第5話

 ホテルを出てすぐのことだった。いきなり知らない女性が、佐々木さんに話しかけたのだ。

「あっ真美? 真美だよね。久しぶり、私、私」

「あ、久しぶり。さーちゃん。二年ぶり? 卒業式以来だよね」

 佐々木さんの高校か何かの同級生なのだろう。ぼんやりとその女性の茶色い髪を眺めた。

「それにしても、彼氏、結構いい感じだね。年上?」

 ふと目が合って、会釈した。

「どうも。高校時代同級生だった幸恵です」

 雨にも関わらず陽気に話すその様子を見て、僕は『そういうテンションじゃないんだ』と言いたくなったが、こらえて名を名乗った。

「えと、さーちゃん。佐伯さんはバイト仲間で、彼氏とかではないんだ。あと一つ下で、まだ十九歳」

「あっそうなんだ。なんか勘違いしちゃってごめんね? それにしてもなんか大人っぽいね。老けてるとかじゃないけど、全然未成年には見えないなぁ」

 年下だとわかったとたん敬語を崩すその態度が、どうにも気に入らなかった。そんなつまらないことを気にしてしまう自分も嫌だった。久々に、苛立っているのを自覚した。

「よく言われます」

「でもこんな朝から二人で出かけてるなんて、仲いいんだね? てっきり朝帰りかと」

 下品な笑い方だと思った。横目に佐々木さんを見ると、困ったような作り笑いを浮かべていた。仕事場でもよく浮かべている奴だ。

「朝帰りですよ」

 そう言った後で、どうして自分が正直にそう言ったのかわからなくなった。適当に笑ってごまかせばよかったのに、どうしてそんな冷たい口調で、冷たい目線のまま、目の前の軽い女にそう告げたのか、自分でもわからなかった。

「あっそういう。真美ちょっと寂しがりだもんね。いいよいいよ。お姉さん別にそういうのもダメじゃないと思うよ~」

 思わずため息をついた。今日は体調が悪いと、そう思った。僕は笑った。人のいい、見た人を和ませる、自然な笑みを浮かべた。

「ちょっとしたジョークですよ。実はさっき買い物してたらばったり出会って、それでせっかくだからと一緒に歩いてるんです。午後から同じ時間にバイトのシフトが入ってるんで、それまでゆっくりしようと」

「ふぅん?」

 不信がっているようだった。眉は片方だけ下がっていて、嫌悪感ではなく興味が先行しているようだった。厄介だと思った。こういうタイプの女性は苦手なのだ。お節介で、すぐに物事を決めつけて、勝手に進めていく。自分の都合のいいように解釈するのが得意で、悪い意味で柔軟。

「さーちゃんの方はどう? 今何してるの?」

 佐々木さんは強引に話を変えようとした。張り付いたような苦笑いを浮かべたまま。

「えっとね、私は今アパレルで働いてる」

 まるでさっきまでの気まずい雰囲気がなくなったかのように、女性二人はお互いの近況を嬉々として話し始めた。実のところ、佐々木さんの方はそういう役を演じているだけだったが。不自然な笑みは、どこか苦しそうで、見ているだけで息苦しくなった。

 僕はその場から早く立ち去りたかった。しかしさきほどの自分の言葉が首を絞めて、午前中全て付き合わされることになった。

 これが現実なのだと、僕はあっさり受け入れることができた。心を殺すのではなく、ただ諦めて、苛立ちをそのままにすることにした。できるだけ口数を少なくして、それでいて苛立ちが伝わらないように、終始笑みを浮かべていた。仕事みたいなものだと思えば、大したことじゃなかった。思えば佐々木さんも、バイトで怒られているときほど辛そうでもなかった。いつものことなのだと、言われなくても伝わってきた。

 昨日佐々木さんが得意だと言っていた『察する』という能力のことを思い出した。目の前で起きているこのいびつな人間関係のことか、と納得した。納得したけれど、それがいったい何なのかはどれだけ言葉を並べて考えてみても判明しなかった。人間なんてそんなものなのだろう。

 多分、こう考えるのは、初めてじゃないような気がした。






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