~12~ イネスの分析

「母でしょう。さっき近くまで来ていると言っていました」

「!」

 羽琉の中に密かに緊張が走った。

 エクトルは不安そうな羽琉の唇に素早くちゅっとキスをすると「大丈夫」と言い、自信に満ちた笑みを浮かべた。

「母を連れてくるのでちょっと待ってて下さい」

 本当に大丈夫だろうか。エクトルの母として会うイネスに、昼間の非礼を詫びることからした方が良いだろうか。

 ぐるぐる考えていると、エクトルがイネスを連れて羽琉のいるリビングにきた。

 座っていた羽琉は反射的に立ち上がる。そして『お、小田桐羽琉と言います』とフルネームを名乗り頭を下げた。

『あまり硬くならないでね。エクトルの母でイネスといいます。公園でお会いしたわね』

 下げている頭を上げるようにと手を差し伸べて促すと、イネスはにっこりと微笑んだ。その顔はエクトルの綺麗な微笑とよく似ている。

『取り合えず座って。飲み物を持ってくるから、少し席を外すよ』

 イネスの肩に手を置きそう言ったエクトルは、今度は羽琉に向かって「羽琉、すぐ戻ってきます」と耳元で囁いてから奥のキッチンに消えていった。

「……」

 自分が行けばよかった、と羽琉はすぐ後悔した。

 会話が見つからない。

 しばらく息が詰まるような沈黙が続くかと思ったが、それはすぐに破られた。『昼間はごめんなさいね』とイネスから声を掛けてきたのだ。

『い、いえ。僕こそすみませんでした』

 そう言いながら、再び頭を下げようとした羽琉をイネスが制する。

『私は全然気にしてないわ。だからハルさんも気にしないで』

 先程のようににこっと微笑むイネスは、確かにエクトルとそっくりで思わず見惚れてしまう。

『エクトルを怒らないでくれるかしら』

『え……?』

『さっきの通話のこと。エクトルはすぐ素直に謝ったでしょ?』

 電話を切った後の状況を知っているかのように言い当てるイネスに、羽琉は瞠目した。

『返信メールにね、書いてあったのよ。あなたを絶対に騙したくはない――騙したくはないけど、自分が選んだ最愛の恋人を私にも知ってもらいたいから、ハルさんに怒られるのを覚悟の上で内緒で通話状態にしておくって』

 そんなやり取りがあったことを知らされ、羽琉は『そう、だったんですか』と驚いたように肯く。

『エクトルには確信があったのよ。あなたなら私を安心させることができるってね』

 そう言って目を細めたイネスに、意味が分からない羽琉は小首を傾げた。

 その様子にもイネスは優しく微笑む。

『エクトルの思惑通りっていうのは少々癪に障るのだけど、あなたのいじらしいほどの悩みもエクトルを思いやる優しさも、会話から全て感じ取ることができたわ。はなししでエクトルが誘導した点を除いたとしても、あなたのエクトルを想う切実な言葉は純粋で綺麗なものだった。きっとあなたのお母様もそう感じたのでしょうね』

 『思惑通りと言われるのは心外だ』と紅茶を淹れたトレイを持って、ムスッとしつつエクトルが戻ってきた。

『羽琉を信じていたからこそできたことなんだから。まぁ、あれほどまでに私への想いを語ってくれるとは思っていなかったけど、でも私にとっても感慨深い至福の時間だった』

 エクトルが羽琉に向かってにこっと微笑む。

『はいはい。当てられてしまったことは確かだけれど、ハルさんの想いはどちらかというと心地良かったわ』

 どういうことなのかと首を捻る羽琉に、エクトルはくすっと笑った。

 どうやらエクトルはイネスが言わんとしていることを理解しているらしい。

『あなたは与えられるより与えたい側なのね』

 そう言われて羽琉は黙考する。

 どちらかと言うと幼い頃からあまり物を強請ることはなかった。それは家庭環境がそうさせていた可能性もあるが、もともと物欲というものがなかったせいもある。人間関係にしても人付き合いが苦手な羽琉は、来る者を拒み、去る者は追わずといった独自の持論のせいで友人が欲しいと思ったこともなかった。

 しかし――と考える。

 相手がエクトルだったらどうなんだろう、と。

 今抱えている想いをきれいさっぱり消し去り、エクトルと離れて日本で普通の日常に戻ることができるだろうか。

 羽琉は目が醒めたかのようにハッとした。

 そして横に座ったエクトルを見つめる。

 こんなに何かをしたいと思った相手は初めてだった。自分の中に芽生えた感情を大切にしたいと思ったことも、フランスに付いて行こうと一大決心をしたことも、プロポーズされて泣くほど幸せだと思ったことも、全て初めて……。

 ――エクトルさんだけは失いたくない。手放したくない。

 いつの間にか羽琉の中にそんな強い欲が生まれていた。

『それに愛されるより愛したい想いが強い方かもしれない。エクトルは幸せになれるわね』

 確定しているかのように言い切るイネスに、当然と言わんばかりにエクトルは肯く。

『私の幸せには羽琉が必要不可欠なんだから、今でも十分幸せだよ』

『えぇ、そうね。だからこそエクトルは命を懸けてハルさんを守らなければならならわよ』

 イネスは真剣な表情でエクトルに視線を向けた。

 それを受けてエクトルも神妙な面持ちになる。

『ハルさんはあなたへの想いを貫くためにフランスまで来てくれた。厳しい状況なのも理解した上で、エクトルのために尽くそうと今も努力してくれている。そんな健気な想いを無碍にすることは私が許さないわ』

 二人の現状を全て見透かし釘を刺すように言い放つイネスに、エクトルは背筋が伸びる思いがした。

 もちろんエクトルとしてもそのつもりだ。

 羽琉のために自分ができることは何でもしてやりたいと思っているし、困ったり悩んだりしている時は助けたいと思っている。

 羽琉はあまり口に出してくれないため、それを察知する能力を高めなければならないとも思っているし、羽琉に苦労させないだけの経済力も保たないといけないとも思っている。羽琉がそばにいるために必要なことは必ず遣り通すし遣り遂げる。その思いはずっと変わらない。

 自分を真っ直ぐ見つめるエクトルの表情から察したイネスは、満足したように微笑んだ。

『エクトルのお相手がハルさんで安心したわ。今度はマクシムとも会ってあげてね。とても楽しみにしていたから』

 マクシム? と眉根を寄せていた羽琉に「私の父です」とエクトルが付言する。

『是非、お会いしたいです。よろしくお願いします』

 人付き合いが苦手な羽琉が、会ったことのない人物と会わせて欲しいと自分から言うことも初めてだった。

『さて、それじゃあ久し振りに手料理を振る舞おうかしら。キッチンを借りるわね。材料は……』

『さっき羽琉と夕食の買い物をしたから材料はあるけど』

 イネスと共にエクトルが立ち上がりキッチンへ向かおうとすると、「僕が行きます」と羽琉がエクトルを制した。

『一緒に料理を作っても良いですか?』

 小さくお願いする羽琉にイネスが『え?』と聞き返すと、羽琉は言い辛そうにしつつも『できれば教えてもらえると嬉しいのですが……』と再度懇願してみた。

 イネスはきょとんとした後、嬉しそうに目を細めた。

『良いわよ。一緒に作りましょう。エクトルの好きな料理を教えてあげるわ』

 快く承諾してくれたイネスに、ぱっと表情を明るくした羽琉は『ありがとうございます』と礼を言い、冷蔵庫にある材料を並べるため先にキッチンへと向かった。

 そんな後ろ姿を見つめていたイネスは顔を綻ばせる。

『ほんと可愛らしいわ。ハルさんみたいな方に“お義母さん”と呼ばれるのも素敵ね』

『羽琉はいつも簡単に私の心を鷲掴みしてしまうから困る』

 エクトルはまたきゅんきゅんし始めた甘い胸の痛みを感じつつ、幸せそうに目を細めた。

『全く困ってるようには見えないわね。でもあなたのそんな幸せそうな顔を見るのは初めてよ』

『羽琉がそばにいるならいつでも見られるよ』

 デレている自分の息子を呆れた表情で眺めながらも、その思いは何となく理解できるのでイネスは何も言わずに羽琉の待つキッチンへと向かった。

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