第8話
ソレには、ずいぶん前から人工呼吸器が付けられていた。明らかに衰弱していて、呼吸するのもしんどそうだった。
窓の外を眺めることもない。目は固く閉じられているが、時々眉間にしわが入って、苦しそうにうめく。
もう、いいんだ。もう、休んでくれ。僕は、佐々木さんの隣でそう祈っていた。見ているだけで辛かった。どうして今まで、この痛みを忘れていたのだろう? 当然のように、コレの前で、自分語りなんてできたんだろう? 僕は気が狂っていたのだろうか?
佐々木さんは、震える僕の手を握ってくれた。暖かくて、少しだけ落ち着いた。ひとりじゃないと思った。
香織のことなんて、忘れてしまいたいと思った。僕はずっと、忘れたかったのだろうか?
これは復讐だったのだろうか? いつまでも気づかなかった、僕に対する、香織の復讐。人生に、致命的な傷を残す方法。
ずっと僕は、香織は僕のために死んだんだと思っていた。でも本当は、僕を傷つけるために死んだんじゃないのか? 実際、香織は僕が一番傷つくやり方で、傷つくタイミングで、死ぬことを選んだ。あぁ、きっとそうだったんだ。
あぁ、苦しいな。
それでも、彼女を憎む気にはなれない。忘れられる気がしない。やっぱり僕は、香織を愛していた。大切な存在だった。そんな簡単に、割り切れるもんか。
やせ細った手が、布団からはみ出ていた。寒そうに震えていた。僕はそれを布団に戻す勇気も、握って暖める勇気もなかった。ただ、じっとそれを見つめて、涙ぐむだけだ。
佐々木さんが、僕の手を右手で握ったまま、左の手で香織の手を握った。何も言わず、ただじっと握っていた。どうしてそんなことをするのかは分からなかった。でも、少しだけ気持ちが軽くなった。僕が握らなくちゃいけなかった手が、隠されたからだ。
「香織は、もうすぐ死ぬと思う」
そっと、囁いた。
「香織が死んだら、僕はどうやって生きていけばいいんでしょう?」
想像していたよりも、ずっと普通に暮らすことができた、なんて。社会は思ったよりも簡単にできていた、なんて。お金を稼ぐことは、人が語るよりずっと楽だった、なんて。
そんなの全部、真っ赤な嘘じゃないか! ただそうやって、自分の心を押し殺して、呼吸することに集中してただけじゃないか……そうやって、周りに甘えてただけじゃないか。
涙が止まらなかった。大人のふりをしたって、結局僕は、あの頃から何も変わってない。香織が傷ついていることを無視したせいで、取り返しがつかなくなったあの時から、僕は何も変わってない。
今度は、僕が僕自身を無視して傷つけていただけだった。
僕は僕自身でいることに耐えられない。こんな、臆病で、薄情で、何もできない、何もする気がない、誰も助けられない、こんな自分のまま、どうやって前を向いて生きていけばいいんだ? どうやって、この先……誰かを愛せるのだろうか? 自分自身を……
「大丈夫ですよ。大丈夫」
泣きじゃくる僕の背中を、優しい手がそっと触れる。もう嫌な気持ちは全部吐き出してしまおうと思った。全部言ってしまおうと思った。
でも、何も出てこなかった。ただ情けない嗚咽と涙だけ。男らしさなんて欠片もありゃしない。ひとりの小さな子供だ。大切な人が死んで、心の底から嘆く、僕が押し殺していた、僕の本性。僕の心。僕の魂。
あぁそれでも、僕はまだ生きているんだな。生きていくんだな。あぁ……
「ありがとうございました。佐々木さん。ほんと、情けないところを見せてしまって、恥ずかしいんですけど」
「あはは。そういう割に堂々としてますよ?」
「開き直ってるんです。もう、隠すものなんて何もないですから」
佐々木さんは、声を出して、心底嬉しそうに笑った。
「覚えてますか? あの、雨の夜。私もそうだったんです。全部をさらけだして、受け入れてもらって。人生を開き直ったんです。これでも、生きていけるんだなって。これでも、笑えるんだなって」
「今なら、今だからこそ、その気持ちはよくわかります」
今度は、僕の方から佐々木さんの手を握った。僕はこの人と生きていこうと思った。何が嘘か本当かなんてどうでもいいから、僕は自分自身とこの人を信じて生きていこうと思った。
どれだけ疑っても、どれだけ不愉快でも、それでも愛せるものだけを信じようと思った。
結局僕は、自分自身を愛せている。どれだけ憎んでも、嫌っても、死にたくても、それでも、生きていこうとしている。生きていくことを信じている。
どれだけ暗くても、この手の温もりだけは、信じられるのだ。
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