第5話 彼女たちとの馴れ初め
美波が入職した時、明は3年目であり、美波の教育担当でもあった。
明の、どんな小さな些細なことでも褒めては伸ばすやり方が、美波の性格に見事に合致したようであり、美波は自信を持って看護業務をどの同期よりも早く吸収し覚えていった。
些細なことに気づいて褒めてくれて、困った時には助けてくれる、いつでも味方でいてくれる優しいお兄さんのような存在の彼に、美波は恋心を抱くに、時間を要さなかった。
2人が交際し始めたのは、美波が入職して1年経った時だった。
職場恋愛のため、周りの同僚から2人の関係が悟られないように、"通常"の先輩後輩の関係を演じてきた。
しかし、まだ年齢が若く恋愛体質の美波は、明と2人になった時には、明を下の名前で呼んでは彼に叱られるという、職場でも私生活でも甘く心踊るような日々が2年続いた。
元彼女である美波の楽しかった過去を一頻り思い返した後、"美波の元彼氏"はビジネスホテルの冷たく硬いベッドの上に寝転がり、
「はるか…」
とため息と共に妻の名前を吐き出した。
はるかと明は同期だった。
はるかが研修医1年目の秋に、麻酔科研修医として明のいる手術室に、研修期間である3ヶ月間配属された。
当時、明も手術室看護師として1年目だったため、自分のことで手一杯で、周りを見る余裕などなく、はるかをその目では認識していなかった。
容姿端麗な美人研修医が配属されたぞ!という同僚の男性看護師間で噂になっていたことは耳にしていたが、その正体が誰なのか明は知らなかった。
その2年後、過去にいた容姿端麗な美人研修医の正体がはるかであったと、麻酔科入局の歓迎会の席で知った。
知ったというか、はるかの容姿を一目見ただけでそうであろうと、明自身で決め付けた。
それは明が入職して3年目の春のことであり、同時に美波と交際を初めて間もない頃でもあった。
歓迎会で改めて出会った日から、明とはるかの会話には花が咲いていた。
好きなアーティスト、映画や小説、趣味や食べ物の嗜好までも似てて気が合い、話していてとても楽しかった。
美波という存在がありながら、常に明ははるかを目で追い、時折り連絡も取っていた。
彼女に罪悪感を抱きながら。
ある日、はるかに大学時代からの彼氏がいることを、何気ない会話の中で告げられた。
明はご飯が喉に通らないほどにショックを受けたが、美波に悟られないよう気丈に振る舞った。
美波のことは愛していた。
こんなに自分のことを尽くしてくれる人は、2人としていないと断言できるほどに、明に対する美波の愛情は深かった。
人知れないはるかへの失恋から2年間、明は美波と真摯に向き合った。はるかへの思いを断ち切ろうと努力し、彼女を忘れた。
、、、つもりでいたが、
「彼氏と別れた」
彼女のその告白で、明は自分の正直な気持ちに気付いてしまった。
気付いてしまった、というよりも、
はるかに対する気持ちを再認識した。
明は美波に別れを告げていた。
「はぁ、、、」
その日のこと、美波に別れを告げたあの日のことを思い出すと、今でも強い罪悪感が込み上げ、自然とため息が漏れる。
その日だけじゃない。
その翌年には、はるかと結婚したことを、美波は知りたくもないのに知ってしまう。
同じ職場であるが故に、聞きたくもない情報が否が応にも耳に入る度に、辛い思いをしてきたであろう。
何故あたしが選ばれず、彼女が選ばれたのだろう。
何故あたしを残して、明だけが幸せになるのだろう。
実際に、別れてからも美波は明に会いたいと何度も懇願してきた。
情に負けて会ってしまう明の前で、美波は必ずと言って涙を激しく流してみせた。
2番目でもいいから側に居させて欲しい。
明を失いたくない。
お願いだから、、、!
ごめん、はるかを裏切ることはできない。
あたしのことは捨てたのに?裏切ったのに?
このやりとりを幾度も繰り返してきた。
そんな美波がようやく前に進み、新たな恋を見つけ、そして生涯を共にする相手と出会うことができたのだ。
心から祝福するのが、過去に愛された男の最後の使命なのではないか。
頭では分かってはいるが、明の心は素直に祝うことができそうにない。
職場なのに、俺のことを未だに下の名前で呼ぶじゃないか。
俺を見つければ笑顔で飛んでくるじゃないか。
俺をずっと特別な存在として見てくれてたじゃないか。
でも今、美波はその男と一緒にいる。
華奢なその身体をその男に抱かれている。
あんなにも好きだった俺のことを忘れて、その男に夢中になっている。
顔も、名前すら知らないその男と、彼女をも妬む強い負の感情と独占欲に身体中が埋め尽くされた時、明はぼんやりと白い天井を眺め、無意識に、そして弱々しく今にも消え入りそうな声でぽつりと言葉を発した。
「もしはるかと出会わなければ…美波と別れなければ……どんな未来だったんだろう」
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