第21話 仕事
「今日は何する」
今日も遊ぶ気満々の蒼乃がちひろを見る。昨日は意外に盛り上がったかくれんぼで、二人は夕方、暗くなるまで遊んだ。
「今日はダメ」
「えっ」
「仕事だよ」
その言い方とは裏腹に、ちひろの声は、重く冷たかった。
いつ仕事を受けたのか、まったく分からなかった蒼乃は、そのことを不思議に思いつつも、しかし、大きなジェラルミンケースを持ち、玄関へと向かうちひろについてリビングを出た。
「それもってきて」
廊下に出るとちひろが蒼乃を振り返った。蒼乃が廊下の端を見ると、そこに丸まった古びた毛布が転がっていた。
「うん」
蒼乃はそれを手に取った。
「電車で行くんだ・・💧 」
ちひろと蒼乃は普通に電車に乗っていた。
「・・・」
蒼乃が電車の壁沿いに伸びた縦長の椅子に並んで座る、隣りのちひろをチラリと見る。ちひろは丸いサングラスをかけ、相変わらずド派手な格好で、しかも、目の前にはバカでかいジェラルミンケースを置いている。その中には多分、狙撃用のライフルが入っているに違いない。当然、かなり目立つというか、昼日中の一般的な日常の空気感の中で完全に浮いていた。しかも、蒼乃自身、高校の制服姿だ。しかし、あまりに浮き過ぎて、逆に周囲は無視してくれているようだった。
ちひろはそんな状況を全く気にしている様子はない。いつものことなのだろう。くちゃくちゃとガムを噛みながら、子どものようにだらけた様子で、椅子に大きくもたれかかるように座っている。まったくこれから人を殺しに行くとは思えない様子だった。
「・・・」
昼前ののどかな車内と、蒼乃のすぐ隣りの、その非日常がなんとも不可思議な感じがして、蒼乃はどこかパラレルワールドとの境界線にいるような、くらくらとした錯覚を覚えた。蒼乃の以前生きていた日常は、確かな安定という共通する常識の上に基礎が成り立つ、それを前提にした世界だった。しかし、それは狭い水槽の中の世界が世界の全てと信じこんでいる金魚たちのような、一部のそれを信じている人間たちの共同幻想なのだと、蒼乃は知ってしまった。揺れ動く不安定で不規則な水の輝きのように、世界は、常に不安定で常識はその意味を常に揺さぶられている。
電車を乗り継ぎ、郊外の小さな駅に降り立つと、ちひろは駅前の雑居ビルの立ち並ぶ一角に入って行った。
蒼乃が歩き疲れ少し汗ばんで来た頃、ちひろが一棟の古びたビルの前で立ち止まった。それは、もう、半分朽ちたようなビルだった。
「ここ?」
蒼乃がちひろを見る。
「うん」
ちひろがビルの中に入って行くと、蒼乃もそれに続いた。ビルの中は人の気配も殆どなく、殆どのテナントが空き家になっていた。
蒼乃はちひろの進むに任せて、古びた階段を上り、最上階までやって来た。
「もう上はないよ」
蒼乃が辺りを見回した。
「あそこから上に行ける」
ちひろが上を見上げた。そこには天井に続く壁に打ち付けられたコの字型の錆びた鉄棒で出来た梯子と、その先に丸い鉄の蓋でふさがれた出口があった。
「あそこ上るの?」
「うん」
ちひろを先頭に二人は梯子をのぼって行った。
「うわっ」
蒼乃は思わず額に手をかざす。屋上に出ると、夏の日差しが、二人を強烈に照らした。その熱量だけがいつもと変わらない日常だった。
「こんなとこ入って大丈夫?」
蒼乃はついおどおどしてしまう。
「大丈夫だよ」
ちひろはまったく平気な顔をしている。
ちひろは、ビルの屋上の端にまで行くと、仁王立ちに遠く見つめた。その隣りで、蒼乃もちひろの視線を追う。しかしその先には、見慣れた街の風景があるだけだった。なんの生命感もない無機質なコンクリートの景色。少し大気汚染に霞んだ街並――。
時刻は丁度昼。二人はじりじりと焼き付ける太陽の真下に立っていた。
「そこに敷いて」
ちひろが目の前の屋上の際を指さす。
「うん」
蒼乃がそこに毛布を広げ敷いた。
「これお願い」
すると、今度はそう言って、突然ちひろは自分の噛んでいたガムを口から取り出すと、蒼乃の口の前に持って行った。
「え?ええ?」
蒼乃は驚いたが、ちひろが差し出すがまま、そのガムを自分の口に受け入れた。
それを確認すると、ちひろはジェラルミンケースを開け、その敷かれた毛布の上で素早く狙撃用のライフル銃を組み上げ、すぐにそれをさっき見ていた街並みの方に向け構えた。それは神業レベルの素早さだった。
ちひろの手の中に構えられた銃は、銀色に光る異様に長い、上にバカでかいスコープの付いた奇妙な形のライフル銃だった。
「スリーピーパケット3379だよ。五キロ先のネズミの目だって撃ち抜けるわ」
ちひろが自慢気に言った。
「えっ?」
そして、蒼乃がちひろの言葉を認識する間もなく、スコープのキャップがカパッと上に開き、ちひろは銃の引き金を引いていた。そして、そのカスっという小さな発射音と同時に、ちひろはすでに立ち上がっていた。
「さ、帰ろ」
「えっ、もう終わったの?」
「うん」
驚く蒼乃をよそに、ちひろはまた神業のごとく素早くスリーピーパケット3379をばらして、ケースに収めると、さっさとさっき上ってきた丸い穴へと歩き出した。
蒼乃は、床に敷いた毛布を慌てて畳むと、ちひろを追いかけた。
「あっ、返して」
蒼乃がちひろの背後に追いつくと、急にちひろはふり返った。
「えっ?」
ちひろは、蒼乃の口に無遠慮に手を伸ばすと、蒼乃がそれに合わせて開く口の中からガムを抓み出し、再び何事もなかったみたいに自分の口へ放り込みガムを噛みだした。そして、また踵を返すと出口に向かって歩き出した。
「・・・」
蒼乃は、呆然とそんなちひろの背中を見つめていたが、すぐに我に返ると慌ててちひろの後を追った。
「・・・」
マンションの部屋に帰って来て、蒼乃はしばし茫然とソファに座り込んでいた。あまりにあっけなく仕事が終わったので、まるで殺しの実感のなかった蒼乃だったが、しかし、でも、あのちひろの覗いていたスコープの先に確かに誰かがいて、その人間は死んだのだろう。
「・・・」
そう考えると、蒼乃はやはり少し怖かった。しかし、隣りに座るちひろは相変わらずガムを嚙みながらそれを時々風船にしてふくらませ、呑気にテレビを見ている。
「・・・」
そんなちひろを蒼乃は横目で見る。再び蒼乃は、パラレルワールドとの境界線上にいるようなくらくらとした錯覚を覚えた。目の前の自分がいる現実が現実の感覚を失い、不安定に揺れ始めていた。
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