~56~ 羽琉の勇気

「エクトルさんの髪は綺麗ですね」

「……え?」

 小さく聞き返したエクトルに、羽琉は「あ、違いました」とすぐに訂正する。

「髪、でした」

「……羽琉」

 まだ頬を染めたまま、羽琉はにっこりと微笑んだ。

「エクトルさん。ごめんなさい」

 笑顔のまま出てきた突然の謝罪の言葉に、どこか不穏な空気を感じたエクトルは息を呑む。

「僕はどうしてもエクトルさんが好きなんです」

 しかし続いた言葉は思いもしなかったもので、エクトルは目をぱちくりさせる。

「エクトルさんが僕のことを嫌いになったら潔く日本に帰りますが、それまではそばに居たいです」

 羽琉の切願に一瞬遅れてしまったが、「それは私もです!」とエクトルは勢いよく同意する。

「好きだから、分かります。僕も男だから……」

 そして一際大きく深呼吸をした羽琉は、意を決したように真っ直ぐにエクトルを見つめた。

「今日これからの時間を、僕と一緒に過ごしてくれませんか?」

「そ、れは……」

 真剣な眼差しと言葉で、それが羽琉からの夜の誘いだということにエクトルはすぐ気付いた。だがどちらかというと驚きよりも心配を隠せない。

「でも羽琉。無理は駄目です。私は羽琉を苦しめたくない」

「僕を苦しめているのは過去のことです。エクトルさんではありません」

 きっぱりと言い切る羽琉にエクトルは心配気な表情のままだ。

 羽琉の性格を考えると、途轍もない勇気を振り絞って誘ってくれたのだろうということは十分理解できた。もちろんエクトルも嬉しい気持ちがないわけではない。だがそれ以上に羽琉が過去を思い出すようなことを避けたいという気持ちの方が強かった。

 辛く苦しんでいる羽琉の顔を……泣き顔をもう二度と見たくない。

「……」

 エクトルは苦い表情のまま、羽琉の誘いに応えられずにいた。友莉にも言ったように自分の欲を自制する方がエクトルにはまだ楽だからだ。

 羽琉が居なかった間、仕事でミスを出さなかったことが不思議なくらい記憶が曖昧だった。周りが優秀だったから回避できたのかもしれないが、羽琉がそばに居ない時のエクトルが全く使い物にならないことが証明された二日間だった。自分でもそう思っている。だからこそ同じ状況に陥る状況を作りたくなかった。

「私も……羽琉が好きです。大好きです。でもその想いを込めても、する行為に違いはありません。羽琉はまた苦しんでしまうかもしれない。心の傷がさらに深くなるような可能性を少しでも秘めているのならば、私は……できません」

 エクトルの方が苦しそうな表情をしている。

 そんなエクトルの手を羽琉がそっと掴んだ。

「!」

「ゲストルームをお借りしても良いですか?」

 まだ眉根を寄せたままエクトルが「え?」と聞き返すと、羽琉は頬を染めつつも穏やかに微笑み返した。

「僕がエクトルさんに触れたいし、触れて欲しいんです」

 そう言った羽琉は掴んだ手をそっと引っ張るようにして、エクトルをゲストルームへと促す。

 エクトルは戸惑いながらも、自分の手を引いて先を歩く羽琉に付いて行くしかなかった。

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