第20話 かくれんぼ
「沸いた」
ついに広い湯船はお湯で満たされた。
「ちひろ、お風呂沸いたよ」
しかし、ちひろはちらっと蒼乃を見ただけで、またすぐにテレビの方に顔が向く。ちひろはお風呂にまったく関心がないらしい。
「ちひろは入らないの」
「うん、入らない」
やはり、ちひろはにべもない。
「じゃあ、私先に入っちゃうよ」
「うん」
ちひろはまったく興味がないらしい。もうテレビからまったく目を離さない。
「・・・」
仕方なく蒼乃は一人で先に入ることにした。
「ふぅ~」
広い湯船に一人浸かる蒼乃は、最高に幸せな気分だった。一日中掃除をしていた心地よい疲労感もあり、本当に至福の時を感じていた。
「やっぱすごいなぁ」
改めて湯船に浸かりながら、お風呂場を見回すと蒼乃は、その姿に感動した。広く、そして、美しく、まるで本当に温泉場のローマ風呂を一人貸し切っているみたいだった。
「ん?」
「・・・」
ふと見ると、ちひろが風呂場の入り口の扉の隙間から、じっと中を覗いている。
「ちひろも入ろうよ」
蒼乃が声をかけると、バタンと扉は閉まった。
「変なの」
蒼乃は、もうちひろの奇行のことは気にしなかった。もう、蒼乃にも、大分普通ではない子だということは分かってきていた。
「ふうぅ~」
蒼乃は湯船から天井を見上げた。
蒼乃は昨日、ちひろに殺されようとしていた。額に銃を突き付けられ、ちひろのその青い目は確かに殺意の中に蒼乃を見つめていた。しかし、それは昨日のことのはずなのに、すでにもう夢の中の出来事だったみたいに現実感を失っていた。
それとは別になぜか蒼乃は、妙に充実している自分を発見していた。こんな感じいつ以来だろう。もう思い出せないくらい物心ついた頃から、世界は灰色で、死にたいと夢想する鬱々とした黒雲が心を覆っていた。世界はいつも狭く固く、蒼乃を冷たく囲っていた。蒼乃は今その訳の分からない囲いから、解き放たれたような得も言われぬ開放感を感じていた。
今までのあの色のない、灰色の世界は今色を取り戻し、目の前にあった。確かにあった。蒼乃は、今、生きていると感じていた。確かに感じていた。
ちゃぷんっ
蒼乃は湯船に頭ごと沈めた。もう、なんだかこのまま外へ飛び出して、空でも飛んでいきたいような、高揚感が蒼乃の中に湧き上がっていた。
「ちひろ、本当に入らないの」
「うん」
蒼乃が風呂から上がり、リビングに戻ってちひろに再度訊くが、やはり、ちひろはお風呂に入ろうとはしなかった。
「もったいないよ」
しかし、返事はない。
「お風呂嫌いなんだ」
そう言えば小さい頃、蒼乃自信もお風呂が嫌いで、よく母や祖母を困らせていた。
「ふふふっ」
その時の、幼い自分を思い出して、つい蒼乃は一人小さく笑ってしまった。そんな蒼乃を、ちひろが不思議そうに見つめていた。
次の日も、ちひろは朝からただひたすらテレビを見ている。
「ねえ」
「何?」
「テレビばかり見てないで、何かしようよ」
蒼乃があまりの退屈に、ちひろに提案した。掃除もあらかたやってしまって、蒼乃はすることがなくなっていた。
「何かって何?」
ちひろが蒼乃に向かって体ごと振り返る。
「う~ん」
蒼乃は考えた。
「かくれんぼってのはどう」
「何?かくれんぼって」
「したことないの」
「うん」
「ただ一方が隠れて、一方がそれを探すってだけだけど・・。この部屋は広いからできるんじゃないかな」
「うん、やろう」
ちひろはすぐに乗ってきた。
「十数えるまで目をつぶってるんだよ」
「うん、分かった」
じゃんけんで負けたちひろが最初に鬼になった。
「ひと~つ」
ちひろの声が響く。蒼乃は慌てて隠れ場所を探した。
「あっ、ここがいい」
蒼乃は廊下の壁に小さな物置があるのを発見した。丁度蒼乃が隠れられそうな大きさだ。中を開けると、ほとんど何も入っていない。蒼乃はそこに隠れた。
「じゅ~う」
ちひろが数え終わった。
「ふふふ」
蒼乃は少しドキドキしながら物置の中で待った。
「わっ」
いきなり物置の扉が開いた。蒼乃はすぐに見つかってしまった。
「なんで分かったの」
驚く蒼乃に、しかし、ちひろは小さく口元で笑っているだけだった。
「今度は蒼乃だ」
ちひろはそう言って、もうどこかへ行ってしまった。
「・・・」
仕方ないので蒼乃はとりあえず、その場で大きな声で十数え始めた。
「じゅ~う」
蒼乃が数え終わると、顔を上げ部屋を見回した。
「・・・」
隠れた人間を探そうと思うと、この部屋はかなり広いことにその時、蒼乃は気付いた。
「これは大変かも・・」
そう思いつつ、蒼乃はとりあえず近いところから順に、ちひろを探し始めた。しかし、見つからない。しかも、手がかりさえもがない。ちひろはまったくわずかな気配も物音もたてなかったから、蒼乃はどこをどう探していいのかすらが分からなかった。
「そうか、ちひろはこの部屋を知り尽くしてるんだった」
しかも、蒼乃はこの部屋のことを全然知らない。
「ちひろは殺し屋だから、気配も消せるんだ。プロだもんな」
たかがかくれんぼと思っていたが、相手がその道のプロだと気付くと、蒼乃はなんだか後悔してきた。
「こりゃ大変なことになってきた」
探せど探せどやはりちひろはみつからなかった。気配さえまったく感じない。仕方なく、蒼乃は、ローラー作戦で片っ端から、部屋の中を探し始めた。
「・・・」
しかし見つからない。トイレもクローゼットもくまなく探したが、まったく見つからない。ちひろが本当にこの部屋の中に隠れているのかすら疑わしいほどに見つからない。
「こりゃダメだ」
蒼乃は探すことに疲れてきた。
「こうさ~ん。降参」
蒼乃は、ついにあきらめ、部屋中に向かって思いっきり叫んだ。しかし、ちひろは出てこない。
「こうさ~ん」
もう一度、思いっきり叫ぶがやはりなんの応答もない。
「ちひろ~、もう降参。出てきてぇ~」
蒼乃は叫ぶ。しかし、部屋の中は静まり返っている。人の気配も音もまったくしない。
「ちひろ?」
なんだか蒼乃は不安になってきた。
「ちひろ・・?」
しかし、やはり、部屋の中は静まり返ったままだった。まるで蒼乃一人が部屋の中に取り残されたみたいだった。
「・・・」
蒼乃の中に堪らない寂しさと不安が湧き上がった。やさしかった父が、蒼乃のマンションの部屋から出て行ってしまった後、幼い蒼乃はそこに一人立ち尽くしていた。あの時の堪らない寂しさと不安が今目の前にあった。
「ちひろ~」
蒼乃は叫んだ。
「ちひろ~」
蒼乃は必死で叫んだ。しかし、ちひろは出てこない。
「ちひろ~、出てきて~」
蒼乃は泣きそうになった。
「ちひろ~」
蒼乃の胸は、不安でいっぱいになった。
「ちひろ~」
「わっ」
「きゃああぁ~」
その時、ちひろが突然蒼乃の背後から抱き着いてきた。蒼乃は死ぬほどびっくりした。
「もう」
蒼乃が振り向き、むくれるようにして、怒った顔をする。しかし、ちひろは蒼乃に顔を近づけ無邪気に笑っている。
「ふふふっ」
そんなちひろを見ていると、なんだか蒼乃も笑えて来た。
「ふふふ」
「ふふふ」
「あははははっ」
二人は抱き合ったまま、思いっきり笑い合った。何がこんなにおかしいのかまったく分からなかったが、とにかく二人は笑った。
「こんなに笑ったのいつ以来だろう」
蒼乃は、笑い過ぎて苦しくなりながら、その笑いと苦しみでごっちゃになった頭の中で思った。本当に幼い、小さな頃、近所の友だちたちと遊んでいた時、確かこんなことがあった。それを、長年完全に忘れていたその感覚を今、蒼乃は思い出していた。
「こんな感情も私にあったんだ・・」
蒼乃は驚きつつ、しかし、心の底から楽しい今を、笑って笑って、笑いまくった。
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