lost

@clain_fain

第1話 神子の名を語る少女

少女の手記

遠い日の今頃、彼らは誓いを立てた。

『この身この魂が朽ち果てようと、未来永劫の忠誠を。ロストに誓う。』

あれは、もう10年も前、だっただろうか。

巡り巡る時の中に身を置き、私は何を育んだだろうか。

変わることのない肉体。

失っていくだけの感情。

お母さんの声も、遠い昔に忘れてしまった。



大陸の多くを支配する国があった。

ヴィスラ王国、それがこの世界の歴史の中で語り継がれる名である。

長い歴史の中で幾度も変わってきた名は、今もその歴史を繰り返していた。

国王が変われば国名も変わると言わんばかりのそれに、国民達は過去の繁栄に縋ろうと今もなお何時のものかもわからない名を口にしていた。

それは、御伽噺によって繁栄を約束された時代。

神子-ロスト-と呼ばれる一族によって彼の地に棲む魔竜は眠りにつき、衰退の道を歩み始めた王国に繁栄の光を届けた。と言うものだった。

誰が語ったのか定かではないそれは語り継がれ、何代も王が代わろうと途絶えることは無かった。

貴族達は繁栄が約束されることを祈るために、貧民達は繁栄が訪れることを祈るために、今もなお御伽噺が語られた時代を夢見て国を見ていた。

それが何時だっただろうか、ロストを騙る少女が現れたと王都に噂が広がったのは。

御伽噺が、ただの御伽噺ならば歯牙にも掛けないだろう。

誰もが御伽噺だと信じていたそれは、10年前に真実だと知らしめられた。

平穏だった王国に御伽噺の魔物が溢れ、人々を襲い衰退の道を歩んでいた。

それは魔竜が目覚めんとする予兆であると言われ、人々は身を震えさせていた。

しかし、少女が魔竜を再び封印し、世界に溢れた魔物を無に帰したと伝えられた。

そんな事実があるからこそ、噂は噂を呼び、有る事無い事まで囁かれる次第になっていた。

どんな少女なのだろうかとその姿を一目見ようと、城に訪れる者は尽きず、その見た目も好き勝手騒がれているようだった。

そう、少女は城にいる。

ロストの名を騙る罪人として、城の地下深く牢獄にて幽閉されていた。


「わざわざ傭兵にやらせなきゃいけないことなのか?」

濃紺の髪を肩より手前で揺らしながら、三人の騎士に城内を連れられていた。

言葉に耳を貸さない騎士は終始無言のまま、歩みを速めて連れ歩く。

かと言って俺の速まった歩調に合わせるわけでもなく、悠々自適に城内観光の態度を示してみせた。

そのうちひとりの騎士が舌を打ち鳴らしたけれど、それを気に留めることもなく依然として観光気分だ。

「舌打ち結構、急ぎ足結構。だけど仕事をするのは俺だし、断頭は明日なんだろ?短気は損気」

心の余裕の差が滲むしたり顔を浮かべて、苛立ちを見せて立ち止まる騎士達の横を緩やかに通り抜けていった。

「ジーク・カリルド、貴殿の雇い主は我々だぞ」

吐き捨てるように投げつけてくる嫌味にも、右手を上げて受け流すだけだ。

「傭兵は雇い主を担ぎ上げるんじゃなくて、仕事をして金を貰うんだよ。わかるか騎士さん方」

カツカツと、ブーツが音を立てるその後を騎士達は急ぎ足で追いかけてくる。

けれど埋まらないこの余裕の差に、歩みもつられるように進まないらしい。

「待て」

騎士が呼び止めると同時に、思わず見つけたひとつの扉の前で歩みを止めた。

城内は煌びやかだ。

騎士達が歩む其処でさえ、照らすシャンデリアの光を吸い込むような白い壁に汚れも傷もありはしない。

等間隔に立つ扉もそれに見合うだけの施しと手入れが為されている。

その中で、立ち止まったのはひとつ、見合わない古びた木製の引き扉の前。

首と視線をそれに向けて、ぽつりと零す。

「面白い扉だな」

それだけ零して、追いついた騎士の言葉なんて耳に届かないまま、歩みを再開した。

騎士たちは面白みも感じない表情で、その扉を意識しないようにとただただ通り過ぎる。

『そこに誰かいるのですか』

誰の耳にも届かない地下からの呼び掛けに、誰も、俺も気づかないままに。

ここに来る前に訊いた仕事の内容をぼんやりと考えながら、依頼主の顔を思い出して誰にも聞かれないように舌を打つ。

俺な対して何を言ったわけでもない。

傭兵業というものを軽蔑したわけでもない。

寧ろこの仕事を請ける俺に感謝の意を表していたが、その仕事内容について依頼主が語る様が気に入らないものだっただけだ。

玉座には、第一王子が座っていた。

今この国の王は病に伏しており、大臣たちにより支えられていた。

それが良い方に転がっているのか、それとも悪い方に転がっているのかは一朝一夕では判断できないけれど、第一王子が大変満足そうに座るそこが、何故だか不釣合いだと思わず笑いそうになってしまったくらいだった。

第一王子は言う。よく来てくれた、傭兵とは大変だろう、と。

それに対して俺は、短く返事をするだけだった。

取り留めのない話が終わり、本題に入った。

「今回は、子供の処刑を執り行いたい。だが、どの兵も恐れてしまった」

軽く話を聞いていたが、その言葉に視線を上げる。

「恐る?」

「自らをロストと騙る不届き者だ。偽物だというのに、兵はそれを処分することを拒否していてね」

神子-ロスト-、それは古の時代に生まれた災厄の魔竜を鎮めることの出来る唯一の一族。

己の命を賭して、魔竜を眠りにつかせてきた。

ほんの10年前に魔竜は目覚めようとした時、世界には魔が蔓延り、荒れ果て、人々は逃げた。まぁ、傭兵にとってはそれが稼ぎ時とも言える時期だったのだけれど。

そんな世界をひとりのロストと4人の英雄が救った。

そのロストが、一族の末裔だった。

だとするなら、ロストはこの世界にもういない。命を賭して魔竜を鎮めたのだから。

そんなことは、世界中が知っていることだった。

「それで、その罪人はなにがしたかったわけで?」

ロストに国を左右する権力はない。ただ神の子だと信仰される程度だ。

この国は、国王の意志あってどんな罪人も処刑はされない。

罪を犯した者は収容所で飯を食って働いて、ほんの少し身体を動かして寝る。それの繰り返しだ。

「ロストを騙る、それだけで十分だ。貧しい生まれの子供なのだろう。ロストはもうこの世界にいない、そんなことも知らないのだから。あっはっはっはっは」

この国も長くない。口には出さずに、第一王子の笑い声を聞いていた。



「こちらが客室になる。用があればベルを鳴らせばメイドがやってくるだろう」

第一王子の落ちぶれ様を思い出していると、案内された部屋にいつの間にか着いていた。

俺が部屋に入るのを見て、ひとつ釘を刺してくる。

「勝手に出歩かないように。それでは我々は失礼する」

「はいはーい」

ひらり、ひらり、手を振って彼らが出て行くのを待った。

足音も聞こえない部屋の中は、傭兵では手の届かない調度品の数々で飾られている。

腰から提げていた剣とベルトを外し、アシンメトリーのジャケットをハンガーラックに掛けた。

「あ〜〜疲れた」

ぼふん、ベッドに倒れ込むと枕を抱きしめごろりと転がった。

「やっぱ良いベッドは違うな」

枕をぽん、と叩く。

ベッドの柔らかさを散々味わうと、仕事のことなど忘れて眠りにつく。

処刑は明日の正午。時間はまだあった。



トントン

扉を叩く音に気付いて目を覚ました。

「カリルド様、お食事をお持ちしました」

女性の声が向こう側から届いてきて、返事をしながら扉を開けた。

開いたことに少々驚いた様子のメイドだったけれも、すぐに柔らかな微笑みでワゴンに乗った食事を部屋の中へ運んでくれた。

「失礼します。お食事の準備をさせていただきます」

部屋の中央にある丸いテーブルにワゴンを寄せ、一品一品並べていく。

メインには希少な兎肉のローストがその場で切り分けられる。

「美味そ、こんな豪華な飯もらえるなんてラッキーだな」

ナイフとフォークを手に、荒く肉を切る。

上品とは程遠い食いっぷりに、メイドは苦笑いを浮かべていたけれど、空いたグラスに酒を注いだ。

食べているのを待つだけの彼女に、ひとつ質問する。

「明日処刑されるの、どんな奴か知ってる?」

彼女はゆっくりと首を左右に振る。

そっか、返してパンを毟る。

中から薄らと湯気が上がるそれを口に入れて、次の切り口を考える。

けれど余計なことを聞いてまたあの騎士たちにどやされるのも面倒で、このメイドが処刑のことについて知ってそうかと言われればそうでもない。

黙ってテーブルの上を喰らい尽くして、手を合わせた。

「ごちそーさまでした」

メイドは1度頭を下げ、食器を片付ける。

「なにか食後のお飲み物はご用意致しますか?」

彼女の気遣いに、サイドテーブルに置かれた水差しに手を伸ばす。

トポトポトポとグラスに注がれる。

「水でいい。なんか欲しくなったら呼ぶよ」

そこまで聞くと、メイドは食器を乗せたワゴンを引いて、部屋を出た。

時計を見ると、時刻は19:26を指していて、夜風が気持ちいい頃だった。

窓を開ける。風が入り込んで髪を揺らす。

与えられた部屋は2階の客室。来た道を辿れば、直ぐに外に出られる位置だ。

死刑執行人になることは喜ばしいものじゃない。けれど他のどの仕事よりも金が良ければ扱いも良い。

ただ、殺すのが子供だというのが、嫌だった。

いつの間にか吐いていたため息が、風に乗って幸せを逃していく。

それを捕まえるためか、それともただの気紛れか。あの古びた扉の先に何かが待っている気がして、剣とジャケットを身につけて部屋を抜け出した。

特別な日でもない今日は客人はいないのか誰にも会わなかった。

時折窓の外を見てみると、城門の騎士が暇を持て余して談笑していた。

この国は、決して治安の良い国ではない。

大陸の殆どを占める大国だが、それもロストの存在が在ってこそのものだった。

民衆はこの国を愛しているわけでも、国王に敬意を抱いているわけでもない。

毎日何処かで誰かが飢えと戦い、病気に倒れ、そして死んでいく。

そんな中で今この国が成り立っているのは、国王とロストの約束が保たれているからだ。

旅に出る前に、ロストはこの国の未来を案じて恵まれない者が命を落とさないように願ったという。

その少女の名は、エレン。

齢10にして、世界を背負って死んだ神の子。

「……と、ここだ」

10年前、確かに世界は救われた。

4人の英雄を連れたロストは、魔竜を封印した。

次にその魔竜が目覚めたら、世界はどうなるのだろうか。

どこかでまた、神の力を持つ子が生まれてくるのだろうか。

そんなことを考えて、古びた扉を開けた。

この先に、神子の名を語る少女がいると、思ったから。

扉の先は暗く、降る階段が続いていた。

冷たい風が上がってきて、行く手を阻んでいるように感じられて、息を飲む。

そして、暗い階段をひとつひとつ、降りていく。

長いように感じる階段も、実際にそこへ辿り着くのに時間はかからなかった。

終わりを告げるぼんやりとした灯りが見え、降りる足を早めた。

階段横の燭台がゆらゆらと照らして、ほんの少しそこを照らしているだけだった。

牢獄の鉄格子が蝋燭の灯りに照らされている。

他に一本の灯りが鉄格子の向こう側からこちらを照らしてきている。

そして、ひとりの少女がこちらを見つめていた。

「あ、」

罪を犯した者を収容するのは、間違っていない。けれど、ここは普通の牢屋じゃない。

国が隠したいものを隠すための場所なのだと、あの第一王子の言葉を思い出して思わず舌打ちをした。

見た目10歳くらいの、普通の子供だ。

偽物だとしても、殺すまでしなくて良いだろう。だってロストは願ったのだから。恵まれない者が命を落とさないように、と。

あの第一王子がいずれこの国を治めるのかと思うと、頭が痛くなった。

けれどそれよりも、今は目の前の少女が気掛かりだった。

目が合って、お互い静かに見つめ合って、それに耐えきれなくなったのは俺が先だった。

「俺の名前はジーク。君は?」

返ってくる答えは、わかっている。

少女の綺麗なブロンドの髪に、エメラルドよりも澄んだ瞳が炎で揺れた。

「エレン」

可愛らしいのに無表情でなにを考えているのかわからないが、警戒している様子はない。

明日自分が処刑されることも知らずに、ロストの名を語るのか。

「どうしてこんなところに大切に扱われてるんだ?」

問いに、エレンと名乗る少女は考えるような素振りをして。

「私の存在が、罪だから」

まるで明日の処刑を知っているような口振りで、それを恐れてもいない淡々とした口調で、エレンは腰に提げた剣を指差した。

「私は、貴方の剣に裁かれるのですね」

何も知らないと思って、どんな子供なのかと気になって、それで、明日にはその命を背負って生きていこうと思ってた。

なんの気ない顔して最期の言葉を聞いてやれれば、遺族にでもいつか伝えられる。

でも、この少女の解放を求める家族の話は聞かなかった。

薄く青いワンピースに白いローブ。腰には宝石が付いたベルト。

決して貧しいから身分を偽ったわけではないようで、だとしたら何が目的なのか。

考えてみても、その目的は思いつかない。強いていうなら名声だろうか、こんな子供が。

「私の願いを、ひとつ聞いてくれませんか」

見透すようなエメラルドの瞳で、青と赤のオッドアイを映して返してきた。

まだどんな願いかもわからないのに、何故だか拒絶できない、そう思って話を促した。

「この世界は、今刻一刻と魔物が増えてきています」

世界を渡り歩いている傭兵をしてる俺が今回の仕事に在りつけたのは、別の国からヴィスラ王国までの護衛が有ったからだった。

野盗、魔物、それらから守るために、大きな街にあるギルドに護衛の依頼が来る。

しかし、この10年の間に魔物の被害件数は大幅に減っていた。

国王の勅命により、王国騎士団が魔物を狩り、それから落ち着いていたのだが、最近の仕事では魔物に襲われることが増えた。

護衛に金を惜しんだ商業者の中には魔物に襲われたという話もあった。

「それは古より伝わる魔竜の目覚めの前兆。封印するのは、ロストの力が必要になります。けれど私は明日処刑される身……どうか、代わりに」

エレンが言い切る前に、剣を抜いた。

彼女は黙ってそれを見て、この剣先に乗る意志を待っているようだった。

「…………」

少しの迷いを後悔にしないために、鉄格子にかけられた南京錠を斬り捨てた。

「俺さぁ、ただの傭兵だから。お前が本物とか偽物とかどっちでもいいんだよ。ただ、お前が何もしないで誰かが願いを叶えてくれる程、世界は優しくないんだよ」

黙って、彼女は俺を見る。

「ロストは10年前の魔竜封印で死んだ。それが世界にある真実だ。それでも自分がロストだと言い切れるなら、こんなところで油売ってる場合じゃないだろう」

本物か、偽物か。

これからの逃避行に、小さな少女と罪人の脱獄手引きの罪を連れて行くことになるなんて、そんなことは予定になかった。

「……貴方が、罪に問われます」

「いいんだよ、ほら早く行くぞ。バレる前に街を発つ。話はそれからだ」

鉄格子の扉を開け、エレンの手を握る。

それ以上はお互いなにも言わずに、地下牢から逃げ出した。

城から抜け出すのに何度か道を選んで、人目につかずに城門までやってきた。

エレンは手を握られたまま、俺の歩く速さに合わせて進んでいた。

「ジーク」

不意に開いた口から呼ばれ、少し驚いて振り向く。

静かに、そう伝えたくて人差し指を口の前に持っていくと、エレンは声を潜めて続けた。

「何故、助けるのですか」

今でなくても良さそうな質問にマイペースさを感じてたけれど、何故、そう問われて考えるように視線を上げていた。

「そうだなぁ、別に理由なんてなんでもいいんだよ。ただ子供が嘘ついたくらいで殺される国に、納得いかなかっただけなんだから」

城門の見張りは相変わらず話に花を咲かせている。

どうしようかと見ていると、見張りの交代が現れて、今度は真面目に見張り役を果たしている。

「仕方ないな……強行手段しかないか」

エレンを抱き上げ、走り出す。

軽い足取りで飛び出してくる姿に見張りはぽかんと口を開けたが、それも束の間。ハッとして逃げる様子につられて追いかけてくる。。

「待て!傭兵のジーク・カリルドだな?止まれ!」

「抱えてるのは例の少女だ!捕まえろ!」

そんな声が広がり、城から追手が湧いて出る。

振り返らずに、ただひたすらに彼女を抱えて、街に辿り着き、街の出口が閉まる前に駆け抜けた。

暗いはずの街に追手の存在を明かす灯りが見えた。

しかしそれももう遠くのこと。随分遠くまで彼女を抱えて走ったものだ。

足取りが急に重くなって、そのままエレンを下ろし、座り込む。

「つ、疲れた……」

肩で息をして項垂れると、どんな言葉を伝えればいいのかを考えたのか、エレンも同じように座った。

悩み深げに自分を見つめているエレンに、疲れの滲んだ笑顔を見せてやる。

「そんな顔してないで笑っとけよ」

それでも彼女は無表情のままだったが、突然のことに対応しきれないでいるのを気にしないで、そのまま大の字に寝転がった。

「はー、これからどうすっかな。晴れてお尋ね者になったわけだし、この国出るかー」

街道に灯りはなく、そこから外れた草陰に身を寄せて空を見る。

夜空だけは明るくて、傍に居ないとどこに行ったかもわからないけれど。

「ありがとうございます」

エレンの表情はきっと変わらず無表情のままだと思いながら、顔だけそちらに向けて小さく笑った。

「どうせこの暗さじゃ城の連中も探しようがないから、今日はここで野宿な。明るくなったらすぐ発つからしっかり寝ておけよ」

火も焚かず、夜に溶けていく。

風が草木を撫でる音と、鼓動だけが聞こえてくる。

エレンも、ローブでしっかり身を包んで、横になった。

明日になれば状況が変わるわけでもないけれど、この少女と出会ったのは、きっと。

「……」

運命だから、そう思って、彼女の眠る横で星空を見つめて夜を過ごした。



彼女が目覚めたのは、日の出前だった。

空が白んで今日の天気を報せてくれる。

うとうととしていたところに寝返った音で意識が戻ってくる。



追手はまだ現れず、昨日までの囚われの身を思えば、穏やかな時間だと思ってくれるだろうか。

「おはよう、眠れた?」

右のポケットから随分と古い懐中時計を確認した。

時間はまだ6時を指していなかった。

エレンが頷いたのを見て、手を取った。

「行こうか。宛てもない旅に」

理由なんてなんでもいいと言って助けたひとりの少女の命で、世界は今日も巡るんだと、今日の俺は知らなかった。



街道沿いは隠れる場所もないため、大きく道を外れて歩いていた。

ひとまず隣街まで行き情報を集めようと提案すれば、エレンは迷うでもなく頷いて決まった。

国がどこまで『エレン』を追っているのかによって取れる手段が変わってくる。

そもそも、子供の嘘を間に受けて処刑だなんて大袈裟な判断になったのは何故か、それが気がかりだった。

「エレン、だっけか。真名?」

エレンというのは確かに10年前魔竜を封印したロストの名前だ。

正直、この少女のことを信じてはいなかった。

だからと言ってなにかあるのかといえば何もなく、この少女がなんて答えようとそこは問題じゃなかった。

「はい、エレンです」

エレンもエレンで、嘘だと思われていることになにか思うところがあるわけでもないらしい。

「なんでわざわざ城に行ってロストだなんて言ったんだ?」

「それは、」

問いかけに、エレンの足が止まった。

それを急かすわけでもなく、俺も足を止めて答えを待った。

「竜が、目覚めるから」

真っ直ぐに俺を見つめる瞳は、信じられないだろうと答えることをわかっていただろう。

「……私は非力です。ひとりでは魔物から逃げ延びるのも難しい。だから、助けを乞いに行ったのです。10年前、共に旅した仲間に」

それでも歩き出す。

何も言わずに、再びエレンが口を開くのを待った。

どのくらいか進んで、エレンは王都を振り返った。

同じように振り返ると、まだ遠くない王都が聳え立っていて、次に訪れるのはいつだろうかと頭を過った。

「10年前、私が旅立つ時に国王は優秀な騎士をふたり、連れて行くことを許しました。その頃はもう世界中に魔物が現れ、騎士は国中に派遣され手が足りなかった。そして手練れの剣士と今では数える程しかいない魔術士が共に来てくれました」

王都を再び背にして、空を見上げる。

「本来なら、私は旅の果てに命を落としているはずでした。でも、命拾いした」

段々と視線は落ちていき、足取りはそれに伴って重くなっていった。

それでも彼女は話し続けた。

「それには代償があった。それが、時の止まった”私”です。肉体は成長することなく、10年の時が経ってしまった」

そこまで話しを聞いてもなお、エレンがロストだとは言えなかった。

けれど、最初程偽物だと決めるものではなく、信憑性に欠ける内容に困惑しているのだけれど。

頭を掻いて、言葉を捻り出すも、問い掛けられるのはひとつだけで。

「……それ、どこまでマジ?」

「信じてもらえないと思いますが、全て真実です」

エレンの表情は変わらない。まるで感情がないかのように、淡々と彼女の知る事実を話す。

そんな彼女に、嘘だと言うことはできず、眉間に皺を寄せて悩むまま首を傾ける。

「国はロストが生きていることを知ってるの?それならなんであの王子は処刑だなんて……」

「私の生還は限られた者しか知りません。なので、国王に会うことができずに罪人として幽閉されてしまっていました。信じろと言う方が無茶な話だとわかっています。だから貴方も、戯言だと笑っていただいて構いません」

確かに戯言だと、彼女に出会う前なら笑っていたかもしれない。

迎えるべき処刑日に、もし彼女に最期の時間が設けられてこの事を語るなら、どれだけの人が信じてくれるのかわからない。

だとしても、簡単に切り捨てられないのがロストの名前だっただろう。

「信じないとは言ってないだろ。少しずつ聞かせてくれよ、10年前に何があったか。そして、これから何が起きようとしてるのか」

「はい、私の知ることをお話ししましょう」



10年前、神子-ロスト-が魔竜の目覚めを感じ取ったのは、それより1年程前のことだった。

ロストはその危機を国に報せ、ひとりで旅に出ようとしていた。

幼い子を故郷に残して、そのロストはふたりの騎士と剣士、魔術士の4人と共に旅立ち、魔物の群れに襲われ、命を引き取った。

ロストの死を王国に伝え、魔竜が世界を滅亡させるのも遠くないと知り暴動が起きないようにと、ロストの死は伏せられた。

どうにか魔竜を封印できる方法はないかと探し走り回るが、見つからなかった。

4人の仲間は、最後の手段を取るか話し合い、辺境の村へ訪れた。

一族の末裔となる少女が、世界の命運を握る存在になった。

死んだロスト、母親についてを少女に告げたのだ。

10歳の子供だというのは彼女の母親である、つまり先代のロストがその存在を4人の仲間に知らせ、自分のもしもの時にと伝えたのだろう。

そんな子供に、彼らはどれだけ心を痛めたかは、取るようにわかった。

母親は死ぬ運命だった。けれど志半ばでなかったら、その娘が世界を背負うことはなかったのだから。

そして、最後のひとりのロストであるエレンが、母親と旅した4人の仲間と共に、再び魔竜を封印する旅に出た。

国は次こそはロストを守るために、魔物退治に力を入れた。

傭兵を雇ってでも魔物の数を減らし。しかし湧き出てくるものを止めることはできなかった。

世界中がいつまでも湧き出る魔物の存在に怯えて、獲物を求めた魔物が国境を封鎖し、世界はますます小さくなった。

けれどロストが魔竜を封印するのに必要なことは、ヴィスラ王国で行えたことがせめてもの救いだったのかもしれない。

7っの祭壇に祈りを捧げ、魔竜を眠りにつかせることができた。

いつ魔竜が目覚めるか、誰もわからない。

目覚めの兆候が魔物の増加だが、覚醒したら世界はどうなるのか。それは、まだ誰にもわからない。



「それが、10年前のお話です」

漸く視界の先に街が見えてくる。

王都と主要都市を繋ぐ小さな街だ。

「ロストが死んだ、というのは先代の死の話が混じった言い伝えになったのでしょう」

最近魔物が増えてきたのは彼女の言う通りだった。

魔竜の目覚めを感じ、魔物が現れているのだとしたら、エレンの言っていることは本当のことで。

10年前の悲劇の再来か、それよりも最後に残ったロストを処刑して滅亡を待つのみになっていたか。そう考えて、エレンの顔を伺う。

真っ直ぐ前を向いて、彼女は横を歩く。

たった一夜一緒にいた程度の少女が語るは嘘か真か。

わからないけれど、嘘を言っているようには見えないのが確かなことで、今どちらかと決めることはできなかった。

「……エレン、行きたい場所は?」

どこでもよかった。ただ彼女には何が必要で、何が彼女を証明するのか、興味があった。

エレンは少し考えて、そうですね、と口にする。

「王都の仲間には会えませんでしたから、他の2人に会いにいけたらと思っています。が、きっと旅について来てくれはしないでしょう」

4人の英雄は今も語り継がれている。その英雄ひとりが彼女をロストだと認めれば、それ以上にエレンをロストたらしめる。

「なんでついて来ないって?」

「ひとりは争いに疲れ、傭兵業を畳んで田舎で静かに暮らすと言っていました。もうひとりは旅を終えたら結婚すると話していましたから、連れ出すのは憚られます。国王に事態を伝え、騎士のふたりを共に連れ出すことを許可をもらえたらと思っていましたが、現状がこれです」

もうすぐ着く街の門には騎士の姿は見受けられず、まだ追手は街道沿いを探しながら来ているのだろうと予想できた。

街に入るために街道に合流して、何食わぬ顔でサナスの街にやってきた。

街は王都に比べるとやはり見劣りするが市場には新鮮な食料が並んでおり、彩り豊かだ。

市場を進んでいくと住宅地が円を描く様になっており、中央には噴水がある。真上から見るとまるで鍵穴の様な街の作りをしている。

「もし本当の話だとしたら、あの王子様を黙らせて国王叩き起こした方が早そうだな」

果物を扱ってる店の前で足を止め、品物をひとつ手に取って、腰に下げた財布から10ラン出して店主に渡した。

「毎度!」

やはり商売は気持ちの良い挨拶が大事なのだろう。こちらを見送る店主の声が背中に届いた。

アプリーという赤い皮に包まれた丸い果物を左右の手に投げて質量を感じる。

しっかりと重みのあるアプリーをジャケットの裾で表面を拭って、エレンに手渡した。

「宿屋入っても飯はすぐに食べれないし、それ食っとけ。どうせろくに飯も食ってないんだろ」

珍しそうに受け取ったアプリーをじっと見て、くるくる回して見て、間を置いて齧り付いた。

シャキ、と小気味いい歯応えが聞こえる。

それを見て満足して、人が行き交う市場をエレンが逸れないようにすり抜けて行った。

住宅地に入ると、いくつか宿屋が目に留まる。

一番安い宿の看板を見て、腕を組んで右足で足踏みしていた。

「一部屋450ラン……二部屋で900ラン……くそ、足元見やがって」

無いわけではない。けれど余裕があるわけでもなくてため息が出る。

「ジーク」

「ん?他の宿がいい?」

他がいいと言われても財布が困るのだが。

首をゆっくり横に振る。

「私は同じ部屋で構いません」

それはとても助かる言葉で、いくら見た目が子供だろうと中身が大人だというのなら気が引けるのは間違いないが、俺にそう言う趣味はないのが同じ部屋にさせてもらえる条件というところだろうか。

「そうか?じゃあ財布にも優しくそうさせてもらうかな」

宿の扉を開けて入って行く。

中は簡素な作りの番台があり、そこで帳簿をつけていた女性が顔を上げて頭を下げる。

「いらっしゃいませ」

「ふたり一部屋で」

そう伝えると、女性はひとつ鍵を手に、こちらにどうぞと言って中へと案内をした。

階段を上がった2階の真ん中の部屋に通された。

「こちらが部屋の鍵になります。チェックアウトの際こちらをお持ちください」

頭を下げて、女性は1階に降りて行った。

受け取った鍵で扉を開けると、中は少し手狭だが、ふたつのベッドが置かれており、野宿なんかに比べたら何倍も良いところだ。

エレンを中に入れて内側からしっかりと鍵をかけ、腰から提げた剣とベルトを小さなテーブルの上に置いた。

ベッドの端に腰掛け、一息吐いた。

「エレンもそれ脱いでゆっくり休んだ方がいいぞ」

自分もジャケットを脱いでラックに掛けると、エレンに手を伸ばす。

エレンもローブを脱いで渡してくるそれをラックに掛けてやった。

身軽になった状態でベッドに倒れ込んで、地面との違いに有り難さを覚えた。

本来なら昨日の寝場所は城内の客室にある極上の柔らかさを持つベッドだったはずなのは忘れて、旅で慣れた安い宿屋の硬めのベッドが身分相応だと枕に顔を埋めながら思う。

エレンはというと、毛布を肩から被ってベッドに座り、窓の外を眺めていた。肩から何か掛かってないと落ち着かないらしい。

もう太陽は下がる様に傾き出す時間に、騎士団が追手としてこの街にも派遣されるのもそろそろだろうか。

馬車を使えば歩いて逃げたふたりに追いつくのは簡単なことだ。

「あのさ」

ぐるり、頭の中を回って口をつくのは、また問い掛けだ。

「これからどうしたい?」

城から逃げ出し、頼りになるはずの仲間をあてにできない。

どうしてやるのが良いだろうか、眼を瞑って考えても、良案は思いつかない。

ひとまずはエレンが本物かどうかを確かめて、証人を連れて王都に戻るのが良いのだろうか。

しかしそれをして、国王不在の中、真実が受け入れられるのか、世界の危機を認められるのか、頭の中では到底答えは見つからなかった。

それをエレンに伝えれば、彼女は考えるように俯き、答える。

「ここから南西にある、アンティスという町にエルカという魔術士……かつての仲間がいるはずです。彼は星読みで未来を予言すると言われ、国の行く末を危惧した国王が寵愛していました」

エルカ・ティリズ。多くを予言することはなく、国を真っ直ぐに導く優れた人だったと語る彼女はどこか懐かしげだ。

この国は優れた王に恵まれたわけではないが、その家臣や民に恵まれたと言える。

エルカの予言が為された時の国の決断は正しい道を進み、民の信頼を得ていた。

10年前の旅を終え、彼は星読みの予言を捨て、静かに暮らすことを旅の報酬として得てから、その名を聞くことはなくなった。

「エルカ・ティリズか……国への貢献度も考えると、エレンの証人には持ってこいだな。けど、会ってないんだろう?いくら当時のままとはいえ、変わらない見た目を見てエレンだと言ってくれるのか?」

少しでも、エレンの正体が明かされる証拠となるのなら、何でもよかった。

別にすぐにエレンを手放して一人旅に戻りたいというわけじゃなかった。

ただ彼女が不憫に思えたから、なんて言ったら善人気取りに思えて自分では納得はいなかった。

ブーツを脱ぎ捨てて、ベッドの上であぐらをかく。

「提示できる根拠はありません。でも、彼らならわかってくれるでしょう。だって……」

そこまで言って、口を閉じた。

その先を聞き出すようなことはせず、そうか、と返した。

こんな状況でも泣き言を言わない子供だと思った。

そう、本人の話が本当なら、エレンは20歳を迎えている。

だとしても、喜怒哀楽の見えない彼女に、お節介が湧いてしまったために国から追われることになるなんて、たかが子供を逃しただけで大袈裟だと、本音では思っていて。

少しの時間を経て、逃避中とは思えない穏やかな時間を一室で過ごしていた。

とは言っても、それは俺が昨夜の分の睡眠を補っているのを、エレンが見つめていただけだ。



窓の外は夕陽が差し込み始め、鳥達が休息の場を探していた。

「…………」

10年前、私が仲間と出会ったのも、夕暮れ時の故郷だった。

初めて見る馬車、小さな村に訪れた見知らぬ人。

旅はまだ終わっていないことは、ロストである私にはわかることだった。

馬車から降ろされた棺に、お母さんの姿を見ても、涙を流さなかった。

『お疲れ様、お母さん』

お母さんの髪に、大好きだった花を添えた時の想いを、私はいつも胸に抱いている。

世界を救ってほしい。

誰もそんなことは言わなかったのに、村人たちに葬儀を頼むと、着の身着のまま彼らについて行った。

世界の命運を背負ったつもりはない。

ただ、それがロストの務めだから。

ただ、お母さんが救おうとした世界だから。

だから、私は――



「おい、エレン」

向かいのベッドの下を見つめているエレンの返事を待った。

はっとした顔でこちらを向いて名前を呼んだ彼女の瞳はどこか不安定に見えた。

窓の外の町並みは所々明かりがついて、白や橙の優しい色が広がっている。

「大丈夫か?」

聞いたって、この手のことに返ってくる言葉は決まってる。

「はい」

ほら、みんな平静を装うんだ。

「そろそろ飯の用意出来てるから、食いに行こうぜ」

エレンの意識が反応したのを確認して、ブーツを履く。

トントン、つま先を床で叩いてしっかり足を嵌めた。

「はい、食べに行きましょう」

被っていた毛布を脱ぐと、彼女と並んで食堂へ向かった。

何人かすでに食事を始めている旅人はいた。

騎士団が追ってくるなら宿を探すかと危惧していたが、まだここには来ていないらしい。

カウンターに並んだトレイには一人前の料理が並んでおり、どれも同じだ。

ふたりでひとつずつ手に取ると、空いているテーブルに向かい合わせに座って食事を始めた。

丁寧に一口ずつナイフで切るエレンに比べて、フォークで刺して口に入らないなら食い千切る、そんな食べ方をするものだから、食べ終わるのは当然俺の方が早かった。

エレンはまだ半分も食べれていないため、食べ終わったこちらの皿を見て少し急ぐようになった。

「ゆっくり食えよ。合わせなくていいから」

それを見て、ゆっくりと水を飲んで空になったコップに、側に置かれていたポットから冷たい水を注いだ。

少し減ったエレンのコップにも注いで、片肘を付いて目の前で食べている風景をじっと見つめた。

「ありがとうございます」

自分のペースでゆっくりと食事と水を口にして、それでも会話のない俺達は同じ頃に食堂に来た旅団や街を行き交う商人たち、そんな彼らを運ぶ馬車の御者よりも早く食堂を出た。

食堂に入っていく客とすれ違って部屋に戻る。

明かりをつけて、カーテンをしっかり閉める。

エレンを先にシャワーに行かせて、小さな荷物袋の中に入れて置いた手紙を取り出した。

その中から最新のものを確認する。

差出人はククリと記されていて、字を書き慣れてきた子供のような字体で綴られている。

もう5年前か、当時一緒に仕事をしていた傭兵団の仲間のひとりだ。

俺みたいな根無し草の傭兵は、だいたいがギルドを通して伝言や手紙のやり取りをする。

永久中立を掲げるギルドは、ヴィスラをはじめ、世界各国様々な都市に拠点を置く。

仕事を依頼する者と請ける者とで成り立つそこは、傭兵達の”家”だった。

この手紙を受け取ったのは、執行人の仕事を請ける時にギルドから受け取ったものだ。

差出人のククリは、最近まで王都に居たらしい。入れ違いだったようだ。

扉の開く音がする。エレンが髪を濡らしたまま、シャワールームから出てきた。

「あったまれたか?」

出していた手紙を揃えて仕舞う。

見られたくないものを奥にしまって、口を閉じて。

「はい、ジークもどうぞ」

「何かあったら呼べよ」

出来るだけ早くシャワーを浴びて、髪から足先までを洗う。

温かいシャワーに身体を温められて眠気が帰ってくる。

思わず立ったままうとうとしてふらついた足をしっかりとさせて泡を流した。



濡れた髪をタオルで絞ってベッドに腰掛ける。

窓の外はカーテンが閉められ覗けない。

追手が来ていた時に偶然にも見られてしまうことを恐れてのことだとわかっているから、私はカーテンをそのままにした。

疲労が溜まっているという程でもないのに、温まった身体と少し硬いベッドの座り心地に眠気を誘われて、まだ乾き切らない髪を放って横になった。

シャワーの音が遠くなっていくのを感じながら、私は夢を見る。

目の前には真っ赤な果実を乗せたショートケーキが、食べられるのを待っている。

大好きなショートケーキ。

周りには誰もいないのに、辺りは誕生日を祝う飾り付けがされていて、ひとりぼっちの誕生日を迎えていた。

何度目だろう、ひとりで迎える誕生日は。

9歳の時にお母さんは旅に出たから、11回。

これが本当だったら、12回目。

フォークを手に取って、天辺にある苺を刺した。

甘酸っぱい味を期待して口に運んだ。

「っ、」

噛むと苺はぐちゃりとした食感と鉄臭さを口いっぱいに広がって、思わず吐き出そうとして席を立つと、飾り付けられたそこかしこがどろどろと溶けていき、暗闇が訪れる。

『エレン』

誰もいなかったはずのここに、私の名前を呼ぶ声がする。

いくら辺りを見て回っても、その暗闇に呼び声の主を見つけることはできないのに。

『可哀想なエレン』

声は近づいているようにも、遠ざかったようにも聞こえてくる。

私は知っている、この声を。

ずっと聞こえてくるこの声の主を知っている。

隠れるように耳を覆っても、声は聞こえてくる。

どれだけ離れようとしても、どれだけ逃げても、追いかけてくる。

『わたしと』



シャワーから出ると、エレンが倒れるようにベッドに横になっていた。

一瞬本当に倒れているのかと思って顔を覗いてみると、魘されているようにぶつぶつと何かを言っている。

内容は聞き取れないけれど、不安になって肩を揺らした。

「エレン、起きろ」

ゆっくりとエメラルドの瞳が開いて、身体を持ち上げた。

確かめるように辺りを見回してる。

「大丈夫か、魘されてるみたいだったから起こしたんだけど」

もう辺りはいいのか、こちらの目を見た。

「はい、大丈夫です」

慌てて駆け寄ったものだから拭い切れてない雫がエレンのベッドに垂れていた。

じんわりと滲む水滴は広がって浸食していく。

エレンの大丈夫を聞いて自分のベッドに腰掛けると、肩に掛けていたタオルで頭を乱雑に拭いた。

何も言わないけれど、きっと悪夢を見たんだろう。

「こんな状況だから疲れてるのかもな」

ベッドサイドのランプをつけて、部屋の明かりを消した。

起こしておいてなんだけれど、疲れているのなら寝かせた方が明日からの旅にはいい。

「今度はぐっすり寝れるといいな」

仄暗くなった部屋で、隣り合ったベッドを挟むランプがお互いを照らしてくれる。

毛布を被って瞳を閉じるエレンを見守る。

おやすみ、そう言い合って、彼女に背中を向けて眠りについた。



朝になって目覚まし代わりに聞こえたのは、扉を叩く音だった。

一瞬何事かと考えたけれど、その考えが巡る前に飛び起きるようにベッドから降りた。

同じように慌てて起きたエレンの目覚めを確認して、ブーツに足を通すだけ通し荷物とラックに掛けていた服を持って扉に耳を当てた。

それに倣ってエレンも靴に足を通すと、邪魔にならない位置まで寄ってきた。

「お客さーん、起きてますかー?ちょっとお話をお聞きしたいという方が来てるのですけどー」

トントン、繰り返される音と何人かの呼吸を感じて、深呼吸と彼女の手を握った。

扉の前の声が変わる。

「王国騎士団です。お邪魔しますよ」

ガチャリと扉が開くと同時に、それを蹴り飛ばした。

その勢いに負けて扉の前にいた騎士団の制服を着た男は尻餅をついて倒れる。

驚きの声と扉から離れる足音が鳴って、エレンを引いて走り出した。

後ろからは追いかけてくる足音と捕まえろと叫んだ声が聞こえた。

振り返らずに歩道を縫って低木を越え、最短距離で街を出ようと走り抜ける。

すれ違う人は何事かと振り返り、追いかけてくる騎士団の姿を見て道を譲っているのだろう。

待てと言われて待つなら、騎士団の仕事も苦ではないだろう。

逃げる勢いのままサナスの街を飛び出した。

街道を走っていた足を緩やかに速度を落として、エレンの手を握るその手を離した。

振り向くと、肩で息をする彼女は足を震わせていた。

誰も追ってきてはいない。ひとまずは逃げ切れたことに安堵の息を吐きながら、街道から逸れるように歩き始め、近くの湖の畔に彼女を案内した。

「お疲れさん」

ベルトとそれに下げる荷物を揃えて、ブーツを脱いで湖に足を差し込んだ。

「あーきもち。エレンもこっち座れ。足出して、マッサージしてやるから」

言われるがままに傍に座ってワンピースの裾を膝まで上げた。

か細い足に手を伸ばして、ふくらはぎを揉んでやる。

年頃の異性に簡単に身体を委ねるのはどうかと思ったけれど、これも信頼のひとつだととって良いのだろうか。

どちらかというとエレンがそういうことに無頓着なだけにも思える。

「追手、もう来るでしょうか」

「さぁ?どうだろうな。でも休むのも必要だろ」

両足をマッサージし終えて、湖から足を出して水を切る。

ブーツをしっかりと履いて、荷物から小さく折り畳まれた地図とコンパスを取り出した。

「アンティスに行くなら、普通なら街道を歩いていけば7日で着けるけど、それだと途中で騎士団に見つかりかねない。でも直線上を進めば5日で着ける」

地図の上をなぞる指は深い森を指して止めた。

「最近魔物が出るからってギルドに討伐の仕事が貼ってあった。でも報酬が安くて誰も請けてなかった。まだ魔物はうじゃうじゃいるだろうけど、どうする?」

指先の森を見て、エレンはそれに重ねた。

「私は戦えません」

ロストに力はない。ただ魔竜を封印することができるだけだ。

だからこそ、ロストを守る人が必要だった。

それが10年前の4人の英雄。

「ジーク、私を守ってくれますか」

今のエレンに、彼女を守る英雄はいない。

本来なら、ここに立つべきなのは俺じゃないのかもしれない。

ただの傭兵が背負うには重たい役目だと思っている自分に、彼女をロストと認めているじゃないかと笑いながら。

黄金色の髪を優しく撫でて、自分自身を鼓舞するように笑った。

「任せておけ、これでも腕は立つんだ」



陽射しが照らす旧街道を歩く。

手入れされていないその道は決して歩きやすいものではなかった。

ましてや、10歳の女の子が歩いていたら疲れを訴えるだろうものだ。

それでも、エレンは表情を変えず歩いている。

それが不思議だったけれど、時折エレンの調子を確認して、疲れがたまらない速度で歩いた。

時々鳥が空を飛んでいるのを眩しげに見上げると、彼女は懐かしそうな顔をしているように見えた。

けれど相変わらず無表情を通していて、疑問が募る。

「どうしてお前はそう仏頂面なわけ?」

どうせ短い間しかいないだろうけれど、ずっと気になっていたそれを訊くと、エレンは言葉に詰まるような反応を見せた。

言うか言わないか迷っているのだと感じて、嫌なら言わなくていい、そう言おうとしたら、彼女はぽつりと呟いた。

「昔からなんです」

卑下したわけでもないだろうそれが、なんだか寂しげに聞こえたのは気のせいだろうか。

エレンが次に話すまでのしばらくの間、何も言わなかった。

代わりに、彼女の頭に手を置いた。

陽が傾くまでの間、口数の少ないエレンはなんともない様子だったが、その前まで話していた内容が内容なだけに息苦しさを覚えながら、それでも無言を貫いた。

「ジーク」

呼ばれた声はこちらの方は向いておらず、後ろを向いていた。

「馬の鳴き声が聞こえました」

同じように後ろを振り返って、目を凝らすけれど何も映らなければ、鳴き声も届かなかった。

「聞こえない、けど……追手だと面倒だな」

「違います、ジーク。あの鳴き声は襲われています」

騎士団ならこの辺の魔物に襲われるようなことはないだろう。集団で行動する彼らなら、引けを取ることもない。逆に返り討ちにしているはずだ。

それなのに襲われているということは、一般人が襲われている。

見晴らしの良い場所まで走ると、エレンの視線の先を追った。

馬車を引いた馬が慌てふためいているのが遠目からわかった。

御者の男は叫びながら馬車を進めている。

追いかけてきているのはゴブリンの集団だ。

「ちょうどいい、行ってくるから待ってろ」

来た道を走って戻り、こちらへ向かって来る馬車、もといゴブリン一体を斬りつけた。

目つきが鋭くなってしまったのが自分でもわかる。

獲物を狩る時、どうしても出てしまう顔だ。それに対して視線が投げられているのが感じられた。

倒れたゴブリンを見て、他のゴブリンが飛びかかってきたが、そんなことは些細なことだ。

低級な魔物のゴブリンが集まったところで、その数も高が知れている。この程度じゃ敵じゃない。

倒れたゴブリンの身体が砂のようにさらさらと崩れて、魂がマナに返還されていく。

「ジーク、お疲れ様です」

後ろから寄ってくるエレンに笑いかけた。

今更怖いだなんて言われるとも思ってないが、戦いでは表情が違いますねなんて言われたらどうしようなんて思ってしまっていた。

「あぁ」

そんな風に話していると、少し先まで走っていた馬車から男が降りてきて、頭を何度も下げて感謝を伝えてきた。

「お助けいただきありがとうございます……急ぎの荷物を運んでまして、街道からずれたこの道を使っていたら魔物に襲われてしまって……」

「護衛付けないでの旅はお勧めしないぜ。特に陽が暮れ始めてからはやつらの時間だ」

男は頭を掻いて続ける。

「急ぎだったものでギルドに依頼する時間も惜しくて……アンティスまでなのですが」

「へぇ……なら俺達を運んでくれないか?礼は護衛ってことで」

いい脚を手に入れたと言いたげな顔をしていることに気づかないで、この後の旅の安全を保証して脚を手に入れられるなら儲けものだ。

男は喜び、手を両手で握って是非と答えた。

彼はアトスと名乗り、ふたりで荷馬車に乗ったところを走り出す。

荷馬車の中に入ると、食料や衣類が積まれていた。

適当に空いてるところに座り、エレンも木箱の間にすっぽりとはまるように座った。

頭を木箱に預けながら、エレンはこちらを見つめてくる。

笑って見せれば、小さく小首を傾げる。

「良かったな、これで早く着ける」

森を通過しないで済む、予期しない出会いに感謝しながら、揺れる荷馬車に背を任せて、目を閉じた。

「全部ジークのおかげです。ありがとうございます」

目を閉じたまま唇で弧を描いて彼女に答えた。

彼女との不可思議な時間も、もうすぐ終わる。

後は彼女をロスト足らしめる証人に届ければ、俺の罪もなくなるだろう。

そんな安心の元、心地良い揺れのもとに眠りに落ちた。

日も暮れて、馬車もろとも野宿になる。

しかしこういった街をまわるアトスはそれに慣れており、野宿に良さそうなところを見つけると、火を焚き、キャンプキットを広げた。

食料は売るほどあるのだからその点も困らない。

簡単だが野菜スープとパンを用意してもらった頃に仮眠から目を覚まして、温かい食事を摂った。

「夜は俺が見張ってるから、エレンもあんたもゆっくり寝ろよ」

アトスはこれまた頭を深く下げて感謝を言うと、ブランケットを差し出し、馬車の中ででもと渡された。

エレンは馬車の中で眠ることにさせて2枚のブランケットを使わせる。

俺は夜通し魔物や賊、そして追手への警戒を走らせた。

一際静かな夜空を見上げて、ぱちっと音を立てる火が絶えないように馬車の中の薪を配る。

取りに行く時は静かに、寝ているエレンが起きないように。

悪夢を見てないかと心配になって顔を寄せれば、規則正しい静かな寝息をしていて杞憂だった。

数時間、焚き火と睨めっこしていて昔を思い出した。

子供の頃、まだ野宿が怖かった。

今でこそひとりでも魔物を恐れずできるけれど、当時は何人かの仲間に囲んでもらっても不安だった。

戦えるようになったというのに、いつまでも群れていることが当たり前になってしまっていた。

それが情けなくて仕方がなかったことを憶えている。

とても、嫌な記憶のひとつだ。

「おはようございます」

不意にかけられた声に思わず肩を上げてしまった。

気がつくと陽が上がり始めた頃で、エレンは荷馬車から出てきた。

「おはよう。寝付けなかったか?」

なんでもない風を装って、火は焚かれたまま、細長い棒で薪を整えて彼女の目覚めを確認する。

「いいえ、眠れました。火の番を代わりますので、ジークも朝食まで寝てください」

そう言われて、アトスを起こさないように静かに笑った。

「じゃあお言葉に甘えて」

その場で寝転がると、火から顔を逸らして眼を瞑る。

上からブランケットがかけられたのがわかる。柔らかい生地が気持ちいい。

意識が揺れる感覚の中で、それでも眠らないように周囲を警戒していたつもりだ。

パチパチと火が跳ねる音とエレンの呟きが聞こえる。

ごめんなさい、そう聞こえて、それでも何も言えなかった。

暫くしてテントから物音が聞こえ、意識を引き戻して身体を起こす。

ブランケットを畳んで待っているとアトスは重たい瞼を押し上げて出てきた。

「見張りありがとうございます。馬車にあるもので朝食にしてください」

そう言われ返事だけして馬車から缶詰と果物を持ってきた。こういう時の遠慮はしない。食える時に食っておかないと食いっ逸れる。

「これ貰うぜ」

エレンとアトスの前にも同じものを置いて缶を開ける。

アトスはその間に馬車に入り、出てくると飲み物とお菓子も取り出してこちらに渡した。

「いいのか?」

そうは言いつつ受け取って、飲み物を口にする。コーヒーの入ったボトルだった。

エレンも同じようなボトルに違うラベルが貼られていてミルクティが入っているようだった。

そのボトルが珍しいのか角度を変えて珍しそうに見つめている。

「美味しかったら買ってくださいね」

アトスは笑って答えて同じ柄のコーヒーを飲んだ。

エレンはボトルを気に入ったらしく、ちまちまと飲み続けながら、馬車は出発した。

昼を過ごし、もう一夜を過ごして、再び朝を迎え、太陽が天辺に昇った頃。

荷馬車から顔を出して外の景色を確認して、外の景色にエレンを手招いた。

顔を出した天幕の隙間から外を見ると、街道の向こうに町が見えた。

「アンティスだ」

エレンにとって久しい仲間との再会を告げる馬の駆ける音。荷馬車の揺れる音。

天候は下り気味で雲が太陽を隠そうと、空を急ぎ足で流れている。

どこか浮かない顔でアンティスを見つめている彼女の視界を遮るように、天幕を下ろした。

喜べよ、そう言いたい気持ちを押し殺して、町に着くほんの少しの時間を日夜変わらず暗い荷馬車の中で過ごした。

そうして、ふたりで英雄の下を訪れた。



町に着いてアトスと別れると、ティリズ家を探した。

探すという程のことはせず、町人にティリズ家はどこかと訊けば直ぐに場所はわかった。

町並みから浮くことのない、普通の家だった。

エルカ・ティリズは10年前の戦いでも有名だが、それ以前から国の行く末を左右する程の人材だったこともあり、正直アンティスで暮らしているというのは冗談かと思っていた。

それくらい魔術師は当然、それに加えて星読みの力もあったエルカがするには質素な暮らしになるからだ。

緑の屋根の木造の家。2階建ての2階は窓枠が大きくとられており、空を見るのに適した造りだった。

エレンを前へやって、半歩下がって彼女が扉を叩くのを見守った。

控えめな音がして、1分も経たない程で扉は開いた。

グレーの瞳が優しく微笑む、ブロンド髪の女性がエレンを出迎えた。

「あら、お客さん?見かけない顔だけれど……」

女性は視線を下げてエレンを見つめると、微笑んでいた唇が静かに下がっていったのを、俺は勿論、エレンは確かに見ていた。

「良ければ中へどうぞ?丁度遅めのお昼を食べるところだったの。一緒にいかがかしら」

それが導き出す答えも、彼女にはわかっていた。

「ありがとうございます」

そう言って、女性に促されるまま家の中へと通された。

リビングにはふたり掛けだが大きめのダイニングテーブルが置かれていて、シチューがひとり分用意されていた。

それを横に避けて、来客用の椅子を置くと女性は冷たい紅茶とシチューをよそってテーブルに並べてくれた。

「どうぞ、食べてくださいな」

女性は友人と食事を共にするかのように、この時間を楽しんでいるように感じた。

顔はシチューに向いた状態で部屋の中を視線だけ探ると、いくつもの写真が飾られていた。

ブラウンの髪が柔らかくて優しい笑みを浮かべている男性と、目の前の女性が並んで写真に写っている。

その中に、1枚。

日焼けした写真に、その男性とエレン、そしてジークが知る限り英雄と呼ばれた騎士と、残りふたりの男性が写っていた。

それだけで推測するに、エレンの話は本当だった。

「知らない人をよく名前も聞かず食事出してくれましたね」

女性は笑って、そうだったわねと言った。

エレンのことを知っているからだと、すぐにわかった。

たった1枚、いつでも見れる場所に飾られた5人の写真。

他のどの写真よりもその男性が若く写るそれは、きっとこの女性も知らない時間。

「私の名前はメルテス。エルカ・ティリズの妻です」

そう笑う顔は、悲しみに暮れていた。

この場にそのエルカがいない。なによりも決定的なものが欠けている現状に、エレンも俺も、彼女のように笑うことはできなかった。

「エレンです」

「ジーク・カリルド、です」

今更ながら自己紹介をして頭を下げる。

だんだん冷えていくシチューはおざなりに、交わされる挨拶もどこか機械的だ。

俺の名前はともかく、エレンの名前は知っていただろうから。

笑顔がゆっくり溶けていき、メルテスは視線を落とした。

「エルカは、亡くなりました」

メルテスがシチューを掬うスプーンを皿の中に沈ませて、そう言った。

一度落とされた視線は俺に向かい、ゆっくりとエレンに流れるように再び落ちていく。

「エレン様がここに来ることは、彼が最後に遺した星読みの結果でわかっていました」

ゆっくりと席を立ち、5人が写るその写真に手を伸ばして、そっとエレンの前に置かれた。

一際優しげな顔をした男性は、エルカは、エレンの肩を抱き、彼女の幸せを祈っているようだった。

「『エレンが来る。僕を頼ってくれたのに、その頃に僕はもういない』、そう言っていました。写真立ての中をご覧ください」

言われるまま、エレンは写真立ての裏を開けて、その中に残されていた彼の最期の手紙を手に取った。

珍しい翠のシーリングが施された手紙をエレンは何も言わず、封のされたそれを撫でた。

するとシーリングは溶けて消え、自然と封の上がった中身を取り出した。

俺には馴染みのないものだったが、エレンは彼と共に旅をする中何度も目に留めてきた魔術の類が施されているのだとわかったのだろう。

中に書き留められている手紙は、親愛なるエレンへ、それから始まっていた。

『親愛なるエレンへ。

君がこの手紙を読む頃、世界はまた危機に陥らんとする最中だろう。

昔と変わらない姿のままだと知り、それが今の君を囲う問題だというのに、そんな中に僕を頼ってきてくれたのにそこに僕がいないことをどうか許して欲しい。

今国に戻っても、君を捕らえようとする者がいて、助力を求めるのは難しい。国王は病に伏した今、ラインハルトに近づいてはダメだ。

また君は、世界を救う旅に出ることになる。新しい仲間の手を取って、茨の道を進んで行く。

精霊との契約は滞りなく済み、君は再び魔竜を封印しに彼の地に降り立つ。

僕が最期に見れたのはそこまでだ。旅の終わりを見ることができなくて、不甲斐ない。

それでも、僕は君が笑える未来が訪れるのを信じている。

だから今は、君の描いた地図を歩くんだ。ジーク君と一緒に。

エレン。君の生きるこの世界が、笑顔で満ちていることを願ってるよ。

いつだって、僕らは君の傍にいるのだから。

 エルカ・ティリズ』

読み終わると、エレンは静かに便箋を畳んだ。

仲間の最期に遺した手紙に、目を伏せた。

瞼の隙間から僅かに滲み出ているそれに気付いて、見なかったことにするために写真に手を伸ばした。

写真の背景はどこかの町だろうか。木々に囲まれた自然の多いその場所で、旅の終わりに撮ったのだろうことが窺える。

全員笑っている。エレンでさえ微笑んでいるように見えて、10年の壁を感じた。

裏返すと、名前が書かれていたが、インクは薄れていた。

それをテーブルに置いて、どのくらい経っただろう。

エメラルドの瞳が開いた時には、もうそれはどこかにいっていた。

涙を流さない彼女を冷たい奴だと言える人は、きっといないだろう。

だって彼女は、泣くことをやめたのだから。

「メルテス、ありがとうございます」

便箋を封筒にしまって、大事そうにそれを見つめる。

写真に写ったエルカではなく、エレンは彼の意思をその手紙に見ていた。

「この手紙、もらってもいいでしょうか」

勿論、とメルテスは微笑んで、食事を勧めた。

ぬるくなったシチューはどろっとしてスプーンから溢れるそれが緩く重く落ちていく。

写真を写真立てに立て直して、テーブルには彼らの笑顔が広がっている。

エレンの中にいるエルカとメルテスの中にいるエルカに、家族という存在を思い浮かべて、シチューを食べる手元はふたりよりも遅くなった。

大切な人を失ったふたりと、それをただ第三者として聞いていることに、壁を感じなかったと答えれば嘘になる。

けれどそれよりも、自分の過去を思い返して思考が重くなったと答える方が正しい気がした。

だとしても、今その答えを出すにはこの場所は暖かすぎた。

「今夜は是非泊まっていってください。ひとりだけの家ですから、寂しくって」

皿を空にして、メルテスはグラスに手を伸ばす。

よく見ると彼女のグラスの中は水だ。

「でも」

彼女は妊娠している。それに気付いて、言葉を挟んだ。

「少なくとも俺は何も手伝えないでお世話になるだけだ。エレンも生活能力があるわけでもないのに世話になるのは」

思わず出てしまったエレンの生活能力についてしまったと口を閉じた。

横目で見れば、何か言いたげな瞳で見ているようにも見えなるのが悩ましい。

「いいんですよ。おばさんになると人のお世話するのが楽しいんですから」

腹を優しく撫でて、メルテスは笑っていた。

最期にエルカの遺したのは、手紙だけじゃなかった。

「ジーク、もしジークが居苦しくなければ、私は今夜くらい安心して横になりたいと思っているのですが。如何でしょうか」

この言葉に、エレンの気遣いがふたつかけられていて、本物だ、と。そう思うと、俺への気遣いも、彼女なりの優しさだと感じた。

「それなら、今日くらいは買い物とか家の片付けの手伝いくらいしますよ」

その答えを、メルテスは喜んでくれた。

「じゃあジークくんにはお買い物頼んじゃおうかしら!」

早速メモ帳を取り出して、買い出しの内容をスラスラと書いていくと、そのメモをはいっと渡してくれた。

書いてあるのは小麦粉を大袋で、日持ちする野菜を少し。あとはエレンに鞄を。

妊婦のメルテスが小麦粉や重たい野菜を買い置きしておきたい理由は重々承知の上で、エレンの鞄とは。

「えっとぉ……」

メルテスはエレンに財布を渡して、俺とエレンの背中を玄関まで押す。

そのエレンも不思議そうだが、買い物の付き添いならと納得している風でもある。

「お願いね」

そう言われて、はい、としか答えられず、市場を軽く見にいくことにした。

栄えているわけでもないこの町は、どちらかといえば田舎町だ。

街から町へ、そして街へ。

今回アンティカに来た商人も、この町を経由して次の大きな街に行く。

ただ寄ったアンティカでも流行りのものなどを卸したり、滞在中にもマーケットは開かれる。

そこでエレンの鞄を見つけてやれればいいのだろう。

「エレン、鞄欲しいか?」

声をかければ、エレンは不思議そうな顔で小首を傾け、いえ、と短く答えた。

こんな返事のエレンに何を買えばいいわけ?そう零しかけて、店先を見て回った。

軽いものから済まそうと、野菜から適当に買っていき、洋服店の前でエレンを止める。

「メルテスさんが、エレンに鞄をだってさ」

店に入れば流石にエレンもついてきて、鞄を見ることになった。

店員のおすすめは猫の耳が鞄から生えているようなものだ。

まぁ、仕方ないだろう。エレンの姿は10歳で止まっているのだから。

「えっと、もっと手荷物にならないような……コンパクトなものがいいです。ベルトにつけられるものとかはありませんか?」

エレンの言葉を聞くとすぐに店員が新しいものを持ってくる。

「ございますよ!薄い青の少し大きめのポーチで、ベルト固定できるタイプです。嵩張らないし、それでいてすぐ必要なものが入れられるものです」

値段は大した額でもない。これくらいなら俺の収入でも買える。

「これでいいんじゃないか」

その一声で、エレンは結局それに決めた。

ポーチの中にはあの手紙も入る。緊急用に回復薬を持たせる事もできる。

正直手紙をどこに持っておくのかと不思議だったので、そこに気付いたメルテスはよく見ているのだとわかる。

エレンはポーチを手に取り、いろんな角度からそれを見て。

「これでお願いします」

そのままタグを切ってもらい、ベルトに通した。

会計は流石に支払える額だったので俺の財布からされた。

エルカの財産が人の一生を遥かに超えるものだとはわかりつつも、これから産まれる子供の生活にも関わってくるのなら、それは多いに越したことはない。

メルテスから受け取った財布と自身の財布の重みに差がありすぎる事など、今更だ。

エレンがポーチを撫でながら礼を言ってきて、他人のためにする浪費なんて馬鹿げていると思っていた心が洗われるような気持ちになった。

最後に小麦粉を買って戻る。

長閑な町並みに、子供を連れて歩いていると、なんだか不思議な感覚で小麦粉の入った袋を抱え直した。

子供、といってもその中身は大人の女性なのだが。

「ジークの名前が、ありましたよ」

「名前?」

それが手紙の内容だと知るのは彼女に聞いてやっとのことだ。

「手紙に、ジークと一緒に旅するようにと」

星読みはその昔、未来視や神託と呼ばれていた事もある。

人の一生を授かり、運命の分岐点に手を差し伸べるためのものだったとか。

その力で全てが分かるとさえ言われていたものだったからこそ、エルカ・ティリズは重宝されたが、彼が本当に星読みを習得していたのか、それとも国を左右する事象に国に助言したのは彼の器が成したものだったのか。それの答えも、今わかった気がした。

「一緒に、ね。でも俺の仕事はエレンを証人の元に連れて行くことだ。確かあとふたりは騎士団の……」

そこまで言って、ふと彼女を見る。

「……なんで追われてるわけ?」

逃げ出さなければならない王城に、彼女を証明してくれるだろう仲間がいるはずだ。

それなのに、エレンは幽閉されていた。

その仲間ふたりが今の姿のエレンを否定した、としたらわかるけれど、彼女の話からしてそれはなさそうだ。

「いなかったんです。バルドも、ミルハウストも」

バルド・アイヴィ、ミルハウスト・カサランテス。

ロストと旅を共にした英雄。騎士団の手練れのバルド・アイヴィと、当時最年少で王国騎士団に身を置きその剣の腕を認められたミルハウスト・カサランテス。

ミルハウストは今騎士団長にまでなっており、エルカの写真に写っていた顔のわかる人物が彼だった。

「タイミングが悪かったな」

「いえ、これは私に食事を持ってきた方から聞いたのですが、彼らは隣国との国境に派遣されたそうです。それが第一王子の指示だったとか」

隣国とは仲がいいわけではなかった。

10年前の戦い以前は、いつ戦争が起ころうともおかしくはない状況が長く続いていた。

しかし、ロストの存在がある以上隣国はヴィスラに手出しは出来ず、それからは和平を結ぶための会合が何度も開かれていた。

その隣国、バントラ国との国境に騎士団、それも騎士団長を派遣したと知られれば積み上げてきたものが崩れていってもおかしくはない。

そう、だからおかしいのだ。

「私が魔竜の目覚めの兆しを察知したのと、ほぼ同じ頃と言えるでしょう」

エレンは空を見上げ、太陽を仰いだ。

「彼は操られています。それをもっと早くに貴方に伝えるべきでしたね。すみません」

何故それを言わないのか。そうだとしたらここに来ても意味がなかったのではないかと言いたいのをぐっと堪えて、そのまま話を聞いた。

「政権に関わる問題です。その事だけでも内々で済ませられればと思い、お話ししませんでした。ですが、エルカが貴方と旅をする事を私の道標に残してくれた」

同じように空を、太陽を仰ぐ。

青い鳥が視界を横断して、海へ飛んで行った。

「私が旅の対価として払えるものはありません。無事を保証することも出来ません。何かあるとすればその名が世界を駆ける、それだけです」

名が知れ渡るとしたら、それは傭兵にとってその後に繋がるものだ。

その日だけの暮らしではない。もしかしたら国から報奨金を与えられるかもしれない。

けれど、そんなものはもう関係がなかった。

資産があるかと言われればないし、名が知れてるかといえばそこそこ程度で。

少なくとも今の状況ではお尋ね者。それの解消はある。

だとしても、俺が欲しいものは。

「いいよ、なにもいらない」

いつだって、

「どうせ誰かに引き継ぐまでの短いお仕事だ。それに助けておいてあとはポイとか出来ないだろ」

愛情だったから。

「ありがとうございます、ジーク」

そんな風に話をしていて、メルテスの元に戻った。

扉を叩けばすぐに扉が開き、荷物をキッチンに置いた。

財布の減りが少ない事を気にしていたが、それには笑って対応した。彼女も同じように笑って、2階に案内してくれる。

俺には客間のソファベッドになってしまうがと言ってもそこを案内してもらい、エレンにはエルカの部屋を案内していた。

エレンは俺と一緒でも大丈夫だと言ったが、もう大人なんですからとメルテスに窘められた。

正直未だに彼女を大人だとは思えないが、子供とも言えず、メルテスの目に映るエレンを想像で埋めていた。

きっと、10年の間に旅のたくさんのことを聞いたのだろう。

そして、ふたりにとってはエレンが子供のようにも思えていたのだろう。

長い間子供ができなかったのも、なにか理由があったのかもしれない。

家族というものに縁のなかった俺には、それ以上はわからなかったけれど、エレンはどうだったのだろうか。

荷物を置いて、ソファに深く腰掛けて、一息だけ吐くとすぐに立ち上がってリビングに降りた。

――その頃、私は、エルカの部屋に残された膨大な量のノートを読んでいた。

それは日記であり、星読みの結果でもあり、彼の生きた証と、忠誠の意志だった。

マメだったエルカは王城で暮らしていた頃から日記を残しており、しっかりとした筆跡は最後の方は弱々しくたまに震えていた。

死を感じて最後に読んだ星が私の未来だということが、自分でも言えてしまうほど、何ものにも変えがたい忠誠の証と愛情の結果だった。

濡らさないように、抱えよう。

まだページの残るその日記帳をしっかりと強く抱きしめて、この瞳から抑えきれない涙が頬を伝って流れ落ちたのを誰にも知られないように。

独りで抱えて、そして――

リビングでは、メルテスがパンをこねていた。

俺が無意識に音を立てて階段を降りてきたのに気づくと、彼女は手を止めて飲み物を用意してくれた。

「ノンカフェインの紅茶しかなくてごめんなさいね」

「あぁ、すみません。お構いなく」

テーブルに置かれた紅茶を一口飲んで、パンをこね直すメルテスに寄った。

「何かすることあれば」

彼女は言葉に悩みながら、ボウルに生地を入れて蓋をした。

時計を確認すると、そのまま飲みかけのジュースを持ってテーブルに着いて、彼女は俺にしか出来ないことだと言って、簡単なことを頼んだ。

「エレン様がどうしていたのか、あの人の代わりに聴かせてちょうだい」

まだ数日の間柄だけど、出逢った経緯と今日までのことを話した。

なにか面白いことがあったわけではない。

だからと言って彼女がこれから旅する先を決めているでもない。

ただ一緒に、そう記された手紙の通り、王城から脱出した彼女と共に宛てを探して旅をする。

俺の出来ることは彼女を守ってくれる仲間を増やしていくことだと言ったら、メルテスは少し不安げに訪ねてくる。

「仲間の宛てはあるの?」

そう言ってグラスを揺らした彼女は、少しではなくだいぶ不安そうだった。

もしエルカが生きていたら、彼女は彼の旅を応援しただろう。

孕った自分よりもきっと彼女は、エレンを守ってほしいと、言いそうだった。

「まぁ、ほとんどないかな。他の傭兵に声かけるくらいで」

「あら、傭兵も英雄になれるわ。だってエレン様の旅には、ベルン・ハイネルという傭兵が前線を駆けたんだもの」

一傭兵だったが、当時度々起こるバントラ国との紛争に兵を割けなかったヴィスラ王国が雇った傭兵のひとりだった。

彼はその時の腕を買われ、ロストの旅について行くことになったが、その旅の末、手に入れた名声を使うことなくエルカ同様に隠居生活を迎えていた。

「英雄、かぁ……俺が10年前傭兵してた時ですら、そんな夢は見なかったかな」

まだ少年だった頃の俺は、行き交う街で話されるロストに興味がなかった。

世界を巡る戦い。それに駆り出された自分より年下の少女の冒険譚よりも、その周りで起こってる魔物の被害を恐れて雇われるという仕事の方が、身近であって自分の全てだった。

その時に負った傷は服の下に隠して、なにもなかったように10年以上の間生きてきて、今更英雄になれと言われても実感はなかった。

エレンが本物のロストだとわかった今でも、彼女の正体を信じることが出来ずにいる自分がいる。

「あら、小さい頃から戦ってたのね。だったら尚更、エレン様のお側で戦って差し上げて欲しいわ。エレン様は今頼れるのは貴方だけなのだもの」

空になったグラスを取って、再び紅茶が注がれる。

そこにミルクが混ぜられて、もうひとつそれが作られる。

階段が軋む音がして、エレンが降りてきた。

ローブを脱いで、ベルトも外し落ち着いた格好をして彼女は俺の隣に座った。

「はい、エレン様もどうぞ」

シロップが入った小さなポットも一緒に置かれて、エレンは礼を言うとたっぷりとシロップを注いだ。

「ちょ、お前なにそんなに入れてるんだよ」

思いもよらない量のシロップを突然入れだして、流石に甘さで飲めたものじゃなくなる前に止めに入ったが、溢れることはなかったけれど甘さは保証されるだろう。

エレンは目をパチクリさせてポットを置いたけれど、マドラーでくるくると混ぜると何事もないようにそれを飲んだ。

「……それで、エレン。明日どこを目指して進むわけ?流石に目的がないまま旅してたら国境越えるだけでなにもないぞ」

アンティスから北に進んでいくと、軍事都市アベールがある。

国として在りはせず、金さえ払えばなんでもする烏合の衆。傭兵よりも仕事を選ばない分厄介な輩の頂に立つ男が建てた都市だ。

ヴィスラ王国の最果てに位置するものの、国でさえ手を出せないでいる。

北国のガンドーラ国からの侵攻をひとつの街で食い止めていると言ってもいい、その傭兵団の集まりはギルドで仕事を請ける傭兵とは違い、アベールに直接訪れた依頼人の依頼を確実にこなすと言われている。

過去に国が手出しをできない貴族の暗殺を請け負ったという噂が立った程だ。

ここから行くなら馬車で1週間掛けて、そこから雪原を越えて辿り着いた場所がアベールだ。

「アベールにはいずれ行かねばなりませんが、それよりも手前にある……北西ですね。港町ですが、そこにベルンという傭兵……だった方がいます」

話を聞きながら、アベールに行くことがあるのか、北西といえばラントン港かと脳内で地図を広げていく。

「ラントン港は最近港が封鎖されてるはずだ。ということは騎士団がいる。勧められないな」

ラントン港につい最近他国の船が現れたという調査のために騎士団がそこにいるのなら、町に入るのも入り口で管理されるかもしれない。

「もし不安なら、予め手紙を出しておくのはどう?もし出入りを管理されてるなら街の入り口まで迎えに来てくれると思うわ」

メルテスは戸棚から平たい缶を持ち出し、いくつかの便箋を出して広げる。

シンプルなデザインの中に、大事そうに奥にしまわれていたのがエレンに宛てたあの便箋だった。

「それで行けるでしょうか。ジークはどう思いますか、やはり難しいでしょうか」

「どこまでその考えが通るかだな……まぁ、エレンが星読みの結果を道標だというなら、行ってもいいかもしれないな」

ジークの了承を得て、エレンは自分に宛てられた便箋と同じものを1枚もらうことにした。

薄らと凹凸があり、星を表している。エルカが手紙を出す時は特別に作ってもらって使用していたものらしい。

「これ、いいでしょうか」

「はい、それはもう使い手が居ませんから」

メルテスは少し寂しそうに笑って、手紙を書くのを見守った。

バルドに宛てた内容は簡素で、ただ「会ってくれますか エレン」だけだ。

書き終えると封筒に閉じようとして、慌てて止める。

「いやいやそれだけで伝わんないだろ」

「ほかに書くこともないので」

これ以上書くことがないというエレンもエレンだが、彼女は封筒に押すシーリングスタンプをエルカのものを借りた。

中にはエルカが特別に用意してもらっていた便箋。そこにエレンの文字。

内容がどんな物でも、それだけ見ればわかってくれるのだと、エレンは言った。

「もう少しボキャブラリーを備えろ」

彼らならわかってくれる。その言葉に甘えているようで、呆れたようにため息を吐いてしまった。

別に甘えることが悪いわけじゃない。ただ、昔を思い出すから嫌になっただけだった。

でも言ってから気まずそうに口を押さえて、誤魔化すのにミルクティを飲んだ。

子供に向かって、いや、子供ではないけれど、ずっとひとりであの牢獄で耐えてきた女の子に言うことではなかった。

「ジーク、私は……」

エレンが謝ろうとしているのは、言葉足らずなことをだ。

きっと俺の溢したこととは違っていた。

「これからは、お伝えするべきこと。ちゃんとお伝えしますね」

それが何かはわからないのだろう彼女には、きっと難しいことだ。

「わかったよ、だから気にしてない」

気不味いだけじゃなかった。同じ誰かを想ってここにいるエレンとメルテスの邪魔をしたくなかったし、俺自身が関係ないことで胸を痛めていたに過ぎない。

グラスを飲み切って、2階に上がっていく。

メルテスがどうしたのかと問えば、仮眠をといって借りた部屋に篭った。

「エレン様、ジークくんのこと信頼してるんですね」

まだ飲み切れないでいるミルクティをゆっくり飲んでいた。

「この事態に陥って、私を助けてくれたのはジークです。彼がどういう方なのか、わかりませんが……きっと、ジークが居てくれれば大丈夫だと思っている自分がいます」

これが信頼から来るものか、不安から来るものか。

彼の強さはまだ知らない。だからなのかもしれない。

10年前の旅に出る前に亡くした私の唯一の家族。

ずっとひとりで、帰ってこないお母さんを待った。

ひとりでいる時の不安、ひとりではロストとしての使命を果たせない後ろめたさ。

此度の魔竜の目覚めを察知しての王城へ行くまでのひとりだった時間も、幽閉されている間も怖くはなかった。

ただ、うまくやれなかったという結果が、今なのだと不安になる。

10年前、魔竜は確かに封印した、けれどそれは……ロストという存在を残すための封印方法だった。

私は、彼らと約束をした。10年の月日を待とう、と。

私が子供を孕むまでの10年だけ、子孫を残すまで死なないように。

ただ時間だけが過ぎていっただけだったけれど、あの時した決断を否定することのないように。

彼らが私に望んだ、生きてほしいという希望を少しでも叶えるために。

でも、私は。

「ジークくんなら力になってくれると思いますよ。彼の中でまだ整理できてないだけで」

「……そうですね、ジークなら、受け止めてくれますよね。私の決意を」

メルテスはなにも返さなかった。返せないでいた。

私の願い。きっとそれをジークが知ることはない。

彼らと決めた10年前の答えがダメだったのなら、今度は、きっとこの旅の答えをひとりで決めて、ひとりで果たしてしまうから。

メルテスはテーブル越しに手を伸ばし、優しく手を包んだ。

「いつだって、あの人が言っていたことを思い出してあげてください。お体のことも、きっと封印のせいなのでしょうが……」

寂しそうな顔で包まれる手が言いたいのは、死んで欲しくない、それだけだった。

包まれた手と、もう片手で彼女の手を包んで。

エルカの願いは、私が生き続けることだった。

手紙に残された言葉も、それを願い続けてくれていた。

「わかっています。でも、みんながいる世界だから、愛した世界だから、守るんです」

嘘だ。私は嘘をついた。

心が死んでいく、冷たくなって、凍って、誰も触れられない。

私の手の温度を確かめるように、メルテスはしっかりと手を握っていた。

きっとこの温度を知る人は、数えられる程度にしかいないのだと理解しなが彼女はエルカの知っているこの温度を、私の嘘を、優しさだと思いながら、陽が傾くまでの間、ふたりで言葉少なに温もりを感じ合っていた。

荷物の中から手紙を出していた俺は、少し破れた紙にペンを走らせていた。

ククリと宛名の書いたそれに、『ギルドで』とだけ書き足し、小さな窓を開けて空を仰いだ。

書いてることはエレンと大差ないかも知らないと気づいて、思わず自分の行動を鼻で笑ってしまう。

窓の外に顔を出して、それを見るや否や1羽の鳥が窓辺に降り立った。

指を差し出すと頭を擦り寄らせてチチチと鳴き声を上げる。

その小さな足に紙切れを結んでまた撫でると鳥は遠くへ飛び立った。

ギルドが調教した鳥達は、特定の匂いに寄ってくる。

いつも荷物に紛れさせている匂い袋から発する匂いに反応しているようで、人がその匂いを嗅ぎ分けるのは難しい。

飛んで行くのを見送ると、窓を閉めてソファに身を委ねた。

昼間荷馬車の中で固い床で寝ていた数日。ソファの柔らかさに疲れがどっと出て目を開けて睡魔を払っても、何度も悪魔は瞼を落としていた。

気づいた時には、朝を迎えていたのには驚いた。

ソファの側にあった小さな物置台にはパンが置かれていた。

夕食時に起きなかったのを見てメルテスが夜食にでもと置いてくれたのだろう。

空は青々としており、朝食の時間も近いだろうと思いながらも、パンを齧った。

少し乾燥していたけれど柔らかく甘みのあるそれを咥えて、荷物とジャケットを着るとリビングに降りたらメルテスがフライパンに卵を落とすところだった。

「あら、ジークくん昨夜はゆっくり寝れたみたいね。シャワー浴びてきて。その間にご飯できるから」

じゅぅ、と音を立てて火が通るのがわかる。

「はーい」

パンを全部食べ切るとシャワールームに入って頭からお湯を浴びる。

しっかりと顔を洗って、口の中を濯ぐと、石鹸を泡だてて全身を洗った。

髪を絞ってタオルに手を伸ばして、ぐしゃぐしゃと頭を拭いた。

洗面台についてる鏡でとりあえず手で髪を梳かしてそれなりに見られるようになった。

再びリビングに戻るとエレンが出来ることを言って、昨日のシチューを使ったグラタンの焼き具合を見ているだけをしていた。

「おはようございます、ジーク」

視線は一瞬こちらに向いて、またグラタンに戻る。

「ジークくん、好きなもの飲んで待ってて。今朝はグラタンとパンですよー」

ノンカフェインの紅茶を3っ用意してテーブルに置くと、パンは既に焼けていてほかほかの湯気を上げている。

起き抜けのパンを食べなかったら摘んでいたかもしれないが、さすがにこれ以上食べていたら他のものが食べられなくなるからと断念した。

氷を入れたグラスは水と氷とがカラカラといい音を出して喉を鳴らした。

食事ができるまで、荷物に入れている地図を開いてラントンまでの道のりを確かめる。やっぱり匂い袋の香りはわからない。

馬車に乗れれば2日で着くだろう。歩きなら陽が沈むギリギリまで歩いて5日か。

小さな町が点々とする地域なら早く着くより寝泊りできる方を選びたいけれど、生憎アンティスからラントンを目指すには大回りしないと小さな町もない。

それに比べて王都の周りにはサナスといい、小さな町が他の街からの中継地としてあるだけいいものだ。

昨日のミルクティが気に入ったのか、紅茶の量に比べて牛乳の量がやたらと多いミルクティを持ってエレンは隣の席についた。

広げる地図を見て、エレンは言う。

「ラントンまでの道ですが、廃鉱山があるのをご存知ですか?」

細い指がアンティスからラントンまでを直線上で結んでいくと、40年前に鉱石を取り尽くし今では魔物の棲家となったアズール鉱山が最短距離を邪魔していた。

「知ってるよ。昔あそこを山道として開拓しようって話があったけど、魔物の多さに手を挙げちゃって話が頓挫したんだ」

鉱山を迂回するルートをなぞる。これが多くの旅人が選ぶ最短距離だ。

「この鉱山を通れれば、歩きでも2日掛かりません」

地図から指を離し、続ける。

「騎士団は近隣の町の中をくまなく探しているようです。この町にも今日には追手が来るだろうと」

「まぁ、朝には逃げ出さなきゃいけないかもと思ってたからな。どこで聞いたんだ?」

地図を畳み荷物に詰める。

情報を集められないでいるは現状に歯痒さを感じつつ、それなりの街に行けばギルドが情報を流してくれるのを期待していくしかない。

「鳥が、言っていました」

ロストは万物の声を聴けるという言い伝えはあったが、それは本当だったらしい。

「ロストは動物の声が聴けますが、それも今では稀なこと。今回が特別だと思ってください」

魔を表す物は別として、ロストは神の子として生物に愛されるものだった。

ただ、時代によって生物の言葉は変わるもの。動物が人の言葉を知らないのも仕方がないことなのかもしれない。

「ロストってなんでもできんのな。戦う力さえあればひとりで魔竜退治もできたんだろうな」

けれど歴史に残っているロストがひとりで旅をしたというのは稀であり、志半ばで倒れることが多かったと言われている。

昔はロストもその時代に何人も在り、一族として使命を果たしていたとされるが、20を迎えるロストの腹の中に子が宿るとされ、代を継いでいるとエレンは話す。

そのことからも分かる通り、ロストの一族は常に女性だけであり、異性と交わることはないまま種の繁栄を叶えていたらしい。

神の子と呼ばれる所以はそんな嘘のような話からだった。

「今でこそ1人しかいないロストですが、昔は2人のロストが旅をしたという記録はあります。ですが途中でやはり仲間を募ったという話です」

「ふぅん……」

そう話しているとメルテスがグラタンをテーブルに置いた。湯気が立ち上って熱々だ。

ベーコンエッグをひとりひとりに用意されて、クルトンの乗ったサラダがみずみずしく葉をたてている。

きっとこれが家庭の味なのだろう。

いただきますと合掌して、3人で食事を楽しんだ。

その間最近のニュースや祝い事をメルテスが話聞かせてくれた。

エレンの住んでいた村はそう言った情報が流れてくることはなかったそうで、興味深気に話を聞いていた。

一方俺はグラタンで口を火傷してグラスの中の飲み物で口を冷やしていた。

たくさんのことを話し、聞き、メルテスは楽しそうに笑っていた。

まるで子供のように接してくれた彼女に、家を出る時深く頭を下げた。

メルテスは多めに焼いたパンを袋に詰めて、シンプルなデザインの手編みのバッグにそれを入れてエレンに渡した。

初めて旅に出る子供との別れを寂しがる母親とは、こんな風なのだろうと思いながら、エレンはメルテスに抱擁を返した。

「お世話になりました。どうかお元気で」

「お世話になりました」

ふたりで手を振って、家を離れ、町を出た。

振り返ると、見えなくなるまで、メルテスは旅立ちを見送ってくれていた。



ポーチに入れた手紙と、手に持ったパンのバッグ。

乱雑に詰め込まれた冒険の友と、10年来の相棒。

それぞれを持って、陽の下を歩いている。

街道沿いを外れて、今では整備されることもなくなった道を歩くが、ただの草原と変わりはなかった。

ただ時折魔物に出会って剣を振るうだけのこと。

「おっとぉ。やっぱりそこそこいるなぁ」

近くにある森から餌を探しに来たのか、鳥の魔物がいやに多い。

このままでは街道まで魔物が押し寄せてしまうのではないかという不安と、魔竜の目覚めが近く呼応して数が増えているのかという懸念があった。

今頃ギルドには魔物討伐の仕事が並んでいるのだろうと思うと、無償で戦っているのが勿体なく感じる。

「お疲れ様です、ジーク」

後ろで見ていたエレンがやってくる。

戦っていて気づいたけれど、まだエレンを狙う魔物には会わないあたり、魔竜の使いは現れていないととっていいだろう。

「大したことないよこのくらい。それより鉱山まだか?疲れてきた」

戦いで体力を消耗している中では、少し長めの距離に感じるけれどそれも些細なことだ。

狙われないとしても、前に居れば自ずと魔物の手に掛かるかもしれないと思うと、護衛対象は隠れる場所もなく後ろにいるだけだというのが余計に気を張らせているのかもしれない。

それでも騎士団に追いつかれるわけにはいかなくて、急ぎ足で進んでいく。

こう思うと、エレンを抱えて王城から走り抜けてきた自分を褒めても良いのかもしれない。

「エレン、疲れてないか?」

幼い身体のエレンを何度も気遣った。体力がないなら歩くのも負担だ。

エレンを置いて先に進むなんてことはなく、隣を歩き、時には手を引いてやった。

彼女にとってそれが有難迷惑かもしれないなんて考えたけれど、握った手を握り返してくるのだから、考えすぎなのだろう。

「私は大丈夫です。もう少しで旧鉱山です。行きましょう」

歩きながら、パンをふたりで咥えて。

先を急ぐ旅に、子供の頃を思い出した。

こんな風に急ぎ足で先に進みながら、パンを食べたこともあった。

行儀が悪いと怒る声と、それを宥める声。

結局木陰に座って食事をした時、みんなが笑顔だった。

もう1度、仲間が笑ってくれるなら。

もうその願いは、叶わなくなっているのに。

陽射しが眩しい。空を駆ける鳥達が影を作って落としていく。

そんな道を、今はふたりで歩いている。

アズール鉱山は封鎖の看板を立てて、その入り口にばってんを示すように板で大きく塞がれていた。

「塞がってるな」

「塞がってますね」

じっとエレンを見つめる。

「壊していいわけ?」

「中の魔物を退治できれば問題ないと思います」

本当はここにアンティスとラントンの子供たちが探検だと言って入って怪我しないためにあるものなのだろうが、今ではすっかり魔物の巣窟であるため、近寄る子供も流石にいないだろう。

「ひとりでもこん中の魔物全部は流石に無理なんですけど??」

どれだけ魔物がいるかはわからないが、暗に全部倒せと言われて無理だと頭を抱えた。

どちらにしろここを開けなければいけないわけで、板を剥がす。

同じようにエレンも板を剥がそうとするが力不足で見ているだけになった。

最後の方は疲れた結果蹴破って人が通れる道を確保すると、彼女の手を取って中に入る。

エレンの手は暖かい。子供体温といったところだろうか。

「ジークは、優しいですね」

繋いだ手は絡んだまま、それには考えるような顔をして。

んーと唸り、頭を掻く。そんなつもりはなかったから。

「俺、自分のしたいことしかしないから、そういうんではないんだよ」

謙遜ではなく、優しい自分を想像できなかった。

アズール鉱山。

まだ40年前には男達が汗を流してジルーラという鉱物を求めていた。

それも今では昔のこと。鉱山は魔物の棲家となっていた。

旅人が鉱山の入り口の封印を解かなかったとしても、いつ出てくるかもわからない上数も多いとなると、ここも時間の問題だっただろう。

暗い暗い鉱山で見えるのは、手元を照らす小さなランプだけ。

2,3m先まで見える程度で、魔物が出るというのもあり、自分ではなくエレンを守らなければならない戦いが予想されているだけあり、足早に通過していく。

ガツン、ガツン、音がする。

急いで前に出てランプを持たせてエレンを後ろにやると、隠れる場所も逃げる場所もない中で真正面から斬ってかかることになる。

辺りにはこの鉱山で命を落とした人の亡骸が魔物になった、スケルトンが蔓延っていた。

前から、そしてどこに隠れていたのか後ろから。

「くそ、数が多いな」

剣を奮ってスケルトンを崩していっても、どこからともなく湧いてくる。

エレンの手を引いて走り抜ける。

けれど突然のことで、エレンの足元が追い付かなかった。

どさっと音がして離れた手を見れば、エレンが転んでしまった。

「エレン!」

ランプは割れて辺りは真っ暗だ。

急いで抱き起こすと足を挫いているようで、立つこともできない状態だった。

何をしているんだ俺は。

守るはずの人を傷つけたショックで頭が回らなかった。

「ジーク」

俺を呼ぶ声がするのに、それを認識するのに時間がかかった。

守らないと。

座り込むエレンの向こう側で、スケルトンが鉱山に捨てられたつるはしを振りかぶるのが見えた。

剣を握る手に力が入る。

これは八つ当たりだ。

エレンを傷つけた自分の責任を、スケルトンに押し付けた。

突きつけた一撃は頭を吹き飛ばして崩れていく。

振り抜いた剣が薙ぎ倒していく。

逃げようとしたのは、エレンを守るためじゃない。自分を守るためだった。

情けない、恥ずかしい。しかも失敗した。

だから今度は、エレンを守るためにちゃんと戦おう。

誰かの亡骸だなんて遠慮を忘れて蹴り飛ばせばそれまでだ。

まだ動くスケルトンが足を掴んできた。

振り下ろされたつるはしが肩を突いた。

痛みに歯を食いしばって、また剣を振り下ろした。

「ジーク、大丈夫ですか」

全部倒し切るのに、どれくらい時間がかかったか。

返事するのも忘れて肩が息をしていたら、傷口に手が触れた。

「い、って……」

痛みはしたけれど、それが終わったことを教えてくれて足が崩れていった。

エレンも俺の肩を支えに立っていたらしく、一緒に崩れてきたのを受け止めてやる。

「エレン、足……」

後ろから抱きしめるようにしてワンピースを捲る。

暗くて見えないから、膝のあたりからゆっくり撫でながら足先に手を滑らせる。

足先に近づいて肩が震えた。痛みを我慢したんだとわかって、そこを優しく覆った。

「ごめん」

怪我した左足に力が入らないようすで、右足に力を入れて振り返ったエレンがもう一度肩を触った。

もし食らったのが右肩だったら、戦いきれなかったかもしれないと思うと、ツイていたのかもしれない。

「ジーク、手当てをしないと」

自分の怪我はそっちのけで、いつ仕入れたのかポーチから包帯を取り出す。

上着を脱いでシャツの襟を引っ張って肩が出るようにした。

消毒液まで取り出してばしゃばしゃとかけられると、傷口が沁みて痛んだ。

シャツは盛大に濡れたし、肌を伝って下まで濡れたのは手当てをしてもらっているのだし許そう。

下手くそな巻き方でぐるぐると傷口を抑えて。

「ありがとう。エレンの足元が包帯巻こうか」

「いえ、ひとつしか持っていないので」

そう言って、抱き締められる。

さっきまで足を触っていたくせにと自分で思いつつも、子供だと思ってしまいながらも、こうされると弱くて。

顔が熱くなっていくのがわかる。

エレンにそんなつもりはないとわかりながら、息を整えて抱き締め返した。

「どうした」

心臓がばくばくと音を鳴らしてる。

これを聞かれているのだと思うと情けなくなってくる。

「ありがとうございます、ジーク」

肩越しに聴こえる声は安堵の息を吐いた。

頭を撫でてやるともたれるように体重がかかる。

「私が怪我をしたせいで、負担をかけてしまってすみません」

「エレンのせいじゃないよ。俺こそ無理に引っ張って怪我させてごめん」

柔らかい髪に頭を埋めて、今度こそ安心して抱き締めた。

流石に肩を怪我して抱き上げることはできなかったので背負う形で鉱山を歩いた。

出口にも同じように板が貼られていたので、エレンを一度降ろして蹴破る。

もう夜だ。無事に鉱山を出て、土臭い場所とおさらばした。

「空気がうまい」

野宿できる場所を探して、もう少し鉱山を離れる。

アンティスとラントンどちら側も鉱山の出入り口を開けたが、もう鉱山に魔物はいない。あるのはばらばらになった骨の山だけだ。

エレンが鉱山を振り向いたのがわかったけれど、どんな思いでそうしたかはわからなかった。

5分ほどのところに小屋があり、昔鉱山に来ていた炭鉱夫が休息に使ったものだろう。

古いが崩れそうでもなく、中を開けてみれば埃をかぶったベッドが狭い空間に並んでいて、部屋の真ん中には火が焚けるように灰が盛られていた。

今晩はここで一夜過ごすことになった。

エレンを小屋の端っこに座らせて、掃除を始める。

そうは言っても窓を開け、置かれていたシーツなどを叩いて埃を外に出す程度しかしないのだが。

それなりに掃除が終わったら、火を焚いてまだ残っているパンをふたりで食べた。

積み上げられた薪を数本もらい、組み上げる。そこに持ち歩いていた小瓶から少量の油を垂らして、マッチを元に火をつけた。

「ジークはなんでも持っていますね」

腰に下げる程度の荷袋には最低限の旅に必要なものが詰め込まれている。

この油も、野宿の時に火を焚くためのものだ。

キャンプキットなどの大きな荷物は邪魔になるからと持ち歩かない主義だから、困ることもあるけれどこれでやっていけている。

「ジーク、話しておくべきことがあります」

火を囲って、夜の冷え込みに耐えるべくシーツに包まりあって。

「魔竜を封印するためには、精霊の力が必要になります。なので、各地にある精霊の祭壇に行きたいと思います」

「どうしてそれを先に言わない?」

怒っているわけではなく、後出しにされたことに首を下げ、地図を広げた。

エレンに、地図を見せる。

「すみません、先にジークの身の保証をした方がいいかと考えてしまっていました。現状では私もジークも国賊です」

アズール鉱山の少し出たところとラントンを結ぶ。

明日朝にここを出て、ラントンには日が昇っているうちに辿り着くだろう。

けれどエレンはラントンからぐっと位置をずらし、城を指した。

「最終的に、城に戻らねばなりません。これは王城にいる一握りの人にしか知らされていないことですが、光を司る精霊は城にいます」

考える素振りをして数秒、弾いた指でエレンの額を突いた。

大きく溜息を吐いて頭を掻き毟ると、エレンが小首を傾げたのを見て、また大きな溜息が出てきた。

「なんで先に言わないのかねなんでだろうな?」

人差し指が額をぐりぐりと責めているのも気に留めない様子で、エレンはその手を捕まえて話す。

「最終的な話です。今王城に行っても処刑されてしまうだけです。そうすれば全ては水の泡」

木の棒に手を伸ばし、焚き火にそれを配る。

燃えて崩れた上から重ねて、また崩れていくのを繰り返す。

「今からお話しするのは、私が頭の中で抱いている旅の予想図です」

港町ラントンを目指す理由は英雄ベルン・ハイネルの助力、もといエレンがロストである証明の手助けをしてもらうことと、情報収集の目的がある。

ベルンが証明したところで、現状国を動かしている第一王子は操られていて意味がない。

下手をすればエレンの身の保証がされないことに民衆が暴動を起こす恐れまであるため、これに関しては物のついで程度に考えているらしい。

メインが情報収集であり、ベルンにそれを依頼するのは彼が10年前の戦いを知り、何が必要か、魔竜の目覚めが近づく中、封印の為にはロストが魔竜の下へ赴く必要がある。そのために目覚めの場所を探すのも、人脈の広い彼に頼むのいいと判断したものだという。

その後に進むのは世界各地を巡ることになる。

火を司る精霊との契約をするために、ラントン港から出る船に乗り、シュエレスという火山の麓街に向かい、そこで第一の契約をすると話す。

そこまで聞いて、ひとつの疑問が浮かぶ。

「え、なんで契約?」

話を聞きながら水を飲んでいたのをやめて。

10年前に契約しているのに、何故また精霊との契約が必要なのか。

「10年前に契約した精霊は、魔竜の封印と共にマナに還元されました。人間でいう、死を迎えた、と言っていいと思います」

世界を形成するマナで出来たものは、死と共に世界に還る。

精霊はマナを体現したものと言っていい存在であるため、役目を全うした後に世界に還る。というのが当たり前らしい。

「精霊は世界を守るために存在し、全ての種族の均衡を保つ役割を担っています。その力を借り、魔竜を封印することができますが、精霊の力を以ってしても封印することしかできません」

火を司る精霊との契約までに登る火山には多くの魔物が生息している。

魔物はマナを喰らうため、精霊の棲まう近くに寄る傾向があり、人里と精霊の棲家が近いのは稀らしい。

確かに大きなマナが溢れる地域に町はない。あってもだいぶ距離がある。

けれど魔物は精霊から直接マナを奪うことは出来ず、また精霊の力で消滅させられることを恐れ、魔物から精霊に関わりにいくことはないという。

「大精霊との契約は絶対条件です。ジークには負担をかけてしまいますが……」

俯いた顔に手を添えて、柔らかい頬を軽く摘む。

「いいよそれは。俺ができるのはエレンのサポートまでだからな」

配られた木を崩して火を消して、立ち上がって、小屋の中を移動するだけだからと肩に無理を言ってエレンを抱き上げた。

ひとつしかないベッドに降ろして毛布をかけてやる。

その隣にたくさんあった毛布を引いて、被って、これからの話をした。

その次は北の大地にある泉に向かうことになる。

軍事都市アベールのその先、ヴィスラ王国と他国の国境に位置する泉には水を司る精霊が棲んでおり、癒しの力を持つ精霊は世界のマナを形にし精霊を生み出す術を持つとされている。

アベール付近では魔物が多く生息しており、泉へ向かう途中にある街はアベールのみで、どうしてもアベールを経由した旅にならざるを得ない。

「国中に精霊がいるんだな。ヴィスラ中を旅したし、他国にも渡ったことがあるけど、ひとりの依頼で回ったことはなかったよ」

「はい、大陸の殆どを有する国ですからヴィスラに在する精霊が多いです」

シーツの擦れる音と、ベッドが軋む音。

古くなったスプリングが悲鳴を上げて、エレンが手を伸ばした。

「ジークはベッドで眠らないのですか」

20歳を迎えている自覚はないのだろうか。

隣に毛布を重ねた時点でベッドには上がらないのはわかっていそうなものだと思いながら、誘われたのだからとベッドを軋ませた。

「それじゃあ遠慮なく」

狭いベッドで肩を寄せ合った。

エレンから枕を奪って腕を差し出すと、遠慮がちに頭を乗せて見上げてくる。

整った顔立ちが近くて、思わずため息が出る。

もし彼女が本来の年齢に沿った成長をしていたら、美人だっただろうし、それは美味しい展開だったかもしれない。

そんなことを考えているなんてエレンには想像もできないだろう。

役得だと思って抱き締めてみると、嫌がる素振りは見せず身体を委ねてきた。

「少しはなんかないの?俺男なんだけど」

自分で言っていて惨めになってくる。

「暖かいです」

はぐらかしてるのか素なのか、腕の中に収まるエレンにため息を吐いた。

毛布を深く被って、エレンがすっぽりと隠れるようにすると、顔を上げてくる。

「この先はまた後日決めましょう。まずは明日、ラントンに無事に着けることを祈っています。おやすみなさい」

「おやすみ」

程なくして寝息が聴こえる。

俺は寝付けないでいて、少し動くとスプリングが悲鳴を上げた。

エレンを起こさないように、体勢を変えないように。

この小屋が安全かどうかもわからない中眠れないで、結局気づけば朝になっていた。

火でも起こして待っていようかと思ったけれど、せっかく寝ているのだから起こすのも可哀想で、エメラルドの瞳が開くのを待った。

陽射しが窓から差し込んできた頃に、エレンは目を覚ました。

「おはようございます」

起きたのを確認して身体を起こす。

エレンの身体も起こしてやると、身体を添わせてきた。

「おはよ、今朝もパンでいい?」

抱き上げてベッドから降ろし、メルテスからもらったパンの残りをエレンに渡した。

ちまちまと食べている間に彼女の足を診る。

腫れは相変わらずで、歩けそうにはないだろう。

手持ちに冷やす物もなく、ラントンまでの残りの道は背負って行くことになる。

最後のパンを有り難くいただいて、エレンを背負って小屋を出た。

少し風が吹く、日差しの暖かな、優しい朝だ。

まだ追手は来ない。もしかしたらもう探していないのかもしれないという期待と、運良く会わないでいられているだけだという現状。

そしてラントンに行くことを予想できる者が居ればそこでまた逃走劇が繰り広げられるのだろうと考えると、逃げるというのは疲れるものだと自覚する。

「ラントンでは追われないといいな」

街道沿いに合流する。

風が気持ちよく、この天候なら船は問題なく出してもらえるだろう。

息苦しくない沈黙と共に歩いていれば、ラントン港が見えてきた。

それと同時に、その奥に広がる大地の切れ目、水平線の向こう側。

海が青々と広がっていて、観光船が遠くに見えた。

港町は市場が大きい。商流の多い港町ならではの活気が溢れている。

来たのは4度目だったろうか。ギルドが出来てから栄えたとも言えるこの街を来たことがない傭兵は少ないだろう。

街に足を踏み込めば店、店、店。

どこを見ても広げられた風呂敷には商品が並べられ、旅人も物珍しげに品物を見るが、買うつもりもなかったはずが口の上手い店主に負けて買ってしまう、なんてことが至る所で繰り広げられていた。

果物を揃えた店に興味ありげに視線を向けたエレンには申し訳なかったけれど、船代も考えると仕事もしていない今何かを買ってやる余裕はなかった。

どこかで簡単な仕事をこなしてくるのもいいかもしれないとは思いつつ、そんな時間があるかという葛藤。

女の子を背負った旅人に視線を向けてくる人目を気にして、市場から逃げるように歩く。

街の入り口は旅人の最後の装備揃えに見てもらえるような品だ。

日持ちする食料、薬草、その他道具類。

商店が並ぶ道を抜け、中央に観光客が目印にでもしていそうな大きな噴水が涼しげに水を噴き出し、小さな虹を作っていた。

「ジークはこの街に来たことはありますか?」

不意にエレンが虹を見つめて問いかける。

「あるよ、4回目かな。船に乗るようなことはこの街でもどこでもあんまり受けなかったけど」

「私は10年前に行き来して以来ですが、こんな噴水は無かったと記憶してます」

栄えたのですね、そう言うエレンの表情は相変わらずだったものの、10年が過ぎたことをようやく理解したように、じっと噴水を見つめていた。

緩やかに栄えていったこの街に、昔は噴水なんてなかったし、市場もここまで栄えてはいなかった。

シュエレスとラントンの行き来以外にも船は出るが、昔は海の魔物が船を襲うためラントンはもっと古びた街で、今のようになったのはロストが旅の最中に海の魔物を倒したのがこの街の栄えた本当の理由だ。

ラントンの街はロストと英雄達に深く感謝をしていたと聞くけれど、当の本人はそれを知らないらしい。

この街にベルン・ハイネルが住んだことがさらに街の発展に繋がったのだろう。

今ではギルドもあり、旅人は行き交い、物が流れ、そしてまた栄えていく。

「良い街だろう。この10年でやっとここまでなったんだ」

掛けられた声がこちらを向いていた。

思わず振り返ると、エレンの身体が揺れた。

黒髪の襟足が肩より長く揺れて、グレーの瞳が鋭いのに優しさを含んでいた。

「ベルン」

ヴィスラ王国一の傭兵と謳われ、今ではもうその名を聞くこともなくなった英雄の名前。

エレンが降りたそうにしたのでゆっくりと背中から降ろすと、片足でベルンの前まだ跳ねる。

「エレン、元気にしていたか」

骨張った手がエレンの頭をくしゃりと撫でて、金の糸が跳ねた。

それを自分で整えて、彼女は頭を下げた。

「はい。王城に幽閉されてましたが、彼が、ジークが助けてくれました」

ロストを騙る少女の噂はベルンも聞いていたようで、抑える気もない手を口に寄せて笑った。

エレンが男に抵抗感がないのは、10年前に男に囲まれた旅をしていたからなのかもしれない。

そう思っていると、ベルンが手を伸ばした。

「ベルンだ。エレンから話は聞いてるかもしれないが元傭兵だ。よろしく頼む」

「ジークです。傭兵やってます」

手を握り返して、ベルンは傭兵と聞くとそうかと笑った。

もう一度エレンの頭をくしゃくしゃと撫でると、引き摺った足を見て、小脇に抱えるようにした。

なるほど、俺がエレンにしていた扱いはだいぶ甘いものだったらしい。

「エレンもだがジークも怪我してるみたいだし、うちに来い。手当てしてやる」

そのまま先を歩いていく彼について歩く。

「10年前とは変わっただろう」

道すがらベルンが言う。

嬉しそうに語る姿に、この街の発展を手伝った話も聞き、誇らしく感じているのだろう。

世界を救った英雄としての名よりも、彼らはただの人として、生きていくことを願った。

何故だろう。時折過ぎる謎を答えに導き出せないで、ベルンの話を聞いた。

「手紙は読みましたか?」

あの中身のない手紙を結局出していたエレンは、小脇に抱えられていることに文句はないらしい。。

「あぁ、相変わらずの手紙な。まさか10年経って何も変わってないとは思わなかったよ」

一軒の家の前で立ち止まり、鍵を開けて中へ通された。

「狭い家だが話するくらいは出来るだろう。上がってくれ」

最低限の家具と端に追いやられるように置かれた剣だけの部屋だった。

もう何年振われていないのか。

それでも目の届くところにあるのは、長年連れ添った相棒を手放すのが惜しかったのか。

「好きに座ってくれ」

降ろされたエレンは椅子に座って、包帯やらを持ってくるベルンを待った。

俺は上着を脱いで荷物から針と糸を出すと穴の空いた箇所を縫っていた。

それをエレンが物珍しげに見てくるので小首を傾げれば、鏡のように小首を傾げられた。

「お待たせ。なんだ器用なんだな」

戻ってきたベルンまで覗き込んできて、なんだか恥ずかしくなってしまった。

「まぁ、気に入ってるんで買い替えるのもなって。ちょっとした解れとかなら自分で直してるんで」

テーブルに包帯を持ってきて、ベルンはエレンの足を膝に乗せて丁寧に巻いていく。

手際の良さを見るに、傭兵時代には自分で自分の手当てをしていたのだろう。

その後には、俺の肩の包帯を見て大笑いしていた。

「エレン、お前本当に相変わらずだな」

包帯を解いて消毒に酒を持ち出してきて流石に遠慮したらしっかりと消毒液を持ってきて、ガーゼに染み込ませてそれを傷口に貼って新しい包帯を巻いていく。

「うまいんですね。ありがとうございます」

「あぁ、傭兵時代には医者にかかる時間も惜しくて、自分でやってたんだよ」

同じことを言って、その怪我のせいで全力で戦えず死んでいった仲間がいた。

同じ轍を踏むことのないように、いつも余裕を持った旅をしていた。

仕事で怪我なんてするのも久しぶりで、そのことを忘れていた。

「さ、なんか飲むか。ジークは酒飲むか?」

勧められた酒はワインだ。

グラスふたつとマグカップをひとつを出して。

まだコルクの抜かれていないそれは返事を待たずに引き抜かれた。

ロンググラスにトポトポと注がれるのを見て、今更飲まないなんて言えないまま受け入れた。

そうは言っても酒が飲めるのなら飲むのだが。

「どうも。いつもひとりで飲んでるの?」

ベルンのグラスにもワインが注がれていく。

「あぁ、普段は店に飲みに行くんだが、貰い物でね。ギルドがこの街に出来た時にもらったからもう何年物だろうな」

注ぎ終わったボトルを置くと、ベルンはエレンを見てなんとも言えない顔をして。

「コーヒーでいいか?」

「はい」

作り置きにされていたコーヒー入りのピッチャーを傾けてマグカップに注がれた。

それをじっと見ているエレンの反応からして、コーヒーは飲めないのだろうなと横から見ていて思う。

「じゃあ、乾杯」

グラスを持って、マグカップを持って。

少し高く上げられたそれを口に運んで潤した。

エレンは口を付ける程度だったが、ベルンはいい飲みっぷりだ。

グラスがテーブルを叩いて、先程までの酒飲みの雰囲気が一転した。

切れ長のその目を見て感じたのは、傭兵達ならわかる仕事の目だ。

「それで、エレン。その体は……いや、いい。言わなくてもだいたいわかる」

はぁ、ため息が吐かれる。重たいため息だ。

「お前があの村から出たって話でおおよその話はわかる。バルドとミルハウストはどうした」

グラスの中が揺れる。

先程と同じように傾けているはずなのに、喉を通るのが遅く見えた。

説明をエレンに任せ、ゆっくりとワインを味わった。

コーヒーの黒い水面に映る自分の姿を見つめながら、ふたりは国境に派遣され不在だったこと、そして。

「エルカは、亡くなりました」

知らないであろう訃報を告げた。

一瞬目を見開いたベルンも言葉はすぐには出て来ず、深く息を吸って吐いた。

「そうか」

沈黙と、それを否定しないように口にされたコーヒー。

その時間を邪魔しないように、黙ってワインを飲んだ。

エレンの視線がベルンへ、そしてその奥にあるベッドに向いた。

「旅の供はジークがしてくれます」

同じように視線を追うと、ティリズ家にもあった5人の写真が同じように色褪せて飾られていた。

10年の時を経ても仲間だと想い合うのに、何故彼らは会うこともなく、葬儀の報せもないまま、長い時を過ごしているのだろう。

俺にも仲間と呼べる人はいる。

孤児だった俺を拾い、剣を教えたのは今は久しい傭兵仲間だ。

根無し草の彼らとの連絡は難しいが、ギルドに言伝を残せば伝わるし、話を聞けばこの間こんな仕事を請けていたとギルドメンバーから教えてもらえる。

先日鳥の足に括って出した便りも、その仲間のひとりへ宛てたものだ。

「手間をかけますが、ベルンには各地での魔物の被害状況と魔竜の卵が現れた際に知らせて欲しいのです」

「被害状況を王都に知らせればいい、か。わかった」

空になったグラスに、残ったワインを注ぎ直して、一気に飲み干されたグラスはコトンと音を立ててテーブルに座った。

俺のグラスも空になったのを見て、バラバラのデザインのマグカップを置いてコーヒーを注がれる。

ひとつが注がれると、ふたつめが注がれるのを止めて不要の意を表した。

「シュエレスに行くんだろう。船は港のやつに話をつけておく。今日出れるようにしてきてやるよ」

ベルンは空いたグラスをキッチンに置くと、そのまま外へ出て行った。

待ってていいのだろう。ふたりで椅子に座ったまま、窓の外を見た。

まだ陽が高い。この時間から出ることができるなら、陽が沈みきる前にシュエレスに着く。

「ベルンと旅していた時、彼は良い酒を飲むのは悲しい時だ、と言っていました」

エレンを見れば、その視線はまだ写真を見つめていた。

その瞬間がどれだけ大切な時間だったのか、俺は知らない。

その瞬間を守り続けるために、4人の英雄が立てた誓いがどのようなものだったのか、エレンは話そうとはしない。。

「良い酒を飲むと嫌なことを忘れられる。そう言って、魔物の被害に遭った人を弔ったこともありました」

エメラルドの瞳がゆっくりと閉じて、次に開いた時はまた水面を見下ろしていた。

そこに映った自分自身を吹き消すように、ふっと息を吐いて揺らした。

それでも、そこにいるエレンはいなくはならない。

「私が10年経っても姿が変わらないことに、責任を感じたのでしょう。だから今私の傍に居てくれる貴方と、飲み交わしたかったのだと思います」

す、と飲みかけのコーヒーを俺の前に寄越して、それを受けて俺も同じように水面を見た。

オッドアイの色もわからない黒の中、10年前の自分は見えない。

当たり前だ。人は成長していく。

ただエレンの場合、背負ったものが大きくて、人と違った。

何故、エレンが旅に出る必要があったのか。

エレンの母親が旅の途中で倒れた。

その後に母親を悼むこともできないまま、母親と同じ道を進んで、そして。

エレンが生きている理由、それは。

「ジーク」

はっとして声に視線を上げた。

「私は言葉足らずな点があるので、わからないことや私の説明で足りない時は言ってください」

揺れる水面に映る自分が”自分”を主張しているように感じて、一気に飲み干した。

「もっと知る必要があるようになったら、お願いするよ」

マグカップをエレンの前に流して、それを彼女が受け取る。

俺の聞きたいこと、それは。

何故、今もエレンは生きているのだろう。



ベルンが戻ってきたのは30分も経たないくらいだ。

扉を開けてそのまま出るように促されると、30分後の出港が知らされた。

「なんでも乗り合いで他の客をシュエレスまで乗せるらしくてな。急にはなるがついてたな」

船の中で飲み食いする軽食を買うだけで、旅の先に必要なものはシュエレスで買うこともできるだろうとさっさと港を案内された。

まだ足の痛むエレンに肩を貸して歩く。

賑わいでいた市場に比べ、海辺は静かなものだ。

海鳥が鳴くそれも、波の立てる音も聞こえる。

船積みの荷物の積み込みがもう終わろうとしているのを見て、出港の時間も間も無くだ。

ベルンは気をつけていけと言って、最初のようにエレンの髪をくしゃくしゃにして満足そうに頷き、こちらに向いて。

「エレンを、頼む」

大事な大事なものを託すように、彼は言った。

怪我をさせた俺に託すのは、不安じゃないのか。

そんな疑問があって、それでもついて来れない理由がそこにはあって。

船に乗り込んだ俺達を見届けると、ベルンは出港を待たずに港を後にした。

エレンはその後ろ姿を眺めながら、傍に居る俺の視線を感じて、疑問を知っているかのように紡ぎ出す。

「何故、ベルンが旅に同行しないのか。不思議なのでしょう」

それは遠い日を見るように小さく揺れる波に視線を落とし、過去を見つめた。

悲しいのか、悔しいのか。

いや。それでは説明できないような感情に見えた。

「彼らはもう見たくないんです。私が世界を救うのを」

今、エレンの目に映るのは、蘇る10年前。

彼らが誓った言葉を今も覚えていると、呟いた。

だから何も言えなかった、言わなかったのだと、訴えかけるような目で視線が交じる。

「だからジークにお願いしたのです。この旅の供を」

答えになりきらないそれで納得したかと言えば答えはNOだ。

いつかこの旅の中で答えを知る時がくるだろう。

そんな聞き分けの良さを持て余して、直りきってないエレンの髪をそっと撫でた。

船は離れラントンが小さくなった頃に、一室を借りて食事を摂ることにした。

船を出してくれた年配の男性はふたりに仲の良い兄妹だと声をかけたがエレンは頷いて俺は微妙な顔をしていた。

ラントンに帰ってくる頃には騎士団も追い付いてきてしまう頃だろう。

それを考えると、行路よりも復路の方が心配だ。

それもあって、少しでも早くラントンに戻れるようにと気を遣って船を用意してくれたのだろう。

見かけなかった乗り合いの客をさて置いて、サンドイッチとコーヒーを口にした。

その向かいに座って食べているエレンはというと、フルーツサンドをちまちまと口にしながら満足げに何度も頷いては食べてを繰り返している。

「甘いもの好きなのな」

付けてもらったシロップを3っ入れたミルクティ。

フルーツの甘さが負ける気がするけれど、それでもエレンは満足している。

「故郷では、贅沢品でしたから」

エレンの育ったのは辺境の山林に囲まれた村だという。

馬車が通るのは難しい道で、村民が耕した畑から採れるものだけを食べて食い繋いでいるようなものだ。

旅人が現れたのはいつもロストの亡骸を葬いにやってくる仲間達くらいで、10年前にエレンが出会った4人の英雄も、エレンの母親を葬いに無理矢理馬車を走らせやってきた。

そして最後に、エレンの意思を汲んで旅の終わりに彼らが村へ訪れた。

それきり、村に訪れる者はいない。

そもそもそんな村があるのかすら疑われるそこは、新しい地図には乗らない秘境。

ロストの一族とそれを奉仕する数少ない人々で造られた箱庭。

彼女は、決して故郷を愛しているわけではないのだろう。

それでも仲間達と同じ外の世界に暮らすには、自分は幼かったと彼女はいう。

いや、そんなのは建前だ。

先代の亡骸を背に、自分だけ恵まれた暮らしをするのが怖かったんだ。

そして、彼女はわかっていた。

時が止まった身体では、誰も自分を受け入れないことを。

その結果が世界の危機を伝えに行って幽閉された自分なのだと。

「村では、生クリームなんてなかった」

ひとくち。

「でも外の世界を知ってしまった」

ふたくち。

「そして私は生きている」

最後のひとくちを、噛み締めた。

「この10年は、私が犯した罪を自覚するには、充分でした」

大袈裟な、そう言いたくて、言えない自分がいることに気付いて、サンドイッチを齧った。

そして私は生きている。それが罪だと、彼女は言った。

過去の戦いは激闘の末、多くのロスト達は死んで逝った。

でもそれを真似なんてしなくていい。生きられるならそれに越したことはない。

エレンが生きることを罪だというなら、それは。

齧った端からレタスが落ちた。

サンドイッチの包み紙でそれを拾って。

「生きているのが罪だと言うのなら、言うけどさ」

テーブルにはレタスが乗っているだけ。

肘をついて、窓の外を見た。

エレンは俺を見つめていた。

真っ直ぐに、答えが欲しいから。

「生きて罪を償えば、いいんじゃない」

ありきたりだけど、そう言ってエレンの頭をくしゃくしゃ撫でた。

何も言わないまま、それを直そうともしないで、エレンはただ、答えを知った。

――ありがとうもごめんなさいもない、私がこれから自分の罪を洗い流すためにする旅の果てにあるのは。

死なのだから――

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