アダルト・チルドレンの自由と回復

ジュン

第1話

ある一つの問いを発したとします。それは「人間は自由ならば幸福に生きられるか」というものであったとします。この疑問は、「自由とはなにか」という問いを発することを前提として、いろいろな時代で考察され、いろいろな結論が下されてきました。私は、「自由というのはどういうことなのだろう」ということを、いままで、といっても25年ほどですが、考えてきました。たとえば「人間の自由な行為」というものも、諸々の運動の必然性からの連鎖の結果として起こっているのであり、今、自分が採った行動も、自由なものではない、といった考え方です。自由にやっていることでも、実は、決して自由にできるものではなく、それは、ある種の「必然の末に」できあがってきたもの、というようなとらえ方です。お腹がすいて、たとえば、カレーライスを食べるという行為も、お腹がすくことが前提にあり、それは、いろいろな栄養素やカロリーを摂ることが必要になったのだよ、という身体の警告であり、つまり「生理的欲求」の発信であり、私は、いまカレーライスを食べようか……というようなことだ、といいます。

もう一つの例を挙げます。自分がある人を好きになったとします。自分は、確かにその人のことが好きだと思っています。それで「自分の自由」で、その人のことを好きになったと普通は思うはずです。そうでなかったら、好きになった自分の主人が自分ではなくなってしまいます。それは、とても直面し難い感覚であり、とらえどころのない不安が沸き起こってくると思います。そうでありながら、本当はこの好意は、自分の自由で選び採ったものではない、この感情の隠れた部分になにか、自分ではない、他の誰かの隠された意図といったものがあるのではないか、という疑念をもってしまう人も、少なからずいるのではないでしょうか。

自由ということで、いま、二つの具体的な、といっても少々抽象的になってしまいましたが、例を挙げました。カレーライスを食べる自由は、さほど重大な問題にならないかもしれませんが、自分の、人を好きになった気持ちが自分の自由ではないというのは、これは「重大な問題」ではないでしょうか。

どうして、自分の好きな人を好きになったことが、実は私の自由ではないかもしれないということが大きな不安になり得るか。

自由というのは、私が自由にすることは「私」が「自由にする」こと、こういうことです。だから、自由にする、あるいは、自由にしたことの主人が「私」でなかったら、自由に生きることにならない。自由とは、言い換えると「私の選択」を実行することであり「私の主体性」を確保することだからです。私が、そのことの主人になって、一つ決めていくことで、そのことの主人になる、そういうことを実行していい、という「自由の前提」があって、ようやく私の主体性が確保できるからです。

自由に落下する球体は、その落方というのは、さほど自由ではないというようなことを、高校の物理かなんかでやったと思います。私も、自分で参考書を使って少し学習しました。忘れてしまった箇所も多いのですが、グラフにすると放物線を描くということで、二次関数になっている。式としてその運動は表される、という内容だったと思います。

物理学なんかで、いろいろな現象を観察して、データをとって詳しく調べていくと、そこには、なにかしらの法則があって、どんなに複雑な現象であっても、全部「自然の摂理」に従っているんだ、などという結論が得られるかもしれない。そうなってくると、私が好きになった人、好きになった気持ちも「自然の摂理に従っている」だけなのだ、というふうな結論が成り立つことになります。それでは納得できる人はあまりいなくて、そんなことをいったら、僕ら人間の自由というものは、どこへいってしまうのだ、という悲痛な叫びが聞こえてきます。僕らは本当に自由に生きられないのか。

僕らが自由に生きるためには、私の考えですが、私たちが、環境の一部として生きているということに気づくことが大事ではないかと思います。我々は、個個人がバラバラのように生きていて、必要に応じて連絡するだけというような関係になっているというのも、特に現代社会においては、充分あてはまると思います。けれど、僕らは、自由というものを表現して生きていきたいという気持ちが誰にでもあると思います。けれども、自由を実際に使うということも練習が必要なことです。しかし、現代の家族関係から言えば、自分の選択で自由に物事を判断することがやりにくくなっています。そこで、自分が環境の一部であるという気づきが大事になると思います。

自分が、環境の一部であるということは、自身の振る舞いが相手の行動にも影響を与えるということを意味します。たとえ、自分の行為は、実は自由に選ばれたものではないという前提にたっても、その自由ではないものを実行した場合と、しなかった場合では、いま出会っている相手に、全然違う行動を起こさせることになります。実行する自由そのものが自由ではないという還元論もあるでしょう。そうであっても、自分の行動が、いま出会っている人と私自身の合作であるということに思い至ることは意味のあることだと思います。自分の自由な行動やその選択ということも、そのことのむかう目的が自身の本心に拠るなら、充分に意味が通ると思うからです。

どのような行動であっても、後に振り返ってみて、やはり正しかったと、自分が、そしてなにより、自分が働きかけた相手がそう思えることが、苦しい思い出を残すことを減らす良い方法になると思います。

また、自分が環境の一部であるというのは、「相手にとって」私が環境の一部ということであるし、同時に「相手が」私の環境でもある、という事実です。本当に自由に生きたいということは、その自由にむかう先が、自分の本心からの目的と一致することが必要です。そうでなければ、自由を求める欲求が、その人の本心と裏腹なら、自分のとる行動も自由な選択に基づかなくなってしまうからです。

さて、冒頭の問い、「人間は自由ならば幸福に生きられるか」ということですが、私は「はい」と答えたい。どうしてかといえば、私の思う幸福というのは、自分が出会っていく人との関係で育てられていくものだと思うからです。自由は、対人関係のなかで試されていくものだと思うからです。自由に生きることは、相手の人とどう関わっていくかという問いに対する自身の回答であるからです。

また、例を挙げると、化学では元素の話をおそらく、高校の化学の授業でやったのではないでしょうか。いろいろな元素があって、これは金属元素でこれは非金属です、というようなことを学習したと思います。そして、元素が性質を変えるのは、状態変化というものもありますが、化学結合によって、ということを教わったはずです。「希ガス」のように、まったくの保守派もあることはあるが、元素というのは、結合することでいろいろ性質が変わりますよ、という内容だったと思います。人間は完全に「希ガス」ではいられないので、多かれ少なかれ「反応」します。だから、自分が反応しやすい元素でないと自由を発揮できないか、といえば、そうではないことを「彼ら」が教えてくれます。

有機化学という分野は、炭素という元素が中核に座っています。この元素は、電子の個数の問題の上でとてもいろいろな「ヒト達」と関わることができます。元素というのは、一番内側の電子軌道を除いて、それより外の軌道では、電子の個数を8個に並べたがるというおもしろい動きをします。炭素はそんなに珍しい元素ではないけれど、有機化学という化学の大きな王国の王様になっています。それは「彼」が「出会ったヒト達」と関わることに長けているからです。

私たちは、実は個性ということも炭素の在り方を参考にするとよいと思います。自分がそれほど特別な才能もないように思うし、自分はつまらない人間のような気がしてしまう。そう思っても、出会った人とどういう関係がもてるかで、いくらでも個性を表現することはできます。それは、自分が自由を表現することと同じ現象であり、同等の価値があります。そういう自由を重ねていくことは、後で振り返ったときに「意味が通るか?」また「道理があるか?」という問いを発しつつ選んでいくとよいと思います。というのも、自由は、相手と私の「今、ここで」の出会いのなかでの試練の過程でもあるからです。「試練」という言い方をしたのは、これを実際に表現するとき、不安や緊張が感じられて、うまくいかない、結局、自分の本心を引っ込めてしまった、というようなことがいっぱいあるだろうと思うからです。そういうことでいうと、自由に生きることはなかなか大変なことで、また面倒なことでもあり、だから、練習しながらそこでの人との関係の変化と、それに伴う自身の気持ちの面での変化、そういうものを実感して糧にし、学習していくことが大事です。

自由というのは、特に我々人間にとっては、人間関係のなかで、自身が試みることの勇気の果実であり、この勇気も、自分の本心に基づくものであるから、相手との不安や緊張が逆に力の源泉になって、だからこそ、そこから勇気の自覚も、また一連の自由の実行へとつなげていくことができるのだから。そして、この自由ということも、おそらく詳細に予期しえない私たちの出会いというものが、たまたま「今、ここで」現実になっている事実から思うに、それらの出会いは価値があるといってよいはずです。

一方では、不幸な出会いというものが、また現実にあることを知ったとき、僕らのとり得る選択肢のなかに、暴力を含まないようにするということはすごく大切なことです。戦争ということも、殴る蹴るの延長線上にあると私は思っています。戦略上、そのような単純な問題ではないと反論されるかもしれません。けれど、私は、戦争に「熱中する」のは、一種の逸脱だと思っています。そこにどんな理由があっても賛成できない種のものです。

もし、自分が自由に生きたいと願うのなら、この自由は、自身の主体性の提示であり、かつ、相手との合作として成立するというのがうまくできていると感じさせるところです。人間関係という「関係」という在り方からどうあがいても、人は完全に独立して「無関係に生きていきます」というのは、無理ではないでしょうか。そうすると「関係」をもちながら、同時に主体性をも保って生きるというのは、なんだか妙で「難解」な「荒業」のような気がしてくるという人もいるだろうと思います。だけれど、相手も人間なのだから、自分がいま考えているのと同じように生きたいと思っているかもしれない。そうすると、人の選びとる自由というのは、対等な二人という関係が元の型としてあるはずだ。相手は会社の上役で、自分は係長だ、だから対等ではないんだ、というのは、そういう範囲では正しいというか、妥当なんだろうと思う。けれども、もっとこの関係の根本の部分では、おそらく人間が共通して経験するであろう悲しみや苦しみ、また喜びや感謝の気持ちといったものがあるはずです。だから、こういうことに共感できる自己というものも、関係のなかでの「私とあなたの対比」を通して、違いを見つけ、また同時に自身をも省みるといったやり方で、だんだんと育まれていくものです。

そうである以上、暴力の価値のなさ、特に、意味が成立しない、道理のなさということが、心に感情の働きに深刻な傷を負わせることになります。だから、暴力を振るわないで生きられることは、間違いなく幸福である。そういうふうに思います。時として、子どもは道理のある暴力を振るうことがあります。親は無論そして社会も、なぜ「道理のある暴力」を子どもは振るうことがあるのか、その理由を考えなくてはいけません。どういう動機によるのか理解できる、理解しようとする、おとなの側の「新たな在り方」を発見しようと努めるという大変な仕事を引き受けることが必要になります。

日本国憲法には、確か第三章の何条かに、表現の自由は公共の福祉に適合するように用いること、濫用してはいけないという趣旨のことが載っています。これは、自由と幸福ということの関係を示していると考えます。自分が自由を行使するとしても、それがあまりにも反社会的で、他の人の迷惑になるようなことは止めてほしいということです。だから、人間にとっての自由というのは、社会的な性格を気に留めないということが難しいといえます。社会的であって、かつ、私の主体性を確保するとなると、相手との関係性が維持されつつ、自由であることという有り様になります。これをやっていくためには、三つの勇気を育て、尊重できるようにするというのが、私の意見です。

まず、自分が近づきたい人に近づく勇気。他方、自分が離れたい人から離れてゆく勇気。そして、この二つの勇気を切り出す勇気。この三つの勇気を焦らずに育てていく。どうやって育てるかというと、安全な場所、自分を評価したり査定したりするところではなくて、「とりあえず来るだけでいいです」という場所をもって、そこの「居場所」で安全な感じを体験していく。そういう場をもつことが役に立つと思います。そうやって、主体性の回復ということがうまくいくようになってくると、ずっとリラックスして、楽に生きられるようになるし、そこから収まりのいい行動、失敗を挽回できる力、あるいは諦めることや、その際の責任を適切に果たせる力といったものも身に付いてきます。だから、こういう目標となる有り様には、暴力というものを含むはずがないのではないでしょうか。逆にいうと、暴力というものの犠牲者にならなかった人は、おそらく既述の練習は必要ない、必要とする感覚も最初からもっていないだろうと思います。暴力というのは良くないとわかっているのに、なかなか根絶できません。情動の源泉から沸いて出る怒りの湧出量は、名称の異なる様々な力の表現に変換されて散見されます。明らかに、非難の対象となるような形態もあれば、巧妙な仕掛けに支えられて人々を誘惑する機能的暴力というのもあります。けれど、こういうことに惹かれてしまうという人は、かつて、自分が暴力の犠牲者ではなかったか、と思い至ることがあるはずです。その感情は尊重してあげるべきだと思います。少なくとも、「そんなことはなかった!」と否認しないようにします。ここからが、自身の「崩壊」から「不安定」やがて「どん底」そして「日干し煉瓦」と「嘔吐」に至って、そして……ようやく……「キラキラした感じ」の実感といった流れでしょうか。

ともかく、一概には言えませんが、5年、10年かかる回復の過程です。「安全がない環境」というのは、子どもの発達に適した舞台がなかったということです。だから、回復の過程とは「発達段階の再履修」ということになります。発達段階の履修は、一度きちんと履修できていればそれで充分なのですが、ここが滞ってくるから、実年齢と発達関係年齢との不一致が起こってきます。この再履修というのも、一方に取り残された自分が、他方、実年齢の自分がいて、いろいろなエンパワメントの現場は、いずれも主としてこの一致を目的にしているわけです。が、問題のある人があまりにも客観的すぎると、情動の強烈な噴出、真の自己の表現が達成される前に「理解され」「わかったものにされる」ことがあるので、かえって、その人の再結晶化、あるいは人格の全体性への帰還ということがうまくいかない。やりにくかったりもする。この辺が難しいです。理解力があるほど回復しやすいとは言い切れず、極端な例を挙げれば、このトラウマが、新たなその人の世界観なり哲学の構築という仕様で、優価値に昇華することもあり得ます。強い不安や怒りが変換されてでてきたもので、ある意味かなり重篤な状態という言い方ができる気がします。こういう世界で生きる人、幸か不幸かわかりませんが、天才と呼ばれる人たちです。話が少し外れました。例外的にトラウマを創造性に転じられる人もいることはいますが、それよりも、回復の過程を経て「もっと現実的な価値」つまり「平凡な生き方」ができる。そういうものを志向して具体的にどうするかを考えるべきでしょう。

暴力がない社会が到来することが最大の幸福だと思うし、また、それを実現しようとする人類というのも、幸福の諸条件に意を払ってきた希望のもてる存在だと思います。けれど暴力ほど我々が頻繁に目にし、経験するものはないといっていいほどです。だから、この暴力を受けた側が、その事実の直視や認定を通して、その不当性をきちんと認識し、嘆きや怒りや悲しみの現出といった「本来、当然の反応」「そうであって意味の成立する、道理のある表現」を通過し、ようやく「新たな在り方」を選択していく「自由」から、人間の真の幸福につながっていくのではないでしょうか。

最後に、頭ではわかっていても、できないのが人間です。私もここまで書いてきて、こういう問題に関してある程度わかっている気もしますが、この回復の過程、自身の問題として……自身の回復ということ……それは、できていない部分がたくさんあります。そういうわけで「理解する力」と「それを実行できる力」は正直、かなり隔たっていると実感することが多いです。「理解する力」から「回復を予期させる力」への成長は「回復を予期してくれる他者を信じる力」であり、この契機は自分以外の人との幸運な出会いから始まるのではないでしょうか。それは「専門家」であったりもします。そうでないこともあります。いずれにせよ、こういうことの変化をもたらしてくれるものの一つに、「三つの勇気」これを練習しながら、育てていくことが有効だと思います。


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