~5~ 母・イネス

「その女性の名前を聞きましたか?」

「あ、はい。えっと、確かイネスさんとおっしゃっていました」

 その名を聞いたエクトルは驚いたように目を見開いた後、俯きながらはぁ~と長嘆を洩らした。

「……母です」

「え……はい?」

「イネスは私の母です」

「…………」

 大きく息を吸い込んだ羽琉は、絶句し目を丸くする。

「近々家に来ると言ってはいましたが、もう来ていたとは。必ず連絡をしてから来てくれと再三注意したんですがねぇ……」

 呆れた口調で肩を落とすエクトルに、羽琉はまだ言葉が出ない。

「羽琉?」

 顔を覗き込み、羽琉の目の前でエクトルは掌をひらひらと振る。

「あ、はい……すみません。まさかエクトルさんのお母様だったなんて」

 我に返った羽琉が恐縮しつつ、エクトルに頭を下げた。

「あぁ、大丈夫ですよ。母は小さなことに拘らない人なので、羽琉が気に病むことは何もありません」

「でも……」

「私の母とはいえ、羽琉は初対面でイネスの素性も知らなかった。羽琉が会話を断ったとしても、気分を害する要素は何もありませんよ。それにしても公園で羽琉に声を掛けるなんて、似たもの母子というかなんというか……」

 エクトルは苦々しくぶつぶつと呟く。

「とても優しそうな方でした。もう少し考えてから答えれば良かった、です」

 エクトルの時もそうだったが人付き合いが苦手過ぎて距離感が掴めず、いつも断ることが無意識に最優先で選択されるようだ。考える前に口癖のように出てしまう。

「羽琉が断ったことを後悔しているなら、次会った時に羽琉から話し掛けてみてはどうでしょう。それだけで母は大喜びすると思いますよ」

 羽琉の頭を優しく撫でながらエクトルは言う。

「それから、さっき羽琉が言っていたキーホルダーは、母が以前ルルドに行った時に購入したものです」

「ルルド……地名ですか?」

「えぇ。フランスとスペインの国境にある町です。『ルルドの泉』が有名ですね。どんな病気でも治すという謂れがあって奇跡の泉と言われているんですよ」

「そんなすごい泉があるんですか」

「聖母マリアが現れた場所として伝えられています。羽琉が見たキーホルダーの中の液体とはその泉の水のことですね。家族の健康を祈って、とても大事にしていて……肌身離さずいつでも持ち歩いてるんです」

 家族の健康――。

 そばにいなくても常に家族のことを思っているイネスに、羽琉は自分の母親である佐知恵さちえを重ねた。

 佐知恵も羽琉のことをずっと気に掛けてくれていた。再婚して花村はなむら姓になった後も羽琉を心から心配し、月の光の入所費まで負担してくれていた。再婚先にも小さな子供がいることを知っていたので、羽琉はあまり気を遣わないよう佐知恵に言っていたのだが、それでも時間がある時は羽琉と時間を取りたがった佐知恵に、申し訳なさと共に母親としての愛情を感じていた。

「母親の愛情って……何か強いですよね。見えないけど、心にちゃんと届いてる」

 イネスの愛情に心打たれた羽琉は、日本にいる佐知恵を思いながら微笑むと胸に手を当てしみじみと呟いた。

 隣でそんな可愛い表情をされたエクトルは、抑えきれない愛しさを溢れ出させるように羽琉の頬にキスをする。そして驚いてエクトルの方に顔を向けた羽琉に、思惑通りといった微笑みを見せた後、素早く唇にキスをした。

「!」

「私の愛情も常に感じてくれていますか? 羽琉の心の奥底にしっかりと響いていますか?」

 エクトルの碧眼に自分が映っているのが見えるほど間近で見つめられ、羽琉の鼓動が速鳴りする。呼吸が乱れそうになるが、いつものように嫌な乱れではない。

「羽琉に対する私の想いを、お母様の愛情に匹敵するくらい……いえ、それ以上に感じて欲しいと思っています。もちろん羽琉が嫌でなければですが」

 言われなくても――。

「嫌、ではない……です」

 エクトルの愛はずっと惜しみなく、そして絶え間なく届いている。

 羽琉の返答に嬉しそうに微笑んだエクトルは再び羽琉に顔を近付けキスをした。少し押し付けるように重なった唇は離れる間際、少し食んでから離れる。

 はぁっと吐息をついた羽琉の唇に、エクトルは再度軽く唇を触れさせ、今度はペロッと羽琉の唇を舐めてから離れた。

「!」

 初めてのことに羽琉は目を丸くして、エクトルを凝視する。それから見る見るうちに顔を赤くした。

「愛しい羽琉の初々しい表情を見るのはとても嬉しいですね。羽琉の仕草の一つ一つが私への愛情を伝えてくれているので、見ているととても幸せになります」

 頬の熱さを感じつつ、羽琉は「そ、そうですか?」と照れながら答える。

 満足そうに綺麗な微笑を浮かべるエクトルからは、本当に幸せが駄々洩れしていた。

「自分の恋人が羽琉で本当に良かった。こんなに愛情を注ぎたいと思った相手は初めてです」

 エクトルの言葉に羽琉は突如ハッとした。

 途端に甘い時間がサッと冷たい現実に変わる。

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