一目で気に入ってしまった。その巨体に似合わぬとぼけた顔が最高にかわいかった。

「・・、でも絶対無理だよなぁ・・」

 蒼乃は目の前の台に置いてある射的の銃を見た。このちゃちな射的の銃で、あれを倒せるとは到底思えなかった。

「あれは、絶対見せ物だよな・・」

 実際、隣りで撃っている子どもたちは、それよりも小さなぬいぐるみでさえかなり苦戦している。子どもたちは自然と大物は無理とすぐに諦め、キャラメルやお菓子やさらにもっと小さなぬいぐるみを狙い出す。それが時々落ちて、店主の持つハンドベルがカラ~ンカラ~ンと大きく鳴る。

 落ちそうで落ちないように、うまく置いてあるに違いない。見ていると、やはり、大人でも落ちるのは、大概キャラメルとか、小さなぬいぐるみとか、小さなチョコレート菓子とかそんなものばかりだった。

 カラ~ンカラ~ン

「当た~り~」

 その時、大きなハンドベルの音と共に店主が大きく叫んだ。

「ん?」

 蒼乃がその先を見ると、大きな景品が落ちている。ちひろが撃ったものだった。それは結構な大きさのぬいぐるみだった。

「おおおっ」

 周囲からどよめきが起こる。

「すごい、やったね」

 蒼乃は隣りのちひろを興奮して見る。

 だが、そこからがさらにすごかった。ちひろは、次々、連射し、それが百発百中、次々景品を倒してゆく。しかも、まったく間がなく、ためらいも、狙いもなく、速撃ちのように撃って、それで景品に当てて、次々倒していってしまう。大きな景品も連発で何度も当てることによって、ぐらつかせバランスを崩したところにとどめの一発をかまし落としていく。

「すごい」

 蒼乃は驚く。周囲の客たちもちひろのすごさに気づき、その周囲に集まって来る。

 ちひろは、景品の急所を的確に寸分の狂いもなく当てていく。そして、景品は端から次々棚から落とされていく。その速さ、正確さ、それはまさに神業だった。店主は鐘を鳴らすのも忘れ、真っ青な顔で汗みずくになっている。

 そして、ついにちひろはあの巨大な象のぬいぐるみに狙いをさだめた。その場にいる全員が息を飲む。店主の顔は青から白に変わった。しかし、さすがにこれは無理だろう。誰もが思った。

 だが、ちひろは何の躊躇も迷いもなく、残りの玉をありったけものすごい早業で連射した。それが、象の長い鼻の先を掠め、額の同じ場所にすべて当たる。すると、あの巨大なぬいぐるみが一瞬ぐらっとした。

「おおっ」

 観衆から声が漏れる。そのタイミングをちひろは見逃さなかった。その一瞬のぐらつきに、最後の一発でちひろは致命的な一撃を与える。

「おおおっ」

 観衆からさらに大きな声が上がった。

 最後の弾が当たった後、グラグラと揺れた象は、そして、あの絶対に落ちるはずのないその巨大なぬいぐるみは、ゴロンと棚から落ちた。

「おおっ」

 その瞬間、周囲の客たちから、爆発するような大歓声が上がった。

「わあ、すご~い」

 蒼乃は興奮して飛び跳ねるようにちひろに抱き着いた。やはりちひろはすごかった。

「ちひろ、すご~い」

 だが、ちひろは、全然大したことないみたいな顔で悠然とその場に立っている。そんなちひろの周囲は、拍手と歓声で、ものすごい盛り上がりだった。

「・・・」

 一方、射的場の店主は大きく口を開けたまま、真っ青な顔でその場に茫然と立ち尽くしている。あらためて見ると、店の棚に並んでいた景品は、あらかたほぼとりつくされてしまっていた。

「こんなにあっても、もちきれないよ」

 目の前の台に置かれた景品の山を見て蒼乃は困った。

「じゃあ、持ってっていいよ」

 すると、ちひろが、羨望の眼差しでちひろを取り囲んでいた小さな子どもたちに言った。

「ほんと」

 子どもたちは目を輝かせる。ちひろはそれに小さく頷いた。すると子どもたちは我先にと景品の山に群がり、あっという間にみんな持って行ってしまった。ノートパソコンも小さな五歳くらいの女の子がひょこひょことよたりながら持って行った。

 最後に残ったあの巨大な象のぬいぐるみを、蒼乃が抱きしめるように抱えた。

「これもらっていいの」

 蒼乃はちひろを見る。

「うん」

 ちひろはうなずいた。そして、自分は一つだけ残っていたキャラメルの小さな箱を手に取った。

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