~55~ 困惑

 いつもよりお風呂から上がるのが早かったエクトルは、ドライヤーを使う余裕もなく、願うような心地でリビングに向かった。

 羽琉が約束を破ることはないと思っているが、ぶり返しのようなことがまた起これば、今回もリビングにいない可能性もある。

 そうなっても羽琉を責めるつもりはない。羽琉が悪いわけではないのだから。

 ただ……二回目ともなるとエクトル的には浮上できるか怪しいほど、相当参る状況ではあった。

「……」

 リビングを覗き込むように顔を見せたエクトルの視線の先に、ソファに座っている羽琉の姿があった。

 羽琉はエクトルが読んでいた雑誌を手に取っていた。

 読んでいるというよりは、フランス語の単語を拾って文面を理解しようと四苦八苦しているようだ。

 取り敢えずほっとしたエクトルは首にタオルを巻いたまま、羽琉の隣に座ろうと近寄った。

「あ、エクトルさん」

 シャンプーの匂いとエクトルの気配に気付いた羽琉が雑誌から顔を上げる。

「待っててくれてありがとうございます」

「……」

 礼を言う必要などないのに、エクトルは羽琉を気遣って礼を言う。何故だかそれがイネスの言うのような気がした。

 エクトルが自分の隣に座る前に羽琉が立ち上がる。

 羽琉は自身を落ち着けるようにふーと息を吐くと、上目遣いでエクトルを見つめた。

 エクトルが不思議そうに「どうしたんですか?」と訊ねる。

 そんなエクトルの首に掛けてあるタオルをくいっと軽く自分の方に引っ張った羽琉は、同時に背伸びをしてエクトルの唇にちゅっとキスをした。

「!」

 滅多にない羽琉からのキスに、エクトルは豆鉄砲を食らったかのように目をぱちくりさせる。

「……」

 羽琉は顔を真っ赤にしつつ、エクトルの濡れた金髪をさっきのお返しとばかりにタオルで拭き始めた。

 身を屈めた状態のエクトルは羽琉にされるがままだ。突然のことで半ば放心状態で動けなくなってしまった。

 羽琉からのキスはもちろん嬉しいのだが、如何せん今が複雑な心境の真っ只中なので、どういう意図の行動なのだろうと髪を拭かれながらエクトルはぐるぐると考える。

「……痛くないですか?」

 先程と同じ言葉で羽琉に聞かれ、「……いえ」と戸惑いつつ答えた。


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