03話.[いきなりなによ]

 家だとやる気が出ないから教室に残って勉強をしていた。


「俺も一緒にやっていいか?」

「うん」


 ちなみに、テニスしか頭にない新田でもこうなのに静香はもう帰ってしまっている。

 暑い中、真面目に放課後まで勉強をしたらおかしくなるからだそうだ。


「分からないところはある? 分かるところなら教えられるけど」

「じゃ、ここを教えてくれないか?」


 自分の知識を深めるためにもなるべく丁寧に説明をした。

 一応、言い終わった後に速攻で確認をしたから大丈夫だと思いたい。

 他人に間違ったことを教えていたら不味いからね、あたしだけの問題じゃなくなるし。


「なあ、正直に言ってくれないか?」

「え、間違ってた?」

「違う、明らかにいま無理しているだろ」


 手を止めて目の前の彼を見る。

 彼もまた意識をこっちにやっているようだった。


「いきなりなによ、無理なんかしていないわよ」


 まだ引っかかっているようならここで勉強なんかしていないで寝ている。

 あれは兄的にもあたし的にも正しい判断だった。

 まず間違いなく今度のことを考えたら正しく、居残ることの方が問題だったから。


「悟さんから何度も連絡がくるんだ、櫻井の様子はどうかって」

「元気だって言っておいてちょうだい」

「はぁ、頑固だよな」


 うるさい、頑固でなにが悪い。

 もう終わったことを気にして次のことに集中できないことの方が問題だろう。


「馬鹿だよな、そういうつもりじゃないって言っているのに飛び出してきて連絡もしないでさ」

「……あんたには関係ないでしょ」

「もしかしたら本当に櫻井を追い出したかったのかもしれないな」


 意地が悪い……。

 こういう事後に言葉で刺されることの方が傷つくと知った。


「……それでもいいわよもう」


 別に相手は兄ではないから涙を見せたって構わない。

 ま、中学時代から溜まっていた不安が彼の中にもあったのだというだけだろう。

 彼は無言のまま荷物を片付けて教室から出ていった。

 あたしは気にせずに勉強の続きをする。

 大体19時ぐらいには学校をあとにして家に。


「ふぅ」


 ご飯の前にお風呂に入ってリセット。

 両親は鋭いところがあるからしっかりしておかなければならない。

 余計な心配をかけないように、あとは捨てられないように家事とかも手伝っておかないと。


「莉月ちゃん」

「ん? どうしたの?」

「いや、ただ可愛い娘のお顔が見たかっただけー」

「はは、この先も嫌というほど見られるわよ」


 どうせ彼氏ができないから結婚なんかできないし、ひとり暮らしをするつもりなんかもない。

 本当にいつまでも見せてあげられる、逆に両親が嫌だと言うぐらい見せてあげよう。




 テスト本番まで残り2日となった。

 とはいえ、金曜日の今日と月曜日の2日だから結構余裕はある。

 それに普段から真面目にやっていた分、そこまでいっぱいやらなくても大丈夫な感じで安心していた。


「櫻井」

「……だからいいわよ」

「まだなにも言ってないだろ、ここ座るぞ」


 どうせ教室にはあたし達以外もう誰もいないから気にしなくていい。


「この前は悪かった」

「……思っていてももう言わないで、痛いのよ……」

「ああ、分かった」


 問題はないとか言ったけど、かなり恥ずかしい。

 テスト勉強をやるという目的があって良かった、これなら顔を見られなくてもおかしくはないから。

 誰だって相手よりも自分の教科書とかプリントとかと向き合う期間だから。


「抱え込まずに言ってくれよ、俺らはもう5年も一緒にいるんだからさ」

「……本当は離れたくなかったわ」

「だろうな」

「でも、もういいの、新田の言う通りだから」


 会いに来ていない時点で兄の内のどこかが安心しているのだと思う。

 無自覚に気を張っていた部分もあったと思うんだ、家に女ひとり残して遅くに帰るわけにはいかないと急かしてしまったかもしれないし。


「そうだ、あんたも夏祭り行く? 静香と一緒に行くって約束しているのよ」

「それなら行かせてもらうかな」

「うん、あんたがいてくれれば静香だって安心するだろうし」


 あの子は昔、お祭りのときに変な男の人に絡まれてから少し恐れているから彼がいてくれれば多少は落ち着けるはず。

 そういうリスクがあると分かっていてもやっぱりお祭りが開催されているとなったら参加したくなるもんね。


「櫻井だって少しは安心できるだろ」

「……あんたには悪いけど、兄の代わりにはならないわ」

「本当にブラコンだな」

「うるさい、好きでいてなにが悪いの」

「悟さんが受け入れてくれるとは思わないけどな」


 そんなことっ、……あたしが1番分かっている。

 だからすぐにとはいかなくても捨てるために出てきたんじゃないか。


「やっぱりいいわ、夏祭りは静香と行って」

「は? 櫻井はどうするんだよ?」

「無駄遣いすることになっちゃうだけだし家にいるわ」


 小さい頃から毎年兄や両親と行けていたのにそれができなくなるということなら意味もない。

 値段設定だって強気な感じだし、お小遣いをそれで吹き飛ばすのはもったいないとしか言いようがなく。


「ごめん、せっかく言ってくれたのに」

「はぁ、なんか櫻井らしくねえな」

「あたしらしいって……なんなのか分からなくなってしまったのよ」


 他がどうなっても兄や両親と仲良くできていれば問題はないと考えていた。

 勉強も運動も一応人並み程度には頑張っていたけど、そういうのもあって交友関係の方は多くは求めなかったから。


「時間を無駄に使わないで、別に離れてくれればいいわよ」

「中学時代の櫻井だったら絶対にそんなこと言わなかったぞ」

「あのときは兄がいてくれたからよ、兄が近くからいなくなったらこんなものよ」


 それで愛想を尽かしても構わない。

 兄といられなくなったのであれば他を頑張ったって意味はない。

 そして、こんな態度でいたらあっという間に人は離れていくことだろう。

 でも、生きているだけで周りには満足してもらいたかった。

 ヒステリックになったりしないで普通に存在しているだけなんだから大多数に迷惑をかけているというわけでもないしね。


「あんたにも迷惑をかけたわね、ごめんなさい」


 今日は自分の方が片付けて先に教室を出た。

 まだ18時にもなっていないから外は凄く明るい。

 家に着いて部屋に行ったとき、ふとカッターが目に入った。

 もしあたしの精神が弱かったのであればリストカットをしていたんだろうなと考えて意識を他にやる。

 それより勉強だ、かわりに土日は少しゆっくり休もう。


「莉月」


 これは幻聴、ではなかった。

 何度かノックをされた後に「莉月」とあたしの名前を呼ぶ兄の声が聞こえる。

 なんにも言いたいこともないから無視をして勉強を続けていたら……。


「……いるなら無視しないでよ」


 部屋に入られて無意味な対策となった。

 しょうがないんだ、鍵をかけられないから突入されたらどうしようもない。


「……バイトは?」

「まだ伸ばしてたり増やしているわけじゃないよ」

「じゃ、帰りなよ、高校生はテスト期間なんだから」


 学校ではもうできないからとそうでなくても微妙な気分なのにそこにこれだ。


「喧嘩みたいな状態になるのは嫌なんだけど」

「別にそんなのじゃないでしょ、いるべきところに戻ったというだけで」

「……僕は離れたくてあんなこと言ったわけじゃない、ひとりで寂しい思いをさせるから実家に帰れば母さんもいていいって……」

「だからこうしてこっちに来ているじゃない、仮にあのとき出ていなくてもこっちへ来なければならないことは決まっていたんだから」


 結果は同じなんだ、じゃあもういいだろう。

 絶対に内のどこかには迷惑だから切り捨てたいという考えがあったのだ。

 普段だって兄が帰ってくるまではどうせひとりなのに夏休みは~なんて限定するのはおかしいだろう。

 ま、しょうがない、兄が8割ぐらいの家賃を払って住んでいるのにあたしはなにもできないのだから。


「これからはこっちで住むからいいわよ」

「莉月……」

「帰りなさいよ」


 なにもかもいまのあたしにとってはマイナスでしかない。


「僕は……莉月と仲良くするため――」

「帰らないと切るわよ」

「え」


 もちろん、兄になんか刃は向けないけど。

 腕のあんまり害が出なさそうな場所につけてそのまま。


「な、なにやってるの!」

「帰らないと切るって言ったでしょ」

「……帰るからもう馬鹿なことしないで」


 当たり前だ、こんなことそう何回もしてたまるか。

 五体満足で産んでくれた両親を悲しませるようなことをするか。


「後で電話をするから」

「そうしたらまた増えるだけよ」


 階段を下りていく音が聞こえてきた後、あたしは布団の中に潜り込んだ。

 痛い……こんなこともうやりたくない。

 傷跡が酷い人はどうして何回も何回もこんな痛いことをできるのだろうか。




 最後の教科が終わるまで、あと残り15分。

 あたしは最終チェックを終え、答案用紙を裏返した。

 なんとなく意識だけをクラスメイトの方にやり、最後にこの前の傷を見る。

 いまはかさぶただけど、恐らくこれがなくなっても痕は残るんだろうな。

 痛かった、痛かったけど兄から逃げるためにはいい作戦だったと思う。

 あそこでこのままにしておくとなにかやらかすという雰囲気を作っておかなければならない。

 どうせ口先だけで自分を傷つけることすらできないんだと判断されては駄目だったのだ。

 広範囲でもなく、致命傷にもなることはなく、残ってもこれだけであれば問題もないだろう。


「はい、後ろから集めてきてねー」


 そんなわけでテストは無事、終わりを迎えた。


「莉月ー……」

「これから部活よね? 楽しんできなさいよ?」

「うん、だけどお休みも恋しいなあー」


 帰ろうとしたら新田に腕を掴まれて空き教室へと連れて行かれた。


「今日から部活よね? あんたはテニスができて嬉し――」

「なんでこんな馬鹿なことをした」

「あ……兄を部屋から追い出すためよ」


 なんで敢えてこのタイミングでそれを言うのか。

 アピールするためじゃないけど傷だって常に目に見えていたのに。

 日焼けとか気にしないから半袖でいたんだからさ。


「部活が終わったら櫻井の家に行く」

「別にいいけど」


 両親だって彼のことは知っている。

 しかも拒むと余計に面倒くさいことになるから適度に相手をしておくのが1番で。

 情報が共有されていることは嫌なんだけどね。


「それでお前を悟さんのところに連れて行く」

「なんでそんな無駄なことを……」

「無駄じゃない、少なくとも悟さんとお前にとってはな」


 彼は「もう2度とこんな馬鹿なことをするなよ」と残し歩いていった。

 ……あれ以外で追い出す方法が思いつかなかった。

 それとも、そうだったんだと納得していなくてもしたふりをしておけばよかったのだろうか?


「帰ろ」


 言われなくてもこんなことはもうしない。

 兄との関係がもっと致命的なものになったらなるべく迷惑をかけない形で死ぬけど。


「ただいま」


 あ、どうやら母はいないようだ。

 それならばとベッドの上でのんびりとしてこれからのそれに備える。

 で、夜になったら彼が家にやって来た。


「行くぞ」

「ね……許してよ、別にあんたに迷惑をかけているわけじゃないでしょ?」

「ずっと暗いままでいられると鬱陶しいんだよ、行くぞ」


 そんなテニスラケットを握る力で掴んでこなくてもどうせ逃げられないわよ……。

 少し抵抗している感じを見せたくてあんまり歩かないようにしていたらすっ転びそうになってぎゅっとを目を閉じた、が、転ぶことは彼に手を掴まれていたことでなかったけど。


「仲直りすれば少なくとも気分は良くなるだろっ」

「……行きたくない」

「なんでそんな風になっちまったんだよ!」


 なんでと言われても……そんなの兄ありきで生きていたからだ。

 面倒くさい性格をしているのは分かっているけど、こればかりはもうどうしようもない。


「行くぞ」

「……分かったわよ」


 今度は大人しく付いていく。

 着いたら彼は遠慮なくインターホンを鳴らし、兄も結構すぐに出てきた。


「お兄ちゃんのことが好きなの」

「「は……」」


 これを言えばもう近づいて来ることもなくなる。


「いきなり言われても……それに僕らは血の繋がった兄妹なんだから」

「うん、聞いてくれてありがとう、それじゃあ」


 歩いてきた道を引き返して。


「待てよっ」

「……もう生きている意味なんかない」


 電車や車道に飛び出すとかそういうことはできないから必然的に川とかになる。


「お前はまた逃げるのかよ」

「別に自由に言ってくれればいいわ」


 夏だろうが水温が高いわけじゃないということはすぐに分かった。

 あたしはそこで振り返って砂利のところに立っている新田を見る。


「どうせ死ぬ勇気なんかねえくせに」

「……どうしようもないじゃない、やりたいことももうないもの」

「とことん頑張れねえ弱虫がよ!」


 どうでもいい、そのまま後ろに体を倒した。

 で、真ん中辺りなら十分深いし大丈夫だろうと考えていたんだけど、段々と苦しくなってきて顔を出そうと動いてしまう弱い自分がいて。

 それならとうつ伏せの状態になって意地でも口先だけではないことを見せたかった。

 が、


「馬鹿やろう!」


 彼に引っ張り上げられ、そのうえで殴られるという流れに。

 本気のスイングは不味いでしょ、それこそそれで死ぬわ……。




「ん……いたっ!?」


 単純に背中も痛い。

 あと、寒い、無事に死ねたのかと思ったけど砂利ゾーンに寝転がっていただけだった。

 意識を向けてみればこちらを睨んできている新田と、泣いている兄の姿が見える。


「馬鹿が、やっと起きたのかよ」

「……冗談を本気にするとかあんたこそ馬鹿――……暴力男」


 これは絶対に痣になる、そうしたら言いふらしてやるんだから。

 寒いから早く帰ろう、彼の言うように死ぬ勇気なんかどうせないんだ。

 でも、多少はやれるところを見てほしかったから後悔はしていない。


「暴力男は付いてこないで」

「そうしたらまたアホなことをするだろうが」

「兄もいるのよ? するわけじゃない、あんたと違って好きな人の前でそんなこと」


 いまは逆にすっきりとしていた。

 振られたのが良かったんだろう、もう先程までの自分は死んだのだ。

 いまから動くのは新しい自分、なんにも引っ張られない自由な人間。


「どうだかな、その人に振られて馬鹿なことをするのがお前だからな」

「大体、なに調子に乗って馬鹿とかお前とか言っているわけ?」

「馬鹿なやつに馬鹿だと言ってなにが悪いんだよ」


 それよりどうしよう、兄の方がダメージ大って感じなんだけど。

 なんで新田もわざわざ呼んだのか、死ぬ勇気がないと分かっていたんだから放っておけばよかったものを。

 どうせあれ以上苦しくなっていたら顔を間違いなく水面から出していたし。


「ちょっと、こっちはもう実家なんだけど」

「いまの悟さんじゃ頼りにならねえから泊まる」

「着替えとかどうするのよ……」

「悟さんのがあるだろ?」

「ま、全部を持って行っているわけではないからあるだろうけど……」


 確かにいまの兄の方がやばい雰囲気だった。

 放っておいたら馬鹿なことをしそう、それだけはあってはならない。


「新田、お兄ちゃんのことをちゃんと見ておいてちょうだい」

「あと馬鹿な妹の方もな」

「うん、それでいいから」


 とりあえず新田に先にお風呂に入らせた。

 あたしは玄関に座って適当に時間をつぶしてた。


「くしゅっ! うぅ……」


 濡れたままだと気持ちが悪いし寒いな。

 兄はリビングに行かせているから大丈夫、母が遅くまでいてくれているから馬鹿なことをしようがない。

 階段はチェックしてあるから部屋に逃げることもさせない。


「出たぞ」

「うん」

「待て、ちょっと顔を見せろ」

「ぶぇ」


 頬を両手で挟まれてチェックをされる。

 心配してくれているような感じもするけどやったのは彼だから微妙だ。

 全力だった、当たったところが悪ければ骨折もありえた。


「……悪い、腫れるかもしれねえ」

「そうしたらあんたに殴られたって言うから大丈夫よ」


 彼には兄といてもらい、母には着替えを持ってきてもらう。

 事情を説明したのだろうか、母はもの凄く不安そうな顔でこちらを見てきていた。


「ありがとう」

「うん……」


 すぐにお風呂に入って今日もリセットをする。

 でも、あそこで助けてくれたということは一応信用してくれたということか。

 途中から本気だって思ってくれたってことだよね? それならいいかな。


「お、馬鹿が戻ってきたな」

「……本当に泊まるの?」

「ああ、またあんなことをされたら今度は俺が殺しかねないからな」

「こわっ……関わるのやめておいた方がいいわよねこれ」

「悟さんの部屋に行く、お前も大人しく付いてこい」


 どうせ2階には行かなければならないんだからいちいち言わなくていい。

 けど、とにかくこれからのことでかなり憂鬱だった。

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