第305話 歩兵の野営地
暗い夜の森に入った。
「軍師の言われていたものです」
声がして、なにかを手に持たされた。
暗くて見えないが、これは事前に用意するよう伝えていたものだ。それをこの諜知隊の剣士が持ってきてくれたか。
「敵に見られないようにですか?」
「そう。おれの顔が、どこまで知られているか不明だ。しかし軍師が夜に動いていると気づかれたくない」
だがそれも不要だったか。遠くからでは人の顔などわからないだろう。それほど夜の森は暗かった。
さきをいく諜知隊の男は、嫌味な性格だと思っていた。そのわりにはやさしいようだ。なにも見えないおれを気遣ってか、ゆっくりと歩き始めた。
「軍師、目がなれたら知らせてください。そこからいそぎます」
「わかった」
まえから聞こえる足音をどうにか追いかける。二度ほど、つまづいて倒れた。
さらに半刻ほど歩くと、やっと目がなれて周囲がぼんやりと見えてくる。それでも人の顔までは見えない。黒い人影として認識できるていどだ。
「いいぞ、いそごう」
おれが言うと、さきをいく人影は早足になった。
かつておれは、アグン山という山奥で暮らしていた。夜の森には、なれている。そのはずが、諜知隊の男が歩く速さについていけなかった。
男は自分の庭を歩くようにすすみ、そして曲がる。おれとの距離があくと、立ち止まって待つ。それを繰りかえした。
夜の静けさのなか、枯れ葉を踏む音だけが暗い森にひびいていく。
「この暗さで、よくわかるな」
小さな声でつぶやいてみた。まえをいく人影が止まる。
「このあたりの森で、もう何日過ごしてきたか。昼も夜も、ひたすらに歩くのです」
そうか、輜重隊が物資を準備していたように、諜知隊も準備をしていたか。その準備とは、歩きまわり地理を頭に入れておくこと。
「軍師のおかげで、このあたりにくわしくなれましたよ」
それはこの策を考えたおれへの嫌味だろう。
「礼にはおよばねえさ。野宿するには、春はいい季節だしな」
人影が肩をすくめたような動きをした。また歩きだす。
それから二刻ほどは歩いただろうか。森のさきに明かりが見えた。
人がいるとわかる火による明かりだ。遠くの木々のあいだから、いくつもの明かりが見える。
おれが計画したことだ。あの集団がだれなのかは、わかっている。イーリクがまとめている歩兵一番から七番の隊だ。
まえをいく諜知隊の男が止まる。ふり返り、押し殺した声でささやいた。
「このさきに、敵の斥候がいます。大きく南へまわりこめば、気づかれることはないかと」
おれは暗闇でもわかるように、大きく首を縦にふった。
男が足音を消して歩きだす。おなじ動きはできないが、おれもなるべく音をさせないように歩いた。
諜知隊の男は、周囲に気を配っていた。緊張もしているようだ。それもそのはずで、ここで敵の斥候に見つかっては元も子もない。敵に見つからず道を案内するのが、この男の役目だ。
静かに歩く諜知隊の男に案内されて、野営地の南側までまわりこむ。諜知隊の男とおれは、草むらのなかにふせた。
「私は、ほかの諜知士と連絡を。軍師はどうされますか」
ほかの諜知隊もいるのか。まったく気配に気づかなかったが、思えば敵の斥候すら、どこにいるのかわからなかった。
「おれは野営地に入る」
「敵の斥候に見られませんか?」
「平気だ。用を足してもどるようなふりをする」
「承知しました」
諜知隊の男は、さきほどのような嫌味な態度ではなかった。切迫した状況では、簡潔にやり取りするのか。
「おまえ、ひょっとして軍人か」
聞いてみた。だが男は答えなかった。
これは、あやしむべきか。だが、わが国の諜知隊にアッシリアの密偵が入りこむ。それは不可能にも思えた。
「からだのどこかに、諜知隊の墨は入っているか」
これにも答えない。おれはゆっくりと腰に手をやったが、おれが持っているのは剣ではなく馬鞭だったと思いだした。
「おい、敵か、味方か」
「軍師」
押し殺した声で男は返事をした。
「よし、名を名乗れ」
「それは、ヒューデール軍参謀が禁じられて」
「答えろ。もしくは剣をまじえたいなら相手してやる」
「お待ちください」
「待たない。ドーリクが
「それは早い!」
思わず笑えた。
「なんだ、ほんとに味方か」
腰にさした馬鞭から手をはなした。ドーリクが酒を飲む早さを知っているのなら、レヴェノア軍の軍人でまちがいない。
「諜知隊に移動を願いでて、それほど間がないのです」
「なんだ、ヒューのやつ。そんな新人に重要な案内役をさせるのか」
「護衛をかねて、私がしろと」
なるほど、そういうことか。
「リオルスの兄、セオルスと申します」
どこかで聞いた名だと記憶をたどり、思いだした。
「グールの襲来をレヴェノアに知らして亡くなったやつか!」
その話は王都守備隊の副長であるオンサバロから聞いていた。リオルスという諜知隊の者が知らせにきて、そのまま力つきたと。
「はっ。それが弟です」
なるほど。レヴェノア軍にいたが、弟が亡くなり、みずからも諜知隊に入ったか。
おれは感心した。あれは冬の話だ。それからこの春のあいだに、こいつは諜知隊に入り、諜知隊の者として違和感がないほどの動きをしているのか。
「たいしたやつだな」
「それは、軍師のほうかと」
「あん?」
「さきほど殺気を感じました。しかしドーリク隊長の名をだされた」
あれか。とっさに考えただけだった。
「さほど危険も感じなかったからな。念のため聞いただけさ」
「あんな場でも、軽口をたたける。智愛の雄とは、恐ろしい」
そう言ってセオルスは、大きく息を吐いた。
「諜知隊として、度胸のなさを感じます」
「深刻になるなよ。まだ新人だろうに」
話を終える目的もあり、おれは野営地を見まわした。
「そろそろいくぞ。百名を引きつれもどる。ここでいいか?」
「はい。敵の斥候に気づかれないよう、お願いします」
「そいつぁ、むずかしい注文だな」
「智愛の雄でしょうに」
「いい調子だ。そっちのほうがいいぜ」
おれは草むらから立ちあがり、用を足したあとのように演じた。衣服をととのえながら歩く。
レヴェノア軍の野営地だ。たき火を囲う兵士たちを横目で確認する。
いくつかのたき火を通りすぎた。お目当ての男を見つけた。そのたき火に、なるべく自然な動作で腰をおろす。
深く頭巾をかぶっていたが、兵士のひとりがおれに気づいた。
「こ、これは軍師!」
おれは言葉を発した兵士を見つめ、自分の口をつまんだ。しゃべるなという合図だ。
「コルガ、元気か?」
となりに座る男に声をかけた。さがしていたのは歩兵六番隊長の猿人、コルガだ。
コルガはおれに顔をよせ、小さな声で返事をした。
「いつのまに、ここへ」
「暗闇のなか、歩いてきた」
「おれに用ですか」
「ああ、荒っぽいのを百ほど、用意できるか」
このコルガは、流れ者だ。だからこそ、荒っぽい連中とも仲がいいはず。
にたりと、コルガが笑った。歩兵の隊長をするぐらいだ。武の強さもあるが、頭が悪いとつとまらない。これからなにをしたいか、すぐにわかったようだ。
「そういう手は、しないと思ってたんですがね」
「だろう。だから根っからの軍人ではなく、荒っぽいのに声をかけた」
「いい
たき火を囲う兵士たちが、なにごとかと、おれらを見つめていた。
「おい、ついてくるか」
「た、隊長、なにするんです?」
「夜ふけに指揮官がきたんだ。そしていまは戦いの最中」
「わかりません。なんです?」
「夜襲に決まってるだろうが」
引くかと思ったが、そうでもない。その場にいた十人ほどの兵士は、みな暗く笑った。たのもしい限りだが、注意をうながす点もある。
「これは、ほかの兵士には言うなよ。おれらの王様は、こういう手を嫌う」
「敵の野郎どもには、汚い手なんざ、やられっぱなしですぜ」
コルガの言い分もわかる。このまえも、王であるアトが危険にさらされた。
「まあでも、そういう王様が、みな好きだろう?」
おれの問いに、たき火を囲う兵士すべてはうなずいた。
「だから今回だけ特別だ。協力してくれるか?」
「まかせてくだせえ。ここにいるやつらなら、腕もたしかです」
「よし」
おれは、ひとりひとりの顔を見た。みな真剣な目つきだ。
「アッシリアの歩兵を、狩るぞ」
場にいた兵士は、すべて静かにうなずいた。
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