第7話


 一か月ほどたった。香織だったモノはどんどん弱っている。医者の話によると、もういつ亡くなってもおかしくないらしい。その反対に、佐々木さんの方は日に日に元気よくなっていて……品のない話だが、どこか色っぽくなっていった。肌、髪のつやは、あまり女性というものをしっかり見ない僕でもはっきり分かるくらい変わったし、化粧もうまくなった。何が彼女をそうさせたのかは分からないが、バイト仲間の中年女性曰く「女は本気の恋をすると別人みたいになる」という。

 その相手が僕ならば、僕はその事実を喜べるだろうか? わからない。


 もし香織がいなければ、という言葉が頭に浮かんだ。最悪だと思った。そんなことは今まで思いついたこともなかったのに。

 しかし、僕がそもそも幼少期に香織と関係を深めていなければ、僕は佐々木さんを心から愛せたのではないか? こんな、意味が分からない諦念とプライドに囚われず、素直に、二十手前の男らしく……

 馬鹿馬鹿しい。そもそも香織がいなければ、僕は今頃大学のつまらない授業とくだらないサークルにうんざりする毎日を続けていたはずだ。

 まだ、コンビニのバイトの方がマシだ。人の役に立ってる感じがする。代わりはいくらでもいることくらい分かっているけれど、それでも頼りにされるのは嬉しいものだ。

 それは嘘ではないのか?


 急に、頭の中で何度も繰り返してきた「僕の嘘は誰も信じないし、誰も疑わない」という言葉が、恥ずかしい言葉であるように思えてきた。

 何が「誰も信じないし、誰も疑わない」だ。ただ僕は、自分に興味を持ってもらえないことが寂しくて、当たり前だと思おうとしただけじゃないか!

 香織がそうであったように……僕は、香織の嘘を、見抜けなかったことを正当化しようとしたのだ。

 あぁ。だから、それで、何になるだろうか? そうやって僕は大人になるのだろうか? あと三か月もたてば二十歳になる。


 嫌だ。苦しい。


 香織が死んだときの痛みが戻ってきたようだ。ずっと押し殺した感情が、今になって、戻ってきた。頭が痛い。

 今は何時だ? 夜二時。早く眠りたい。明日も仕事がある。どうして、まだ生きていなくてはならないのだろう? こんなにつらいのに。

……佐々木さんも、こんな気持ちだったのかな。だとしたら、僕がしたことは。



 無慈悲にも部屋に少しずつ光が差してくる。ほとんど眠れなかった。眠ったと思ったらすぐに目が覚めて、しかも涙が止まらない。涙が止まって眠りに落ちたと思ったら、またすぐに目が覚める。そんなことを何度も繰り返して、朝が来てしまった。

 こんなのは、香織が死んだとき以来だった。

 むしろ僕はなぜ、香織があぁなってから一年以上もぐっすり眠れていたのだろう。


 食事はあっさりと喉を通った。やる気はしなかったが、シャワーを浴びると仕事をしようという気持ちになった。

「お前は根が真面目なんだ。なんとかなるさ」と、大学を辞めたときの父の言葉を思い出した。なんだかんだ、僕はたくさんの人に支えられてきたのかもしれない。

 僕は僕が思っていたよりも、大人じゃなかったんだろう。だとしたら、今の僕は何なのだろう? それを自覚したら、大人になれるのか?

 くだらない。結局、日々やることをやって、お金を稼いで、生活して、死んでいく。精神が成熟していようが、未成熟であろうが、結局同じことなんだ。同じ現実を繰り返して、吐き気に堪えて、食って寝て、泣く。


 僕は孤独だと思う。でも孤独だと思っているうちは、その孤独を誇れるような気もするのだ。だって僕は、孤独を耐えきれているから。


「おはようございます。佐伯さん。顔色悪いですが、大丈夫ですか?」

「ちょっと眠れなくて」

 佐々木さんは心配そうに僕の顔を覗き込んで、額に手を当てた。そして、笑った。綺麗な笑顔だ。

「熱はなさそうですね。でも、しんどくなったら、教えてくださいね?」

 僕は佐々木さんと違って、自分自身の調子くらいちゃんと把握できる。そう言おうと思ったが、飲みこんだ。なんだか最近僕は、あまりに子供っぽい。感情を押し殺せていない。


 押し殺せていない? 

……僕はずっと、感情を押し殺していたのか。


 そう自覚した瞬間、足の先から背中を通って頭の先まで、すーっと幽霊が通り抜けるような感じがした。心臓が激しく胸を打って、僕は思わず顔を背けて腕で目を抑えた。嗚咽が出てきた。感情? 感情が……

「す、すい」

 すいません、とすら言えなかった。しゃっくりみたいに……頭はこんなに冷えているのに、心と体は、ただ……ただ、ずっと震えていた。



「落ち着きました?」

「はい。すいません」

 不思議と恥ずかしくはなかった。これも僕なのだと、すんなり受け入れることができた。そして、一時間ほどぶりに見た佐々木さんの顔は、ひどいことになっていた。目は赤くはれていたし、涙のせいで中途半端に化粧が落ちて、何というか……僕は思わず笑ってしまった。

「酷くないですか? 佐伯さんのせいなのに。これじゃ接客できないですよ」

 僕は、この人が好きなのだと思った。もう二度と、誰かを愛することはないと思っていたのに、こんなにあっさりと、また人を好きになるのかと、自分を笑った。でも今度は、軽蔑しなかった。

「戻りますね。佐々木さんは、化粧なおしといてください。せっかくの美人が台無しですから」

「あはは」

 僕は何事もなかったように、仕事に戻った。店長はその日、ずっと優しかった。ことあるごとに「佐伯君、平気?」と声をかけてきた。普段落ち着いている人間が急に泣き出したら、さすがに心配になるのかもしれない。


「帰り、奢らせてください」

 佐々木さんは、本当に別人みたいになったと思う。自信満々の表情で、誘ってきた。

「いいですよ」

 僕も変わったと思う。バイトを始めてから、この数か月で。



「不思議なものですね。本当に」

 居酒屋で、お酒を飲みながら、佐々木さんはしみじみと語る。

「自分でも、こんな別人みたいになれるとは、思ってませんでしたよ」

「見違えましたよね」

 本当に、心からそう思った。

「ありがとうございます。色んな人に、最近そう言ってもらって、あぁ本当に私は変わったんだなぁって」

「何が、そうさせたんでしょうね」

 佐々木さんは、首を振った。嬉しそうに。

「最近、生きててよかったって思うこと、多いんです」

 僕が何も言わないでいると、佐々木さんは少し緊張した咳払いをした。

「私、その。あはは。何ていうか」

 また咳払いをして、お酒を飲んだ。あたりは明るい雰囲気が漂っている。楽し気で、幸せな。

「佐伯さん。その……ふふふ。もう!」

 また、飲んだ。思い切り、助走をつけるような気持ちのよさで。

 あたりがさっと静まった。あぁこんなことあるんだと、僕は不思議な気持ちになった。

 世界の時間が止まったようだ。全てが、この一瞬に集約されているような気がした。

 僕と佐々木さんは、見つめ合っていた。


「好きです。本当に。私と付き合ってください」


 反射的に、首を横に振ってしまった。ただ、何を言えばいいのか分からなかったからだ。佐々木さんはもう一杯お酒を飲んだ。

「いいんですよ。わかってましたから」

「いや、そうじゃない」

 僕はとっさに、否定した。敬語も忘れて。

「そうじゃないんです。そうじゃなくて……」

 佐々木さんは、まっすぐ僕を見つめていた。その目は正気だった。まっすぐ現実を見つめる目だった。期待ではなくて、覚悟がそこにあるのが分かった。

「……香織の見舞いに行きましょう。二人で」

 最初から、今日はそうするつもりだったのだ。

「面会時間、大丈夫ですか?」

「予約してあります」

「わかりました」

 佐々木さんは、水を取りにすぐに席を立った。足取りは奇妙なほどしっかりしていた。

 僕も、彼女を見習おうと思った。覚悟を決めるべきだ。まっすぐに立って、歩くべきだ、と。


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