第348話 ヒックイト族の里
もうすこしだ。
闇のなか、小さな帆かけ舟に乗りうつった。
いよいよ、アグン山へとつづく川へ入る。
風の力で川の流れに逆らって進む。
「今日は水量が多い。ゆれるぞ」
となりに座るラティオが言った。わが国がほこる軍師はアグン山が故郷だ。この川のことも熟知しているのだろう。
しばらくすると忠告どおり、木の葉が舞うのように小舟はゆれた。
舟のへりにしがみつく。あとは耐えるしかない。
月夜に照らされる川を、舟はひたすらに北へ北へとすすむ。
だれも、しゃべらなかった。アグン山が近づくにつれ、不安も大きくなる。ラティオの父さんと母さんは無事だろうか。
東の空が白み始めたころ、やっとアグン山のふもとに着いた。
船着き場におりると、すでにかなりの兵士が到着している。そこには総隊長である犬人の姿もあった。
そのグラヌスが、足踏みしながら口をひらいた。
「ちょうど夜も明けたが、思ったより冷えこんでいる」
「レヴェノアだと、朝から温かいからね」
「そうだな。やはり、このあたりは北部なのだな」
春でも、最北の地であるここの朝は寒かった。
人が多くなってきたので、船着き場から移動する。
近くに、ひらけた緑地があった。そこですべての兵士が到着するのを待つ。
待つあいだ、アグン山を見あげた。
ふもとからは、ヒックイトの里も、頂上すらも見えない。いま里がどうなっているのか、わからなかった。
だが、すでに気づいた異変もあった。いつもなら船着き場に人がいる。それが今日はいなかった。
次々に、兵士たちがあつまってくる。
一刻ほど待つと、ラティオがきた。
「これですべてだ。総隊長グラヌスの百名。そして歩兵が二番から六番。マニレウス、ブラオ、カルバリス、テレネ、コルガの各隊長がえらんだ百名」
ぼくはうなずき、甲冑に身を固めた兵士の列を見つめた。
「あわせて六百。全員が無事でよかった」
「ああ。そのほか、イーリクの精霊隊、サンジャオの弓兵隊、レゴザの工兵隊、デルミオの輜重隊、こっちがあわせて四百だな」
レゴザとデルミオの隊は、場にならんではいなかった。この二百は輸送班だ。船着き場のほうで待機しているのだろう。
あとここにいるのは近衛隊の百名。総勢で千百人ほどの選抜隊だ。
「どうせ見つかるなら、もっと多くの兵をつれてくればよかったか」
バラールの近くは、不意をついてすりぬけるはずだった。
「それだと、王都をぬけだすのに手間がかかる」
軍師ラティオが、ぼくをさとすように言った。
「それにな、グールの主力はザンパール平原だ。敵の拠点が死の山脈だとしても、兵力を山に残す意味はねえ」
ぼくもそう考えた。そしてザンパール平原のグール、アッシリア軍の動きは、諜知隊が見はっている。そこに動きはない。
死の山脈にいるグールは数百。それも強くない。ぼくはそう結論づけたが、予想外のことが多い。バラールでは運河が封鎖されていた。確実に、いまヒックイトの里は襲われている。
足音が聞こえ顔をあげた。となりに立っていたのは犬人の総隊長だ。
「アト、戦いのときだ。いちど動きだせば、そこで迷ってはならん」
グラヌスの言葉は正しい。あれこれ考えてしまうのは、ぼくの悪い
整列する兵士たちのまえに、ぼくや隊長たちがならんだ。総隊長のグラヌスが口をひらく。
「これより、アグン山をのぼる。いついかなる敵が襲ってくるかわからぬ。各自、警戒をおこたるな」
兵士たちはうなずき、静かに行軍が始まった。
各隊長による百名の選抜。それはやはり精鋭部隊だ。いままで経験した戦いのどれより、ただよう気配がちがった。
気迫はある。だが同時に、落ちつきも相当なものだった。
列をなして、ひざほどの草がはえる緑地を進む。
すぐにアグン山への入口に着いた。ここも、いつもなら見はりがいる。だが今日は人の姿がない。
先頭の歩兵たちが、剣をぬく音が聞こえた。敵の姿は見えないが、ここからは臨戦体勢か。
ぼくと近衛隊、これは行軍する長い隊列のなかほどにいた。敵がきても安全ではあるが、それでも用心のため背中の弓を手に持った。
となりを歩く鳥人の軍参謀も、腰にさしていた細長い剣をぬいた。
「ヒュー、里に諜知隊はいなかったよね」
「ひとりも入れていない。それは、ふたりの族長と交わした約束でもある」
ふたりと言った。まえの族長であるゴオ隊長とも、以前にそういう話があったのか。
うしろをふり返り、ゴオ近衛隊長を見た。
こちらの話は聞こえただろうが、いつもどおりゴオ隊長の表情に変化はなかった。
周囲を警戒しながら、静かに山道をのぼっていく。
いちど休憩をはさんだ。それからまた延々と坂道をのぼる。
数刻ほど歩きつづけたとき、ふいに戦闘は始まった。
「
兵士のだれかがさけんだ。その声が聞こえたときには、すでに先頭集団が駆けていた。
先頭には総隊長のグラヌス、それに軍師のラティオもいたはず。駆けだしたということは、守備の陣形を固めるより突撃が有効だという判断か。
後続であるぼくらも走る。
気づけば、ヒューの姿はない。飛んでさきにいったか。
「二番隊、さらにまえへ!」
総隊長グラヌスの声が聞こえた。
「おう!」
大勢の兵士が
隊列のなかほどにいるので、戦う前線のようすは見えない。それでも進んでいくと、
「三番隊まえへ!」
またグラヌスの声が聞こえた。おそらく最前列の隊を交代させながら進んでいる。
レヴェノア軍の選抜隊は、グールを倒しながら山道をのぼりつづけた。
「
その声に坂のうえを見る。ヒックイト族の砦だ。がんじょうそうな丸太で作られた高い壁がそびえている。
ぼくらから砦が見えたそのとき、砦のうえにも多数の人影があらわれた。
おぼえのある猿人の顔ばかり。ヒッククイト族の人たちだ。手には弓を持っている。
「
グラヌスの声が聞こえ、兵士たちの駆ける速さはさらに増した。
「アト!」
前方から軍師のラティオが駆けてきた。
「
「里のみんなは」
「無事だ。いま砦からも攻撃が始まっている」
無事だったか。戦いの最中だが、胸をなでおろす気分だ。
「王と近衛隊は待機してくれ。おれは弓兵隊と精霊隊をつれ、遠目から歩兵を援護する!」
ラティオはそう言うと、ぼくのいる近衛隊のさらに後方へと走った。
後方にいた弓兵隊と精霊隊は、山道をはずれ森のなかに入っていく。
ぼくも戦いに参加したいが、踏みとどまった。ぼくがいけば、兵士たちに王を守るという手間が増えることになる。
あちらこちらから戦いの音がするなか、坂道のとちゅうで待った。周囲は近衛隊が固めている。たまに群れからはぐれた
戦いたい衝動を
じっと待っていると、ほうぼうから歓声が聞こえだした。
思わず、うしろにいる黒ずくめの猿人を見た。もとヒックイト族の族長、ゴオ近衛隊長だ。
「勝ったようだな」
ゴオ隊長が、つぶやくように言う。
間にあった。ぼくは待っているあいだ、呼吸を忘れたかのように息を殺していた自分に気づいた。
深く息を吸い、ひとつ大きく吐きだした。
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