第315話 勝利の酒場
二日にわたる遠征が終わった。
アッシリアの
兵士の疲労は濃い。さっさと帰るつもりが、さらに疲れるはめになる。
天候が崩れた。ぬかるむ雨のなかを帰るのに、まるまる三日もかかった。
ゆいいつの救いは、
兵士も隊長たちも、濡れた服と甲冑を引きずるようにして、王都レヴェノアの城壁をくぐった。それでも、まずは負傷兵を治療所に運ぶ。
そのあとおれは王の城にある浴場で、戦いの汚れを落とした。
城の一階、大きな扉から外へでてみると、すでに日は暮れていた。
「王様は、街へいったか?」
門衛に聞いてみる。
「さきほど、王の酒場へいかれました」
予想どおりの声が返ってきた。
長い階段をおりていくと、うしろから走ってくる足音がする。ふり返り、追ってきた姿にあきれた。
「なんだ、セオルス。もう諜知隊をやめたのか」
軍から諜知隊に移動した犬人。そして亡くなったリオルスの兄だ。
「ヒューデール軍参謀よりの命令です。しばらく軍師を護衛しろと」
ヒューの差し金か。このレヴェノアに敵の密偵が多く入っている。おれの身を案じたか。
ふたりで階段をおりる。ふと気づいたことがあった。
「ヒューの姿を見ねえな」
レヴェノアの街に帰ってから、いちども見ていない。
「軍師なら申しあげてよいと思いますので、答えます。いま軍参謀は、ブラオ隊長と行動をともにしております」
歩兵三番隊の隊長だ。理由が見えなかった。
「さて、相手はブラオか。フィオニ夫人という良妻がいるので、逢い引きするのも考えずらい」
セオルスはあきれた顔で、おれをながめた。
「ありきたりな冗談をさらりと言う。さすが智愛の雄です」
「嫌味な野郎だな」
悪口を言ってみたが、セオルスは怒りもせず言葉をつづけた。
「それはさておき、ブラオ隊長のほかもおります。協力いただいているのは、あの戦いで生き残った方々」
階段をおりる足を止めた。ブラオがいて、あの戦いの生き残り。
「三つ子山の包囲突破戦か!」
セオルスはうなずいた。
「あの山に、レヴェノアへ潜伏していた密偵があつまりました。戦ったブラオ隊長ほか四十八名の方々は、街をそれとなく歩いております。かたわらに諜知士をつれて」
なるほど。おぼえている顔を諜知隊にそっと教えるのか。ヒューのことだ。すぐには捕獲せず、泳がせておくのだろう。
「おれも生き残りのひとりだ。協力すると、ヒューに伝えておいてくれ」
「はっ。お伝えしておきます」
また階段をおり始めたが、雨もふってきた。
「まる二日もふったのに、まだふるか。いまいましい雨だな」
「はい。泥のような道で荷車を引くのが、あれほど大変とは」
このセオルスも帰路を手伝ってくれた。かなり激しい雨のなかだった。輜重隊だけで荷車を引けるわけもない。兵士や諜知隊も、みな総出になって荷車を押して帰った。
「おれは、王の酒場まで走るぞ」
「はっ」
セオルスは短く答えた。やはり、もとが軍人だ。おもしろい性格をしているが、いそぐときなどは答えが簡潔になる。
雨のなかを走り、王の酒場につく。
重い木の扉をあけると、さわがしい声と匂いが襲ってきた。
「すごい人ですね」
うしろからセオルスの感想が聞こえた。
店内は満員だ。それも酔っぱらった者ばかり。どの酔っぱらいも、どこか顔におぼえがある。レヴェノア軍の兵士ばかりか。
店の奥を見た。建国の食卓にアトがいる。あそこは奥まった席なので、いちばん手前の
「ラティオ軍師、私は入口のあたりにおりますので」
セオルスにむけて手をあげ、わかったと
建国の食卓へとむかった。
食卓のいちばん手前にアトは座っているが、そのむかいには若き秀才の犬人がいた。
おれの姿を見たイーリクが、ひとつ奥の席に移動する。ゆずられたので、おれが王のむかいに座った。
「おつかれさま、ラティオ」
「おい、アト。まだ足首は完治してねえだろ。酒を飲んで平気なのか」
アトのまえには木杯があった。
「だいじょうぶだよ、痛みはない。でも店主のヘンリムさんは、ゆるしてくれなかった。この杯に入っているのは
アトが大声で答えた。店内のさわがしさで聞こえずらい。
しかし、酒場の親父が王へ注意するか。めずらしい国になったもんだ。
「イーリク、歩兵のほうの話を聞かせてくれ」
騎馬隊と歩兵隊は、帰る道が別だった。
敵の歩兵と、こちらの歩兵で戦闘があった。そう諜知隊からは聞いている。雨のなか帰るのに必死で、くわしい話はまだだった。
「たいした話はそれほど」
イーリクは肩をすくめ、話し始めた。
「やはり、アッシリア王都の歩兵。きちんと調練をしていないのでしょう。あまりに弱い」
この精霊隊長は、かつてはコリンディアの街で歩兵の副長だ。アッシリア王都は、ウブラとの
「森をぬけた荒野で、敵の歩兵は待ちかまえていました」
「敵もふたつに分かれていたはずだ。まとまってきたか」
「いえ、最初はひとつ。のちほど遅れてもうひとつが」
遅れてきたほうが、夜襲をかけたほうだろう。
「さらに、そののちナルバッソス殿の第二歩兵師団も到着しました」
ナルバッソスらは、かなり予定より遅れていた。それが間にあったのなら、その働きは輜重隊。あの荷役が得意と言っていたデルミオのおかげか。
「最終的には、敵の歩兵は一五〇〇〇。こちらが一二〇〇〇。数ではこうですが、それほど激戦になるでもなく、およそ半数は
イーリクは相手が弱いと言ったが、それも正確ではない。この国の歩兵は強い。
メドン騎士団と一回目の戦いでは、新兵との混合だった。それに敵のメドンも特殊すぎた。力のだせる状況にしてやれば、わが国の歩兵は強い。
さらに戦いのようすを聞きたかったが、兵士らしき一団が王にあいさつをしにきた。
十人ほどいる。犬人と猿人で、服装は市民と変わらないが、からだつきは歩兵だろう。たくましい腕や胸板をしていた。
歩兵の十人は、王のまえに片ひざをつく。王も手をあげ、ほほえみを返した。
帰りぎわに十人は、イーリクにも目礼を送ったのに気づいた。
「歩兵一番隊か」
「そうです」
今回の戦いでは、死んだドーリクの替わりにイーリクが一番隊をひきいた。
「軍師のせいで、この酒場の席がひとつ、減りましたよ」
イーリクの言葉に店内を見まわす。
店内は満席だが、だれもいない壁ぎわの席だ。その壁には、ふたつの剣がならぶ。
食卓の上には、いくつもの木杯が置かれてあった。数日前に、おれが置いたのはおぼえている。それから恒例になったか。
ドーリクで思いだしたこともあった。おれはむかいのアトを見た。
「あやまらなきゃ、いけねえことがある」
「ボルアロフのこと?」
「そうだ。ネトベルフ、フラム、グラヌスは知っていた」
「では、知らなかったのは、ぼくだけだ」
そう、みなで議論した。わが軍の騎馬隊とメドン騎士団の戦いについて。
だが、奥の手があった。ボルアロフの百騎による突撃だ。そのなかに、さらにグラヌスによる一撃もねらう。この手は王であるアトが帰ってから、話しあった。
「まえの戦いで、メドンはフラムの百騎にいらついたことだろう。包囲殲滅をねらうはず。そして騎士団は、おもわぬ長駆けをさせられ疲労もある局面。グラヌスは、ここ最近、鉄の棒をふりまわしているからか、剣の速さがあがった。うまくいくと思った」
説明をしたが、言い訳をしているような気分になった。
うまくいくと思ったが、どこかで百騎が全滅するとは思わない自分がいた。半数ほどの死でいける。それはやはり甘い読みだった。
アトは木杯をつかむと、ひとくち飲んだ。そして手のなかの木杯を見つめる。しばらく見つめて、木杯を置いた。
「そうだな。知っていたら反対したと思う」
「アト、その意見は正しい。すべては軍師であるおれが勝手にやった」
ふたりの会話に、イーリクが身をよせてきた。
「王よ、あれは、ボルアロフ殿が持ってきた話。軍師の勝手というのも」
イーリクが話す途中で、アトはうなずいた。
「賛成はしないと思う。でも、みなにつらい決断をさせた。そのぐらいのことも、わかる
アトの言葉に、イーリクと見あった。おそらく思ったことはおなじ。少年は大きくなった。そしてその人生は、なかなかに
「ぼくは王だ。王が弱音を吐くべきではない。けど、ボルアロフに会いたい。そしてドーリクに会いたいよ」
返す言葉がなかった。
ふんぞり返っていれば、王ほど楽な地位はない。だがまじめにすればするほど、重くのしかかってくるだろう。この王のために人は死に、その死を王は背負っていく。
「あいつのことなど、忘れてしまえばいいのです」
だれがきたかと思えば、食卓のまえに立っていたのはネトベルフだった。
王がネトベルフにむかってたずねた。
「ボルアロフの遺体は?」
「持ち帰る手段がありませんので、森のなかに埋めました」
あのあと、このネトベルフが生死の確認をしにいったのはわかった。遠征での死が気の毒なのは、これだ。遺体を持ち帰れない。
「ぼくは忘れることはないし、忘れたくない」
「なら、たまに思いだしてやってください。そのぐらいで、やつはよろこびます」
王は、すこし笑顔を見せてうなずいた。となりの席に手をかけて引く。
「ふたりの若かったころの話を聞きたい。よければここに」
ネトベルフは腕をくみ、引かれた席を見つめた。
「建国の食卓、さらには、王のとなりですか!」
熟練の騎兵、それが驚嘆の声をあげたのに笑えた。
「ネトベルフ殿、別に椅子は馬より噛みつきませんよ」
イーリクも笑っている。アトがなにか気づいたように声をあげた。
「そうか、ボルアロフの若いころも聞きたいし、ドーリクの子供時代も聞きたいな」
フーリアの森で育った幼なじみ、イーリクはひたいに手をあてた。
「それはご勘弁を。はずかしい私の子供時代とおなじ意味になります!」
おおげさなイーリクの言葉に笑えた。
みなが、明るくふるまおうとしている。ここは酒場だ。それが正しい。
入口でこちらを見る視線に気づいた。視線を送っているのは、ここまで護衛でついてきた諜知士のセオルスだ。おれになにか伝えたいのか。
「すまん、おれは用がある」
アト、イーリク、ネトベルフに声をかけて席を立った。
「軍師、これを」
ネトベルフがなにか、腰から引きぬいた。
おどろいた、おれの
「どこでこれを?」
「騎馬隊の者が見つけ、ひろっていたようです。わたしてくれと」
戦場であせりのあまり、投げ捨てていた。
「反省の教訓として、持っておくか」
おれの言葉にネトベルフは小首をひねった。それには答えず、馬鞭を受けとる。
「ネトベルフ、
「なに。やつにおごっても無駄。私の酒では、にこりともしません」
「では、ぼくが
アトが酒場の女給を呼んだ。ふたりか。イーリクのまえにあるのは木杯だった。
王の言葉を聞いたネトベルフは、天井を見あげた。そして、ひとつ大きく息を吐いた。込みあげてきたものを我慢したか。おれもアトも、イーリクもなにも言わなかった。
ネトベルフはしばらく天井を見あげていたが、顔をおろした。それから王のとなりに座る。
おれは酒場の入口へとむかった。
入口に着くとセオルスが、おれの耳に口をよせてくる。
「ヒューデール軍参謀が、城にもどられたようです。諜知隊の仲間が知らせてきました」
おれも城にもどるか。王であるアトは、まだしばらくいるだろう。
「グラヌス総隊長の姿がありませんね」
セオルスが聞いてきた。
「あいつは治療所だ。最後の一騎打ちで、メドンの首を斬ったが、自身も腕を斬られた。それほど深い傷ではないが、治療所でほかの兵士とともにいる」
王の酒場をふり返った。多くの兵士で満席だ。そのひとつにマニレウスとコルガがいる。ふたりの席には、あきれるほど多く陶器の杯がならんでいた。ふたりとも豪快に笑い、
「よし、もどるか」
王の酒場をでると、雨はより激しくなっていた。うしろにセオルスがついてくるのを確認しながら、おれは王の城へと走りだした。
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