~3~ 新たな出会い

 エクトルを見送った後、いつものように家でフランスの歴史や文化などを勉強してから、気分転換がてら羽琉はスケッチをしに公園に来ていた。

 いつもと同じ風景だが、どこをポイントにして描くかで風景もまた違って見えてくる。そんな小さな日々の移り変わりが見えるのも楽しみだった。

「今日は少し涼しいな……」

 フランスの空気を肌で感じつつ、早く自分にも馴染むようにと羽琉は常に願う。目を瞑り、五感を研ぎ澄まし、羽琉はしばらく全身でフランスを感じていた。

「……?」

 ふと近くに人の気配を感じて、羽琉はパッと目を開いた。

『あら、とても可愛い子ね。どちらのお子様かしら』

「!」

 中年女性に間近に顔を覗き込まれ、驚いた羽琉は反射的に体を引き距離を取った。ドクドクと鼓動が走ったせいで、羽琉の息が一瞬にして上がる。

『まぁ、驚かせてしまったわね。ごめんなさい。観光地でもない公園に東洋の方がいるから物珍しくて、つい顔を近付け過ぎてしまったわ』

 怯えている羽琉の様子に申し訳なさそうに女性が謝る。

 しかしフランス語を何とか習得出来たとはいえ、羽琉はまだまだ未熟だ。少し違うニュアンスで会話されると途端に翻訳の回転が落ちる。

『ごめんなさい』

 女性は再び羽琉に謝罪した。先程と違い、今度は聞き取りやすいようにゆっくりとしたスピードで言葉も単語だけだ。

「……」

 目にはまだ警戒を滲ませたまま、羽琉は謝罪に対する返答を肯きだけで返した。

 『言葉が通じると良いのだけれど……』という呟きの後、『どちらからいらしたのかしら?』女性は羽琉に優しく問いかけた。どうやら羽琉と会話をしたいようだ。

 羽琉の激しい人見知りは、国籍はもちろん性別も年も関係なく誰に対しても否応なく発動してしまう。サラとナタリーに対してさえ、最初の一ヶ月くらいはまともに顔を合わせることもできなかったくらいだ。

 そんな羽琉に女性とはいえ見知らぬ人から急に声を掛けられれば緊張するのも仕方ないだろう。今もどう返せばいいのか分からず、女性を困惑顔で見つめることしかできない。

 その時――。

 キラッ

 ふと陽の光に反射して、女性の持っているバッグに飾ってあるキーホルダーが光った。空洞になっているキーホルダーの中には液体が入っており、その液体に合わせて陽の光もゆらゆらと揺れている。

 そのキーホルダーに見惚れて思わず無言になっていると、女性が再び『ごめんなさい』と謝ってきた。

『突然で驚かせてしまったから、警戒されてしまっても無理はないわね。言葉も分からないかもしれないわ。となると……誰かとはぐれてしまったとか、それとも誰かと待ち合わせ……いえ、迷子ってこともあるかも。はっ、誰かに誘拐されそうになって逃げてきたとか……』

 険しい顔から急に青ざめた顔に変わりながら、ぶつぶつと独り言を呟く女性を見ていた羽琉は、あらぬ方向へ考えが及びそうになったことに『あ、の……』と慌てて声を発した。

『……ここには散歩に来ただけです』

 フランス語を話した羽琉に、女性は目を丸くするとぱちぱちと瞬きを繰り返す。

『……あなたフランス語が話せるのね』

『少しだけ、なら』

 それを知った女性はパッと表情を明るくした。

『良かったわ。私はイネスと言うの。あなたのお名前を聞かせて頂けるかしら?』

『……羽琉です』

 相手がフルネームを明かしてないので、羽琉も発音のしやすい下の名前だけを教える。

『ハルさん……。そう。なんだか不思議な響きね。でも柔らかさを感じるわ』

 感慨深く羽琉の名を復唱すると、イネスは目を細めた。

 その柔らかい表情が誰かに似ているような気がしたが、外国人に知り合いはいないのにそう思うことがおかしいと感じた羽琉はすぐに思考を戻す。

『この場所に散歩に来ているということは、この辺りに住んでいるということかしら? もしかしてハーフ? ご出身はどちらなの?』

 さらに訊ねてくるイネスに羽琉は困惑した。少し息苦しさを感じるが、これは深く詮索されたくないという嫌悪感からのものだ。個人情報をこれ以上話したくない羽琉は、イネスからどう逃れようかと頭の中で模索し始めていた。

『……ごめんなさい。あれこれと聞き過ぎたわね』

 そんな羽琉の態度から心情を察したのか、イネスは申し訳なさそうに苦笑した。

『知りたがるのが私の癖になっているみたい。見ず知らずの相手に根掘り葉掘り聞かれるのは嫌なものよね。私ったら配慮が足りなかったわ』

 再度『ごめんなさいね』と言うイネスに、羽琉は緩く首を振る。

『ハルさんみたいな人とお近づきになりたい気持ちが先走ってしまったようね。もしよろしければ、またお会いした時に話相手になって下さる?』

 羽琉は困惑顔のまま少し視線を外して一つ息を吐くと、窺うようにイネスに視線を戻した。

『えっと……その、あまり気の利いた会話はできないと思いますので……』

 遠回しながらも拒絶を含んだ羽琉の言葉と複雑そうな表情に、イネスは『そう』ととても残念そうに目を細めたが、それ以上食い下がることはなかった。

『お邪魔してしまってごめんなさいね』

 そう言ったイネスは『さよなら』と羽琉に小さく手を振り、後ろ髪を引かれるような面持ちで羽琉のそばから離れて行った。

「……」

 残念そうに去っていくイネスに、何故か申し訳なさが生じる。寂しそうな後姿を見ていると、傷つけてしまったのではないかと自己嫌悪に陥った。

 これまで羽琉は自分を守るために、他人と必要以上の接触をしないよう心掛けてきた。その弊害がコミュニケーション能力の劣化なのかもしれないが、そうすることで自分自身を守ってきた。

 だがそれは間違った生き方だったかもしれない。

“これまでの人生は羽琉が心の傷を癒すのに必要だった大切な時間だったと思っています。そして月の光はそんな大切な時間を過ごすための大事な空間でした。今の羽琉があるのは、そんな大切な時間を腐ることなくきちんと心の回復に費やしていたからです。羽琉が立ち直りたいと努力した賜物なのです。間違っていたと決めつけてはいけません”

 いつかエクトルが言ってくれた言葉を羽琉は思い出した。

 エクトルの言葉は、いつも羽琉の心の奥底に鈴を鳴らすように響き渡る。

 それはエクトルが羽琉の心情を深層まで先読みして、そっと掬うような優しい言葉を掛けてくれるからだ。

 いつでも羽琉のことを思い、心まで守ろうとしてくれるエクトルに、羽琉もちゃんと応えたい。

 小さくなったイネスの背中を見つめつつ、羽琉は小さく息を吐いた。

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