第343話 出港

 ボレアを出港する。


 帆が風をはらんだ。


 アルゴーという名の大きな帆船だ。


 船首にむかって歩いた。


 舳先へさきに立ち、運河を見つめる。


 カルラ運河だ。


 月はでているが、夜の運河は暗く思えた。


 ちらちらと水面が光ってはいるが、全体としては暗い。どす黒い水のように見える。


 その水面を切り裂くように船は進み始めた。


 ふり返り、甲板の上をながめる。


 船乗りたちが動いていた。帆や柱をあやつる太い綱を引いている。


 そのほか近衛兵が五名ほど、なにか積荷の整理をしていた。遠征に必要な物資なのだろう。甲板には大きな木箱がいくつかあった。


 近衛兵だけでなく、隊長たちも乗っている。ラティオ軍師、ヒューデール軍参謀、ゴオ近衛隊長、ハドス近衛副長、そして、ボンフェラート宰相。


 船の中央にむけ歩いた。手がまわらないほど太い帆柱ほばしらの下に、宰相が座っている。


「だいじょうぶですか」

「じゅうぶんに休んだ。もう問題ないわい」


 宰相の声が返ってきた。うす暗いなかで表情までは見えない。


 この帆船に乗りこむさい、さきに乗っていた宰相の姿にはおどろいた。


 聞けば、一日目の夜に港まできていたらしい。宰相の移動を手伝ったのは諜知隊だ。


 その諜知隊をひきいる鳥人の軍参謀は、舳先の近くで手すりによりかかっている。そこまで歩き、となりに立った。


「ヒュー、ぼくはボンフェラート宰相が心配だよ」


 小声で言った。風は南からで、強い追い風だ。風下にいる宰相には、ぼくらの会話は聞こえないだろう。


 ヒューは表情を変えず、ぼくを見た。


「この戦いは、それぞれが戦うべき理由がある」


 そう言われると、返す言葉がなかった。むかっているアグン山は、ボンフェラート宰相の故郷でもある。


 ヒックイトの里が、いまどうなっているのか。いってみないとわからない。


 ラティオの心境はどうだろうか。そう思い近くにいる猿人の顔を見た。


 猿人の軍師は、いつもと変わらない顔で、すすむ運河のさきを見つめている。


「アト、眠くなったら寝ろよ」


 ラティオの言葉にうなずく。休みなしに走らせると聞いていた。


「昼に走らせて、敵に見つからないかな」


 単純な疑問を聞いてみた。


「北上する大船団だ。岸辺につけて休んだところで、どうやっても目立つ」


 ラティオの言うとおりだった。うしろの運河を見る。ぶつからないよう距離はあけているが、何十もの小舟が帆走はんそうしていた。


「それに、見つかっても問題ねえ。こっちは船だ」

「そうだった。敵に見つかっても、敵の早馬がバラールに着くより早い」

「ああ。明日のいまごろが、バラールだ。夜の闇にまぎれ、敵が気づくまえに、かすめて通るぜ」


 この遠征、早さが肝だと軍師は言っていた。そしてバラールのわきを通るときが、最大の難所だとも。


「敵が攻撃してきたら?」

「この船のへりを見てみろよ」


 ラティオに言われ、船のへりに目をこらす。暗がりで気づかなかった。不気味なものがある。


「人の大きさの人形?」

「布にわらをつめて作った。あれをいくつも甲板に立てる。夜に遠くから見れば人だ。敵の目が集中するあいだに、おれらは小舟で脱出ってわけだ」


 なるほど。なぜこの大きい船をつかうのか疑問だったが、さすがラティオだった。


「ケルバハンさん自慢の船に、申しわけないな」

「ああ? 道具だろ。つかってこそだぜ」


 この軍師にかかれば、最速の帆船も関係ないようだ。


 だがその最速という説も、あやしくなってきた。船団の先頭を走る船に、追いついてくる小舟があった。


 たくみな操船だ。一定の距離をあけて併走している。


「船速を落とせ! まえの漁船に、水路をあけさせる」


 声が聞こえた。デアラーゴ隊長の声だ。


 船のへりに身を乗りだし、見おろしてみる。やはり近くにいる小舟をあやつっているのは、歩兵七番隊長だ。


 こちらの船乗りたちが動きだす。


 船乗りたちは、甲板に止めてある縄のなかから、いくつかを引っぱった。


 風をはらむ大きな二枚の横帆。その上側の一枚がしぼんでいく。


 帆船の速度が落ちた。デアラーゴ隊長があやつる小舟が追いこしていく。おどろくことに、たったひとりで小舟をあやつっていた。


 運河のさきに目をうつした。たしかに夜の漁と思われる明かりが、いくつも見える。


 デアラーゴ隊長の小舟が、その明かりに風のような速さで近づいていく。


「あの隊長、自分で剣の腕は二番と言ったが、船の腕は一番だぜ」


 ラティオが感心したように言う。ぼくは反論してみたくなった。


「ケルバハン総督が聞いたら、きっと怒るよ。おれが一番の船乗りだって」


 ラティオがふり返る。ぼくもふり返った。たくさんの小さな灯りの群れ。ボレアの港が遠のいていく。


「あの熊野郎が一番なのは、酒の強さだけだろうぜ」


 ラティオの軽口に笑おうかと思ったが、笑うのをやめた。ボレアを見つめるラティオの顔が、思ったより真剣だ。


 ぼくと、気持ちはおなじなのだとわかった。


 王都レヴェノア、ボレアの港、そしてこれからむかうアグン山。どれもこれもが心配だ。


 あせる気持ちとは裏腹に、いまは遠のく港の灯りを見つめるぐらいしか、することはなかった。

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