第9話 逢いたい人

翌日、仕事に向かう美波を玄関先まで見送り、俺は寝巻から外着に着替える。

今日は公休を利用して行きたい場所があるのだ。

行きたい場所というか、行かなければならない場所。


はるかの実家だ。


もしはるかの実家までも改変されていたら、もう手の打ちようがない。

滅茶苦茶に恐いが、恐怖に負けて行かないわけにいかない。前に進むために。


俺はダウンジャケットに袖を通し、美波と住む家を後にした。



妻の実家は、電車を乗り継いで片道2時間弱掛かる場所に位置する。


はるかの家族とは婚前から仲良くやってきたが、この世界では他人のように扱われることが容易に予想がつく。


恐怖心と緊張で、激しく口が乾く。


出発駅のコンビニで購入した、半分近く残る冷めたお茶を飲み干し、ペットボトルの回収箱にそれを放った。


田舎駅からはるかの実家へと続く一本道を行くが、足が重い。

積もった雪に、足が取られるせいではないだろう。




目的地が見えてきた。


屋根の色は変わりない。以前のままだ。


さらに近づく。


俺の知っている家構えだ。


表札を見る。


はるかの旧姓が書かれている。


俺は何度も深呼吸をし、気持ちを落ち着かせる。


インターホンを押そうとする人差し指が震えている。


「あ、、、」


インターホンを押した後の第一声を考えていなかったことに気付く。


俺は腕を引っ込める。


この世界でははるかの家族とは赤の他人だ。


なんて言えばいい?


見知らぬ男に自分の娘の所在を明かす親なんかいるはずがないだろう。


うわ、完全に見切り発車だ。


冷たい風が俺の全身を撫でるように吹き抜ける。


寒い。


どこか暖の取れる適当な店に入って良策を練ろうと、踵を返した時だった。


ガチャッと施錠が解除される音に続き、玄関の扉が開かれた気配を感じた。


振り返ると、


この世界にきてからずっと会いたかった妻が、はるかがいた。




はるかは、俺の知るはるかより痩せていた。

痩せていると言うか、頬が痩け、目の下にクマがある、どこか悲壮感漂う雰囲気だった。


俺の存在に気が付いたはるかは、驚いた表情を見せ俺の名前を呼ぶ。


「明くん、どうしてここに?」


妻と再会できた喜びと、見た目と雰囲気が変わっていることへの困惑が入り混じった初めての感情が、返答の邪魔をする。


口をパクパク動かすも、言葉が空打ちする。

これじゃまるで死にかけた金魚のようだ。


「明くん?」


手を伸ばせば触れられる距離まで、はるかは歩みを進めてきた。


しかし俺は後退りし、はるかから距離をとるという、意に反した行動を起こしていた。


「ご、ごめん!きゅ、急に家まで、、、訪れたりして、、、」


俺は顔を背け、白い雪から覗かすアスファルトの一部に目線を下ろした。


「誰から聞いたの?」


あたしの実家の場所を、が下の句だと悟った俺は、


「昨日、麻酔科の先生と、はるか、、、先生の家の場所の話になって、、、初めての場所だし行ってみようかなと思って、、、来た次第です、、、」


即興の嘘をついたが、何だかストーカー染みてしまった。

同期以外何者でもない男が突然、意味不明な動機をぶら下げて実家に押しかけてくるのだ。

そんなの畏怖の対象でしかないだろう。


俺は彼女の反応を見るため、恐る恐るに顔を上げた。


しかし、俺が想像する反応とは異なった、頭の上にクエスチョンマークを浮かばせたような面持ちのはるか。


「いやいや、明くんうちに来たことあるでしょ」


え?


まぁいいやとはるかは呟き、


「立ち話も寒いから、とりあえず近くのカフェに行こ」


と俺の横を通り過ぎる。


その時はるかの香りが漂ってきた。

今の俺にはその匂いが切なく感じる。


だが感傷に浸るのは今ではないと、俺ははるかの後に続いて歩き出した。




閑散とした駅の近くにひっそりと建つ、ログハウスの小洒落た雰囲気なカフェに到着した。

青銅色の扉の取手にはるかは手をかけ、ドアベルを鳴らす。


人当たりの良さそうな、50代くらいの女性店員が「はるちゃん、いらっしゃい」と迎えた後、彼女と共に入店した見知らぬ男に目をくれる。


「あ、前の職場の同僚の人だよ」


察しのいいはるかは、そう俺のことを紹介した。


ゆっくりしていってね。と、軽く会釈した俺に笑顔を向けて言い、厨房の中へ入って行った。


店内の中心に大きな薪ストーブが設置されている。

その薪ストーブを囲うようにして、4人掛けのテーブルが7席配置されており、俺たちは入り口から一番遠い角の席についた。


高い天井まで真っ直ぐに伸びる、ストーブの煙突を下から上へと目で追っている俺に、


「あたし、ここの常連なんだよね」


とコートを脱ぎながら話す。

彼女は脱いだ上着を、隣の椅子の背もたれに掛ける。


壁にかけられた室温計は27℃を指していた。

この室温の中ではダウンジャケットは暑すぎる。

俺は首元まで閉めたジッパーを下げ、それを椅子に羽織らせた。


先ほどの愛想の良い女性店員が、おしぼりと水の入ったグラスをテーブルに置いた後、注文を伺う。


「アメリカン2つ、でいいよね?」


喫茶店を訪れる際には必ずアメリカンコーヒーを注文する俺に、はるかは聞く。


店員は俺が頷くのを確認してから、再び厨房へと戻って行った。


何故このはるかは、俺のコーヒーの好みを知っているのか、その疑問は次に発せられた言葉で理解できた。


「元カレの好きなものって、なんか忘れられないんだよね」


思わず俺ははるかの方を見るが、はるかは手元に置かれたお冷のグラスに目を落としており、透明の表面にできた水滴を人差し指で拭っている。


「で、誰から聞いたの?」


おもむろに彼女は顔を上げ、先ほどの質疑応答の続きを始めた。


「聞くって、な、何を?」


「何かあったの?」と質問を質問で返した俺を、はるかの瞳は真っ直ぐにとらえている。


「離婚したの、あたし」


正確には調停中だけど、と彼女は堂々たる口調で言った。


「そっちは?」


美波…とのことでいいのか?


「えー、、、半年後に結婚する予定」


確か…と付け加えた俺に美波は失笑し、


「自分のことでしょ、結婚する日付くらいちゃんと覚えときなさいよ」


と優しく俺を咎めた後に、


でも、おめでと。


目を細めるはるかは、祝福の言葉を俺に送る。

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