第6話
生活は、不気味なほど現実味を帯びている。現実は、小さな感動をどんどんすりつぶしていく。
「佐伯さん。実はあの時の友達に、今度の休み、合コン誘われたんですけど、どうしたらいいですかね?」
バイトの最中、手が空いたタイミングでそんな聞きたくもないことを告げられて、僕は顔をしかめた。
「知りませんよ。行ったらいいんじゃないですか?」
ただめんどくさかった。そういう現実的な話というか……僕と佐々木さんの関係を現実的な何かに捉えてしまいそうになる事柄を、僕に話さないでほしかった。
どう答えたとしても、これじゃ僕がどこにでもいる軽薄な男みたいじゃないか。
佐々木さんはそんな僕の気持ちをしってか知らずか、とても寂しそうな顔をした。「行くな」と言ってほしかったのだろうか? でも僕らは恋をしていない。ただ、寂しさを互いに埋め合っただけだ。この関係は、それだけでしかなくて、佐々木さんにその必要がなくなったなら、それで終わる事柄なのだ。
『佐伯さんに、抱かれたいんです』
あの日の言葉を思い出して、苦虫を噛み潰したような気持ちになった。どうしてこんな思いをしなくちゃいけないのか。男の人生というのは、女が少しでも関わると一気に……苦しくて面倒なものになるのかもしれない。香織。
香織は僕にこういう思いをさせたくなかったから、死んだんじゃないのか? これじゃ、君は無駄死にじゃないか。君がいなくても、僕はどうせ……女性を依存させてしまう。佐々木さんも、僕の反応を見て、行かないことにするのだろう。
「多分……多分何もないですけど、せっかく誘われたので、行ってみることにします」
相変わらずその声は湿っていて、外は晴れているのに、僕を雨の日のような気分にさせる。
「そうするといい」
僕は、肯定した。胸が痛んだ。結局弱いのは、僕自身なのだと分かった。
恋というのはよく分からないし、誰かを大切にするという気持ちなら分かるけれど、それは失った時の痛みでしか分からない。たとえば、佐々木さんが僕にとってどういう存在なのか、僕にはさっぱり分からない。
どうしてあのとき、佐々木さんが死のうとしているのが分かったのか。いや、実はそれも疑っている。本当に、佐々木さんはあの時、死のうとしたのだろうか? あれは、あの時点で、僕を誘っていたのでは?
そもそもなんで……なんで、香織のことを知ろうとしたのか。彼女の残滓のことを。それで、僕をどうしたかったのだろう? いっそのこと、付き合ってくれと言えばいいのに。僕のことが好きならば。そうすれば、僕だって……僕だって、こんなに迷うことはなかっただろう。こんなに傷つくことも。
結局人は、分かり合えないのかもしれない。
「佐々木さん、最近仕事できるようになってきたね」
佐々木さん自身は、いつもと変わらない。少しだけ元気になってきて、仕事もはかどるようになってきた。店長が怒る頻度も減ってきた。
「皆さんのおかげです。まだまだ未熟者ですが」
「皆さんっていうより、佐伯君のおかげだよね。付き合ってるんでしょ?」
「いえ、友達です」
「えっそうなんだ。てっきり……いや、何でもないよ」
僕は、佐々木さんが明るくなったことを喜びながらも、心のどこかに何かつっかえるものを感じている。これは一体何なのだろう?
「佐伯さん。お疲れ様です。お先失礼します」
バイト終わりの時に謝られることも随分減った。その代わりに、素敵な笑顔を見せてくれる。僕はただ微笑んで、これでよかったんだと自分に言い聞かせるだけ。
帰りに香織のところに寄ろうと思った。
ソレは相変わらず、暗くなった窓の方を向いている。僕の声が届いているかどうかも定かではない。
「ねぇ。僕は、一体何がしたかったんだろうね? 最近思うんだ。もし君が自殺せず、誰か僕以外の男に依存してたら、それで君は救われたかな? 僕は、それを祝えたかな? その場合、自殺するのは、僕の方だったんじゃないかな? なんてね」
香織の残滓はゆっくりと瞬きをする。一瞬だけ、首を振ったような気がしたけど、きっと気のせいだ。
「僕は確かに君を愛していた。愛している人に先立たれるのは、どうしようもないほど苦しい事だった。佐々木さんへの気持ちは、君への気持ちとは何かが違う。違うことだけは、はっきりと分かるんだ」
僕は、自分らしくもなく、それの手を握った。黄ばんでいて、骨ばっていて、かさかさしていた。少し、匂いもあった。
ソレは、僕の方をはっきりと向いて、ぼうっと半開きの目で僕を見据えた。
「僕は今でも君を愛しているのだろうか?」
ソレは、香織じゃない。分かってる。分かっているけれど、僕は自分が何をしているのか……何がしたいのか、もう分からなかった。
ただ、心に広がった暗くて薄い雲を、払いたかっただけ。
「……ぁぅぁ」
ソレはもごもごと、声とは言えない何かを吐き出した。その後、くしゃっと、目をつぶった。もう、これの命も長くないような気がした。
残滓まで消えてしまったら、僕はどうやって君を愛せばいいのだろう? どうやって、君とこの世界を……僕とこの世界を、繋ぎ合わせ続けられるのだろうか?
大学も辞めたし、バイトだって、その気になればいつでも辞めてしまえる。この人生に責任なんてものは何もなく、生きている意味だってありゃしない。
それでも僕は、どうしてまだ、生きていこうとしているのだろう? 人生を、苦しみ抜きたいと思っているのだろう?
僕は自分自身を軽蔑して、鼻で笑った。
「まぁ、僕は死ねないよ。死にたくもない。死んで何になる? 生きるのがくだらないのなら、死ぬのだってくだらないよ」
ため息をついた。ソレの手を離した。ソレは、名残惜しそうに手を伸ばした。僕は驚いたけれど、無視をした。そういう気持ちだったのだ。どうか、分かってくれ。
分かってくれ、香織。
「佐伯さん! もしよければ、この後夕食どうですか?」
「いや、今日はすぐに香織のところに行くんです」
とっさに僕は断った。
「そうですか」
佐々木さんは分かりやすく落ち込む。僕は首を振った。
「また誘ってください」
「はい。また誘います」
すぐに、立ち直る。眩しいくらいの笑顔で。
「彼女、本当に変わったよね」
ある時、店長が僕にそう語りかけてきた。
「そうですね」
「ぶっちゃけ、佐伯君は彼女のことどう思ってるの?」
「勘弁してください」
「つれないなぁ」
人の痛みや苦しみには鈍感なくせに、人の好意や幸せにはびっくりするくらいすぐに食いついてくる。助けを求める人を無視して、すでに助かってる人と喜びを共有したがる。豚め。
「お似合いだと思うけどなぁ」
「余計なお世話ですよ」
つい口にしてしまったとげとげしい口調に、僕は自分自身に驚いた。
「すいません。言い過ぎました」
「いいよいいよ。佐伯君も意外と年ごろなんだね。俺も昔は先輩とかによくからかわれてムカついたからなぁ」
一緒にされたくなかった。僕は吐き気をぐっと飲みこんで、仕事に集中しようと思った。でも集中するほど難しい仕事なんて少しもなくて、結局頭の中で苛立ちがぐるぐる回るばかりだった。
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