~39~ 微妙な空気

「羽琉。体調はどうですか? 辛くはないですか?」

 レオが座っていた椅子を少し引き、羽琉との距離を取ってから腰を下ろしたエクトルは、羽琉をじっと見つめ訊ねた。

「もう大丈夫です。ご心配とご迷惑をお掛けしてすみませんでした」

 申し訳なく思っていた羽琉は、エクトルに頭を下げる。

「羽琉、謝らないで下さい。他人行儀みたいで寂しいです」

 切な気に苦笑するエクトルに、ツキッと胸に小さな痛みが走った。

「食欲はどうですか?」

「はい。少しは戻ってきました。吐き気もないです」

 心底安堵したように息を吐き、エクトルは「そうですか。良かったです」と肩の力を抜いた。

 それから少し沈黙になり、気まずい空気が流れそうになった時、病室のドアをノックされた。

 入室してきたのは医師のラウルだ。

『あぁ、ちょうど良かった。エクトルくんもいらっしゃいましたか』

『お世話になっています。ラウル先生』

 親しそうな様子の二人に不思議そうな眼差しを向けていると、「ドクター・ラウルは父と旧知の仲なんです」とやんわり説明してくれた。

『採血の結果ですが、特に異状はありませんでした。今のところ症状も落ち着いているので退院の指示を出しました。時間は明日の昼食前になると思います。退院したら、しばらくはご自宅で養生して下さい』

 エクトルは羽琉と顔を見合わせホッとした表情を浮かべた。

『はい。ありがとうございます』

 エクトルが頭を下げ礼を言った。

『オダギリさん。家に帰ってもちゃんと食べてしっかり寝て、心身共に穏やかに過ごすよう心掛けて下さい』

 ラウルからの念押しに、羽琉は『はい』と素直に肯いた。

 自分でも自己管理をしっかりしなければまた同じことを繰り返してしまうと思ったからだ。怨念のような過去のおぞましい出来事を思い出したとしても、自分を保っていられるようにしておかなければならない。

『では私はこれで。エクトルくん、お父上によろしくお伝え下さい』

『はい。本当にありがとうございました』

 エクトルと羽琉が頭を下げつつ、病室を出るラウルを見送った。

「明日退院できるんですね」

 羽琉がほっとしたように溜息を漏らした。

「検査も異常がなかったようで安心しました。明日から栄養の付くものをたくさん食べましょうね」

 にっこりと微笑むエクトルに羽琉も同じように微笑む。

 二人の間にはまだ微妙な空気が漂ってはいるが、エクトルはいつもと変わりないように見えた。

 ただ――。

 対面の椅子に座るエクトルの手を、羽琉はそっと掬うように取った。

「!」

 驚いたように手をピクつかせたエクトルは、羽琉に取られている自分の手を見つめた後、そのまま視線を羽琉に流した。

「怒ってませんか?」

 目を伏せ、おずおずと訊ねる羽琉にエクトルは苦笑してしまった。

「怒ってるように見えましたか?」

「いえ、見えません。でも……」

「でも?」

 すごく悲しそうだった。……傷つけた気がする。

 その思いを込めるように握っている手に少し力を入れると、気付いたエクトルも同じ強さで握り返してきた。

 応えてくれたことに安堵した羽琉は「……ごめんなさい」と小さく呟くように謝った。

「どうしてですか? 羽琉は何も悪いことをしてはいませんよ。悪いのは私です」

 思いもよらない言葉が聞こえ、羽琉は小首を傾げる。

「羽琉がフィアンセになってくれたことがすごく嬉しくて、舞い上がり過ぎてしまったんです。最初は羽琉がそばにいてくれるだけでいいと思っていたのに、ずいぶんたくさん欲が出て来てしまいました。羽琉を、怖がらせてしまった」

「違います。エクトルさんを怖いと思ったことはありません」

 羽琉は首を横に振り、すぐに否定した。

 そう。怖いのはエクトルに対してではない。

「……」

 羽琉にしては強めの口調だったことに、エクトルは目を瞠る。

「僕の、問題なんです。でもそのせいでエクトルさんを悲しませてしまったような気がして……」

 エクトルを傷つけたと苦悩する羽琉に、エクトルは慈しむような優しい笑みを浮かべた。羽琉から触れてくれた手からもエクトルへの想いが伝わる。それだけでエクトルは幸せになれた。

「そんなことはありません。確かに少し驚きはしましたが、私にとっては羽琉の心が穏やかでいられることが一番です。その時々で羽琉が思ったこと、感じたことは、いつでも正直に私に伝えて下さい。それが言葉であっても、態度であっても私は受け入れます」

 気にしていないとエクトルは伝えるのだが、羽琉は納得していないようで、まだ眉根を寄せている。そして、「帰ってから、ちゃんと話をさせてもらえますか?」と懇願の眼差しをエクトルに向けた。

「話……ですか」

 その話の内容が気になり一瞬不安になったエクトルだったが、羽琉の眼差しから、別れ話のようなマイナスな話ではないことを悟ると「分かりました」と肯いた。

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