第10話〈補習〉2時間目

その後もアオイにとって衝撃的な場面が続いた。ツカサが公衆電話から毎日時間ぴったりにカエデの家に電話をかけていたり、カエデの家の前に生ゴミを置いていったり、ナツメの字を真似して書いた手紙をカエデの机に入れたり、カエデについてあることないことを書いた紙を他の教師の机の中に入れたり……。その癖、カエデの前では彼女に寄り添うように優しく接して、カエデの信頼感を少しずつ勝ち取っていくツカサにアオイは恐怖を通り越して嫌悪感を覚えていた。

カエデはしょっちゅう生物室にくるようになっていた。訪れるたびに段々頬が痩せこけていき、目がうつろになっていった。回想当初に生物室に来て金魚を眺めていたときの彼女の面影は全くなくなっていた。アオイはそんな彼女をとても見ていられなかった。

「ナツメと絶交してきました」

あるとき、カエデがそう言って疲れたように笑った。アオイは悲しそうな顔をして、机に置かれた骨張った彼女の手の甲を見つめた。

「ナツメが私のことを嫌いになったなら、それはそれで良かったんです。例えどんなに仲が良くても、それが永遠に続くはずがないんですから。……でも、嘘はつかないで欲しかった。このキーホルダーをこんな風にしたことも、私のことをいじめていたことも、ちゃんと正直に言って欲しかった。……もし、私に何か非があったのなら、言ってくれればそれを改めたのに」

そう言ってぼろぼろになったキーホルダーをカエデが寂しそうに見つめる。今のアオイは知っている。本当は誰がそのキーホルダーをズタズタにしたのかを。

キーホルダーの原型も保っていないそれを机において、カエデが静かに泣き始めた。他に人がいるとも思えない静かな空間にカエデの嗚咽だけが響く。

そのうち、ツカサが何かを言ったようで、カエデがおもむろに顔をあげた。

「……ありがとうございます。確かに、私に非があったといえども、いじめをする方が悪いですもんね」

カエデがそう言って涙に濡れた瞳でツカサを見つめた。

「ツカサ先生は優しいですね。いじめを止めようとしてくれたり、私に親身になってくれたりして。表で私に優しくしながら裏でいじめていたナツメとは大違いです」

そう言うカエデを複雑な思いでアオイは見つめた。

ツカサはカエデが信頼できる人間を追い払い、自分自身が彼女の唯一の拠り所となることに成功した。彼女が自分以外の誰も信じられなくなり、彼女が自分から離れられなくなるように。

全ては、ツカサによって仕組まれた巧妙な罠。誰もそれに気づくことは出来ず、いや気づいたとしても既にカエデはこの罠から抜け出せなくなってしまっていた。

しかし、その罠に穴を開ける者が現れた。その者はツカサにとって唯一の誤算で、それ以降最も嫌いで最大の敵になる相手だった。

「今日、ヒジリ先生が声をかけてくださったんです」

ある日、珍しく嬉しそうな顔をしているカエデが、生物室に来て開口一番そう言った。

(保健室に行くようヒジリ先生が声をかけたときのことだわ)とアオイはヒジリの回想を思い出していた。

「皆私のことを避けているのに、ヒジリ先生だけは優しく声をかけてくれて、嬉しかった……。やっぱりモテるだけあって、素敵な人なんですね」

カエデは頬を染めて、ヒジリのことを話した。アオイは何故かもやもやする気分でそれを聞いていた。

ツカサが何か言ったようでカエデが言葉を切り、顔をあげた。

「……確かに、私とヒジリ先生ではどうやっても釣り合いません。ツカサ先生が言うように、優しくするだけ優しくしてまた裏切られるかもしれません」

そう言ってカエデが俯いた。彼女が何も言わず黙り込んでいるところでまた視界が白転して、目の前が明るくなった。

ツカサはまた生物室の椅子に座って金魚を眺めていた。そこにいつものようにカエデが入ってくる。振り返って見た彼女は、何かを決心したような顔をしていた。

「……私、今日ヒジリ先生に告白してきます」

その言葉にアオイは驚いた。ツカサも驚いたのか、カエデの方に体ごと向き直った。

「あなたは私を心配して色々と言ってくれましたけど……。でも、彼のことを信じてみたいんです。人を信じる最後のチャンスなんです」

そう言うカエデを引き留めようとツカサが手を伸ばした。しかし、カエデはその手を無視してそのまま外に出て行ってしまった。ツカサも特に追いかけるようなこともせず、しばらく手を虚空に伸ばしたままの姿勢で立っていた。

彼女が生物室からいなくなってどれくらいの時間が経っただろうか。前のように場面が切り替わることもなくアオイはツカサと一緒に胸騒ぎを感じながらグレーに移りゆく空の色を眺めていた。

日が沈むまで、ツカサは金魚を眺めていた。人気を感じなくなった寒々しい校舎にアオイは体を震わせた。

ふと、静かな廊下に靴音が響いた。どきりとしてアオイとツカサが振り返る。

薄暗がりの中カエデが立っていた。そして、ツカサを見て涙に濡れた顔で微笑んだ。

「……駄目でした」

そう言ってこちらに歩いてくるカエデを見てアオイは混乱した。

(カエデ先生は、ヒジリ先生に振られた後すぐに自殺したんじゃなかったの……?)

振られて走り去ったときに屋上まで行ったものだと思っていたため、カエデがツカサの元を再び訪れるのは予想外だったのだ。アオイが困惑している隣に、カエデが腰掛けた。

「それはそうですよね。うまくいくはずがないんですから。……ツカサ先生が言ったとおりでした。彼も、ナツメの仲間だったんですよ」

そう言ってカエデが疲れたように笑った。

「他の人に告白された時には優しく断るはずのヒジリ先生が、すごく冷たく断ったんですから。あはは、私ってずっと裏切られてばかり……」

そう言うカエデをアオイは悲痛な気持ちで眺めていた。

ヒジリが他の教師には優しく断るなんて、全部嘘っぱちだ。また、ツカサがカエデを孤独にするために嘘を吹き込んだのだろう。

(どうしてカエデ先生はツカサ先生の言うことだけはなんでも信じちゃうんだろう?)

ふとアオイはそう疑問に思った。ナツメやヒジリの言ったことは一切耳を貸そうとしなかったのに、彼女は盲目的にツカサの言うことだけは信じている。

疑問に思って、もはやカエデには信頼できる相手がツカサしかいなかったことを思い出した。元々友達がおらず、親友とも言えるナツメにも裏切られた彼女には、自分のことを心配し、なんでも肯定してくれるツカサしかもう信じられる人がいなかったのだ。

何かが違っていれば、今頃カエデは多くの友達に囲まれて幸せそうに笑っていたかもしれないのに。あのときナツメが誤解を解けていたら、カエデがヒジリの言葉に耳を傾けていたらなんて今更後悔をしても無駄なことは分かっている。カエデもカエデなりに必死に状況を好転させようと頑張っていたはずだ。しかし、もがけばもがくほどどんどん地獄へと落ちていく。そんな彼女のことがアオイは可哀想で仕方がなかった。

アオイはもやもやするような、やるせないような、様々な負の気持ちがおり混ざる中、顔を覆って泣くカエデに何かすることも出来ずただ見つめていた。

不意に、ツカサがゆっくりと手を伸ばし、カエデを抱きしめた。抱きしめられたカエデも、アオイも驚いた顔をした。

「ツカサ先生……?」

アオイの心の中にツカサの声が響いてきた。カエデのことが好きで好きでたまらない気持ち。誰も本当の自分を見てくれなかったのに、カエデだけが見つけてくれた。だから、図書室で会ったあのとき、ツカサは彼女のことが好きになったのだ。

そして最愛の彼女に振り向いてもらえるよう、彼女を孤立させ自分のことしか見えなくなってしまうように仕向けた。異常ではあるが、ツカサはそんな愛し方しか出来なかったのだ。

彼の気持ちが氾濫した川のように怒濤のごとく流れ込んできて、アオイは思わず目を瞑った。今まで恐怖や嫌悪しか感じなかったツカサのことが、今はカエデと同じくらい可哀想でならなかった。

ツカサはかなりゆがんでいるけれど、誰かを好きになる気持ちは他の人と変わりがなかった。彼なりにどうすれば振り向いてもらえるか、必死に頭を悩ませたことだろう。その結果幾多もの悪事に手を染めながらも、やっと彼女に思いを打ち明けるときがきた。これで、傷心のカエデもツカサを受け入れてくれれば、せめて少しはうまく収まったのかも知れない。

しかし、物語はハッピーエンドにはならなかった。否、ハッピーエンドになるはずがなかった。

ツカサに抱きしめられたカエデが怯えたような表情を見せた。そして、ツカサのことを突き飛ばしたのだ。

「嫌!」

そう言ってカエデが怯えたように後ずさった。彼女は体を縮こめ、ツカサのことを怯えた瞳で見つめていた。

「私、ツカサ先生のことは友達だと思っていて、そんな風には……」

カエデは決してツカサのことが嫌いだったわけではない。ただ、カエデにとってツカサはなんでも話せる友達であって、恋愛対象ではなかっただけだ。しかし、その言葉はツカサにとって完全な拒絶の言葉であった。

アオイは自分に向けられたものではないのにその言葉に酷い絶望と激しい憤りを感じた。それはきっと、そのときのツカサが感じたものであったのだろう。

ツカサがカエデに覆い被さった。カエデが悲鳴をあげ、抵抗する。アオイは何も出来ず、ただその様子を眺めるしかなかった。

ツカサの手がブラウスのボタンに伸びたとき、カエデが一言声にはならない声でこう言った。

「信じていたのに」

その言葉にアオイは目を見開いた。ツカサも動揺したのか、手を止めた。

カエデは泣き出すとツカサを突き飛ばし、走り出した。乱れた靴音は階段を上っていき、そして聞こえなくなった。しかし、聞こえずともその靴音が屋上に行ったことをアオイは分かっていた。

人間が落ちて地面に叩きつけられた音が聞こえたような気がして、アオイは救いようのない絶望に覆われ膝から崩れ落ちた。

すぐに、目の前が真っ暗になった。

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