第306話 暗闘
歩兵隊の野営地を背にして森へと歩いた。
おれは用を足しにでもいくように、悠々と歩いて南側の森へ入る。
広場の動きが見えるように、草むらに身をふせた。
「軍師、百名は?」
背後の暗闇から声が聞こえた。諜知隊のセオルスにちがいない。
「これからくる。そっちはどうだ?」
草が動く音がした。そう思った矢先に、セオルスは足音をさせず駆けよってきた。この動き、やはりたいしたものだ。おれのとなりにしゃがむ。
「ほかの諜知士は、敵の斥候を見はっております。問題はないかと」
それだけ言うと、セオルスは野営地へと目をむけた。
「一番隊から七番隊。各隊が千名ずつです。七千人から百人を引きぬく。敵の斥候に気づかれなければ、よいのですが」
もと軍人の諜知士を、おれはあきれた顔で見た。
「おい、おれは軍師だぜ。数は知ってる」
「そうでした。すこし緊張をしているのか」
セオルスが緊張するのもわかる。この策のために、裏では諜知隊の多くが動いていた。それが敵の斥候に気づかれてしまえば、すべて台無しとなる。
「まあ、手は打った。あとはながめて待つだけだな」
野営地を見つめた。中央に人があつまり始めている。
ぱっと、明かりが大きくなった。だれかが、たき火を蹴ちらした。
「なんだと!」
「この野郎!」
騒ぎが起きていた。
「軍師、これは」
青ざめた顔で、セオルスが聞いてきた。
「二番隊のマニレウス、それと六番隊のコルガ。これの
「軍師、いったいなにを!」
セオルスは言いかけたが、また怒鳴る兵士たちの声が聞こえてきた。
「双方、やめい!」
若い声だった。ここから顔は見えないが、だれかはわかっている。
「このイーリク、こたびの遠征軍指揮官として命ずる。争いをやめられよ!」
ふたつの集団がにらみあっていた。コルガの百人と、マニレウスの百人だ。
「軍師、ひょっとして」
「ご明察。これはすべて仕込みだ。イーリクにも、マニレウスにも、さきほど話をして協力してもらうことになった」
そう、ここの組の総指揮はイーリクだ。怒る役は苦手だとしぶったが、なかなかさまになっている。
「イーリク歩兵一番隊長よ、ふっかけてきたのはコルガぞ!」
マニレウスの怒声が聞こえる。あの太っちょは、この策を説明したら嬉々としてやりたがった。
「コルガ隊長、そしてここにいる六番隊の兵士に命ずる!」
イーリクの張りあげた声が聞こえた。
「軍規を乱した罰として、火にあたることを禁じる。ゆるしがでるまで、森のなかで見はりの任をせよ!」
片方の百名から声があがった。反抗の野次を飛ばしているので、コルガ隊のほうだろう。
「口をつつしめ! 文句があるやつは、この
ここからでも、イーリクが集団に
しぶしぶ、といった動きで百名の集団が動きだす。
「ぐ、軍師、これは目立ちすぎでは!」
となりのセオルスが押し殺した声で聞いてきた。
「まだここからだぜ。コルガたちの動きを見ろよ」
イーリクに場を追放されたコルガたち百名は、全方向にむけ、ばらばらに歩きだした。
「な、なるほど、敵の斥候ならば、これはたまらん!」
押し殺した声だが、セオルスが声を漏らした。
そう、敵の斥候は見つかってはいけない存在だ。敵に見つかれば捕まってしまう。
「いま、あわてて敵の斥候は距離をとるために後退してるだろうぜ。何人いる?」
「八名です。二名の組が四つ」
では、この策が正解だろう。八人の目をかいくぐって百名がぬけるのは不可能だ。ならば堂々とでていく。
「野営地の外にでたら、まわりこんでこっちにくる
セオルスがうなずいた。
「いったんは、敵の斥候もかなり離れるはずです。そのすきに、ここをでれますね」
待っていると、次々に人の影があらわれた。
おれはしげみから立ちあがり、近づいてくる人影に手をふる。
待つほどでもなく、森のなかに百名の歩兵があつまった。
「いいんですかね、こんなに目立っちまって」
聞いてきたのはコルガだ。
「いま、周辺を諜知隊の者がさぐっている」
そう答えている間に、セオルスが帰ってきた。
「敵の斥候はおりません」
「よし、もどってくるまえに、いこう」
「では、私についてきてください」
先頭をセオルスが歩く。
暗い森のなかを長い列になって歩いた。
だれも会話をすることもなく、黙々と歩く。
一刻か二刻か歩くと、また前方に人の集団と思える明かりが見えた。
街道をつたっていけば遠いが、森を最短で歩けば思ったより近い。
そして、このあたりは村も町もない地域だ。こんな
「あつまってくれ」
おれは周囲にむけて小さな声で言った。おれのまわりに、コルガ隊の百名が密集する。
兵士たちの身なりを見た。暗闇でもなんとか見える。さきの野営地ですでに指示は伝えていた。
「ではまず、片目をつぶってくれ」
おれの言葉に兵士たちは、すこしとまどっているようだ。説明をつづける。
「敵の野営におどりこむ。そのとき、たき火をまっさきに消す。ひとつも残すな。すると明かりを見ていた者は、まっ暗になる。そこで、つぶっているほうの目をあけろ」
うなずいていたり、納得の表情をしている者は、夜の行動になれている者だろう。
人の目は、すこしでも明かりを見れば、その明るさに瞬時でなれる。だがそのあと暗闇になっても、暗さにはすぐに目がなれない。
「たき火や、ランタンの明かりをすべて消す。これがもっとも重要だ」
「そのあとは、やりたい放題ってわけだ」
兵士のだれかが言い、押さえた笑い声が起きた。
「いや、そのあとすこし戦闘すれば、すぐに離れろ」
「敵を
聞いてきたのはコルガだ。この猿人は背が低い。暗闇でも、だれがコルガなのかわかった。その人影にむかって答える。
「このさきにいる敵の歩兵は七千ほど。すべて倒すのは不可能だぜ」
「しかし、もったいねえです」
「そうでもない。暗闇で同士討ちが始まる。こちらはそれを回避する」
コルガの人影が腕をくむ動作をした。
「見えないなか、敵味方の区別はどうするんです?」
「こちらは、つぶっていた目でうっすら見える。そこで判断するのが短剣だ。短剣を持っているのは味方と思え。長剣や槍なら、敵になる」
暗闇のなか、コルガの顔がなんとかわかった。納得のようすでうなずいている。
コルガは自身が得意とする鉄球の武具を希望したが、おれがそれを強く止めたからだ。いまはその意味がわかっただろう。
「短剣で襲ってきたら、どうするんです?」
コルガではない。ちがう兵士が聞いてきた。
「短剣を持つ者は襲うな。そう言っているのに襲ってくるなら、それは敵だろう」
「なるほど、そりゃそうか」
兵士たちを見まわす、すべての者は納得したようだ。
そして、ここからが諜知隊の出番だ。待っていると、周囲の暗闇にいくつかの人影があらわれた。
兵士たちが動こうとしたので、手をあげて止める。
「案内する諜知隊だ。十人ずつに分かれるぞ。それを諜知隊の者が先導する。敵の野営地でも斥候の何名かが周囲を見はっているからな。見つからないように動くぞ」
隊長であるコルガが動いた。十人づつの組ができあがっていく。
「たき火がひとつでも消えたら、それが合図だ。飛びだして、まずは敵の明かりをすべて消す。忘れるな」
歩兵たちがうなずく。諜知隊につれられ、一組、また一組と闇のなかに消えていった。
最後に残ったのは、コルガと十人の歩兵、そしてここまで案内してくれた諜知隊のセオルスだ。
セオルスとは別の先導する諜知隊の男がきた。いよいよ敵の野営地へと近づく。
あるていど近づくと、草むらのなかにかがんだ。ようすをうかがう。
「敵は警戒してねえようです」
コルガ隊長がふり返り、おれにむかって言った。
「では、おれといっしょに駆けて、いちばん近いたき火を消すぞ」
「軍師、馬鹿言っちゃいけねえ。軍師は待機だ。その腰にある尻たたき棒で、なにするつもりなんです?」
尻たたき棒とは笑える。そしてセオルスがおどろいた顔をしていた。おそらく、さきほどセオルスをおどした場面で、おれは剣を持っていると思いこんでいたのだろう。
「では、ひとはたらき、してきます」
コルガ隊長が腰の短剣をぬいた。その手に、なめし革でできた手袋をしているのに気づいた。
「手袋を持ってきてたのか」
「へい。火にかけている鍋などあれば、ひっくり返すのに便利なんです」
それは夜襲をしたことがないと、わからない知恵だ。
コルガがうなずく。流れ者だった。生きるためには、いろいろあっただろうと予想はできる。
「ではたのむ」
「へい。おまかせを」
コルガが走った。そのうしろを十人の歩兵も追って走る。
いきおいそのまま、コルガたちは近くのたき火を囲う集団に飛びこんだ。たき火を蹴ちらし火の粉が舞う。
敵の怒声が聞こえた。ひとりがコルガに組みつこうとしたのが見えた。だが倒れる。コルガが短剣を刺したにちがいない。
たき火のひとつが消える。いっせいに野営地の周囲から走る影があった。
ここは敵の野営地。そのいくつものたき火が消えていく。ランタンを割る音も聞こえた。刺された人の絶叫。
「敵だ!」
「夜襲!」
その声があがるころには、敵の明かりは数えるほどになっていた。
遠くに見えていた最後の明かり。それが消えた。あたりは暗闇に包まれた。それと同時に人の絶叫や怒鳴り声、いくつもの大きな声が聞こえる。
おれはその騒乱が渦巻く音を、離れた場所から、じっと聞いていた。
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