第23話 ちひろ風呂に入る

「ふぅ~」

 蒼乃が手の甲で額の汗を拭う。

「これで、大体必要な物は揃ったかな」

 蒼乃は台所をあらためて見回す。殺風景だった台所が、見違えるようにそれらしくなっている。大型冷蔵庫に、ガスコンロ、様々な調理器具や食器など、必要最小限ではあるが、台所に通常ある基本的なものは全て揃っていた。

「うん、うん」

 満足げに一人うなずく蒼乃だった。

 そこへ、ちひろがやって来て、蒼乃の背後から体を密着させ、蒼乃の肩に顎を乗せる。ちひろの甘える時のいつものしぐさだった。ちひろも蒼乃の肩越しに変わった台所を見回す。

「どう?」

 蒼乃が少し胸を張り、ちひろにドヤ顔で訊ねる。

「うん」

 と、答えたものの、ちひろはよく分かっていないようだった。

「ん?」

 その時、蒼乃は何かに気付いた。それは匂いだった。

「クンクン」

 蒼乃は鼻を動かす。やはり何か匂う。そういえばちひろは風呂に入らない。

「ちひろ、くさいよ」

 蒼乃はちひろを見る。

「くさくないよ」

「くさいよ」

「くさくない」

「くさいよ」

「くさくない、コーラ飲んでるもん」

「え、コ、コーラ?」

「うん、コーラ飲んでるもん」

 ちひろは誇るように言う。

「・・・💧 」

 意味が分からなかった。

「お風呂入らないと」

「やだ」

「でも」

「やだ」

「ほんと子供なんだから」

「子供じゃない」

「そこが子供なんだよ」

「子供じゃない」

 ちひろはむきになる。

「じゃあ、お風呂入って」

「やだ」

「・・・」

 こうなると、ちひろはもうダメだった。

「もう・・」 

 蒼乃は、呆れた。だが、なす術なしだった。

「困ったなぁ・・」

 ちひろはやはり一筋縄ではいかない。

「蒼乃も一緒に入る」

「ん?」

 その時、ちひろが言った。

「蒼乃も一緒に入って」

 ちひろは子供みたいにむくれながら言う。

「うん、分かった」

 蒼乃は少し笑いながら言った。

「ほんと子供なんだから」

 蒼乃は小さくちひろに聞こえないように呟いた。


「・・・」

 ちひろはお湯で満たされた広い湯船を前に、裸で突っ立ったまま固まっていた。

「そんなに嫌なの・・💧 」

 蒼乃はその姿に困惑する。

「入っちゃえば平気だよ」

 そう言って、先に蒼乃が湯船に入り、浸かる。

「・・・」

 すると、それを見たちひろもゆっくりとだが湯船に足を伸ばす。だが、お湯に触れると、すぐにひっこめた。

「大丈夫だよ」

「・・・」

 しかし、ちひろは固まったままだ。

「大丈夫だよ。入っちゃえば気持ちいいよ」

 再び蒼乃は言う。

「・・・」

 ちひろは、しばしためらった後、再び足を伸ばし、今度は湯船に入った。

「はい、しゃがんで」

 湯船に入ったが立ったままのちひろに、蒼乃が言う。

「・・・」

 ちひろは、またしばらくためらった後、ゆっくりと身を縮こめるように湯船に体を沈めていった。

「ねっ、なんでもないでしょ」

「・・・」

 しかし、湯船から顔だけ出したちひろは、固まったまま反応がない。

「もう出る」

「まだ入ったばっかじゃん」

「出る」

「ダメ」

「出る」

「ダメ」

「出る」

「もう少し、ね」

 蒼乃はやさしく言った。

「うん」

 ちひろは顔だけ出して、その顔を真っ赤にして、踏ん張るように風呂に浸かる。

「そんなに、気合入れないと入れないものなの・・💧 」

 蒼乃は、さらに困惑する。

「入った」

 しかし一分も経たないうちに、ちひろは叫ぶと、湯船から勢いよく立ち上がり、湯船から出た。そして、そのまま、風呂から出ていこうとする。

「ちひろ、体洗わないと」

「やだ」

「せっかくお風呂入ったんだから」

「やだ」

「臭いって言われちゃうよ」

「洗って」

 ちひろはまた子どもみたいに言う。そして、蒼乃を見た。

「も~う、子どもなんだから」

「子どもじゃない」

 もうこのくだりは、めんどくさいので蒼乃はもう何も言わなかった。

 蒼乃は泡立ったスポンジで、背中からお風呂椅子に座ったちひろの全身を洗ってゆく。ちひろは完全に蒼乃に任せっきりで脇を洗う時、腕すら上げない。しょうがないので蒼乃が持ち上げて洗う。

「も~う、腕くらい上げてよ」

 しかし、ちひろは完全に弛緩し、人形みたいに蒼乃に任せきりだった。

「そうだ」

 ちひろの全身を洗い終わると、蒼乃はにやりと笑った。

 全身泡だらけのちひろは、蒼乃に任せきりで、完全に気を抜いて座っている。

「ふっふっふっ」

 その背中に、蒼乃はゆっくりとお湯を汲んだ桶を持って近づいた。

「そりゃあ」

 そして、桶のお湯を思いっきりちひろの背中にぶっかけた。

「わああ」

 ちひろが飛び上がり叫ぶ。

「あはははは」

 蒼乃が笑う。

「うううっ」

 ちひろは振り返り、笑う蒼乃を恨めし気に下から見つめると、今度はちひろが、もう一つの桶をひっつかみ、湯船のお湯を掬い取り、蒼乃にお湯をかけ返した。

「はははっ、わ、やめて」

 蒼乃は笑いながら、手でそれを防ぐ。

「あおの嫌い」

 しかし、ちひろはどんどんお湯を汲んではかけまくる。

「きゃっ、はははっ、やめてちひろ、ごめん、ごめん」

 だが、どんどんちひろは蒼乃に近づきお湯をかけ続ける。

「やめてぇ、あはははっ」

 蒼乃が近づくちひろの、その肩に手をかける。

「あおの、もう嫌い」

 むくれながら、ちひろも蒼乃にじゃれつくように、その肩をつかむ。そこで二人はもつれ、じゃれ合うような恰好になった。

「ごめん、あははは」

「あっ」

 そうこうしてじゃれ合ってるうちに、二人は共に足を滑らせ湯船に落っこちた。 

 ザバ~ンというものすごい音と共に、湯船に海底火山が爆発したみたいな大きな水しぶきが上がる。

「ぷは~」

 二人は湯船から慌てて顔を出した。そして顔を見合わせる。

「あははははははっ」

 そして、二人は思いっきり笑った。

「あははははっ」

 何が面白いのか分からなかったが、とにかく二人は笑いまくった。

「あははははっ」

 裸で二人はお腹が本当によじれてしまうほど笑った。

「ああ、おかしい、何やってんだろ私たち」

 蒼乃が涙目で呟く。

「はぁ~、あっ、そうだ。頭洗わなきゃ」

 ひとしきり笑い終わると、目の前のちひろを見て、蒼乃は言った。

「もういいよ」

「ダメ」

 蒼乃が強く言うと、ちひろは、しぶしぶ再びお風呂椅子に座った。

「ちひろの髪、きれいだね」

 蒼乃は、後ろからちひろの真っ白な髪を洗いながら、それに魅入られるように見惚れる。

「そうかな」

 しかし、ちひろはいまいちそう思っていないようだった。一人首を傾げている。

「生まれつき白いの?」

 生え際も真っ白だった。

「ううん」

「えっ、違うの?」

 蒼乃は驚いた。

「突然白くなったの?」

 ちひろはうなずく。

「・・・」

 そんなことがあるのだろうか・・。

「どうして?」

「分かんない」

「・・・」

 何があったのか知りたかったが、なぜかそれは訊いてはいけない気がして、蒼乃はやめた。

「終わった」

 ちひろの頭についたシャンプーの泡をきれいにすすぎ終わると、蒼乃は言った。すると、さっそく、ちひろはもう風呂から出ようとする。

「まだダメだよ。最後にお湯につかってから」

「やだ、出る」

「まだだよ。最後にもう一回お湯に入るの」

「・・・」

 しぶしぶ、ちひろは再び湯船に入る。少しずつ、素直になっているちひろだった。

「もう出る」

 しかし、湯船につかったとたん、またちひろはすぐ出ようとする。

「まだ入ったばっかじゃん」

「出る」

「だめ」

「出る」

「じゃあ、十数えて」

「なんで?」

「え?」

 そう言われると、蒼乃もなんでかはよく分からない。

「う~ん、それは分かんないけど、ちっちゃい時おばあちゃんがいつも言ってたから・・」

 蒼乃がまだ小さかった頃、蒼乃のおばあちゃんが、忙しい両親の代わりに蒼乃の面倒を見るためによく家に来ていた。そして、いつも一緒にお風呂に入っていた。その時、蒼乃も今のちひろみたいにすぐ、お風呂から出たがったが、その時、いつも言われたのが、十数えてからというそれだった。

「一、二、三・・」

「ダメ、もっとゆっくり」

「い~ち、に~、さ~ん・・」

 ちひろは顔を真っ赤にしながら数える。

「だから、なんでそんなに必死なの・・💧 」

「じゅ~う、終わった」

 数え終わった瞬間、ちひろは湯船から立ち上がり、ものすごい速さで風呂から出て行った。

「そこまで嫌がらなくても・・」

 蒼乃は呆れるばかりだった。

「でも、入っただけ進歩だな」

 蒼乃は、少し微笑むと一人呟いた。

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