第293話 イブラオの絆

 ブラオは葡萄酒アグルの瓶をとると、飲むかと思いきや木の封をさしこんだ。


 それから立ちあがり、手にした瓶は、おれへとわたしてくる。


「どこか、いくのか」


 瓶を受けとりながら聞いた。


「ああ。王のところへな。ばれているなら弟の話をしたほうがいいだろう」

「それは、おれからもたのむ」


 アトは、イブラオに背負われて逃げてきた。そのあいだで、ふたりがどこまで話をしたかはわからない。


 だが、アトの故郷や父と母を知るのは、いまではベネ夫人だけだと思っていた。それが三人もいたのだ。ブラオとイブラオ、それにフィオニ夫人。


「弟を看取みとった礼だ。その瓶の残りはやる」

「ブラオ、礼をもらう資格はない。おれのせいでイブラオは死んだ」

「ちがうな。まったくちがう」


 立ったままブラオは、おれを見おろした。自身のひたいに指をさす。


「弟のひたいには、ずるむけた傷があっただろう。あれは山で毒蛇にかまれたアトを背負い、ラボス村まで駆けおりたさいについた。斜面からすべり落ち、そこに太い樹のえだがのびていたそうだ」


 すべり落ちたのなら、背中のアトが下になる。手をうしろについてアトをかばったか。そこに枝。そのまま、ひたいで受けたというのか。


「犬人のラボス村。そこにアトを背負った弟だ。ひたいと、両手のひらから、血を垂れ流しながらな。ひどい騒動になったらしいぞ」


 それはそうだろう。犬人の村に、血まみれの猿人だ。


「ラボス村には、間が悪く兵士がいてな。剣をぬいてせまってきたそうだ」

「たぶんそれは、アッシリア王都の派遣兵だ」

「そうか。ではその派遣兵に、みずからも剣をぬいて止めたのが」

「アトの父、セオドロス」

「そのとおりだ。これを機にセオドロスは守兵長をやめさせられている」


 聞いたことのある話だった。アトの父は、守兵長だったが王都からの指示でやめさせられ、村長になったと。


「アトをイブラオが助け、また助けたイブラオを、父のセオドロスが助けたのか」

「そうだ。そして、セオドロスの家で手当てを受けたイブラオは、もうラボス村にはこないとちかった」


 おれは小首をひねった。父のセオドロスはイブラオの味方だ。


「ふしぎそうな顔だな。あのひたいの傷跡だ。弟はアトに見せたくないと思ったらしい。まあ、それよりセオドロスに迷惑をかけるのが理由だろうが」


 そうか、さきほどの話でフィオニ夫人の治療は半年ほどと聞いた。これは、そのあとの話だ。イブラオは、毎年の夏にラボス村近くへいっていた。大きな騒動を起こしてしまえば、そののちおとずれるのは無理な話か。


「去りぎわ、弟にセオドロスは声をかけた。なんと言ったか聞くか?」

「聞こう」


 アトを助けたとはいえ、イブラオは猿人だ。そもそもアトは人間族。異種族とここまで関わりがあると、このときセオドロスの立場は、かなり悪いと予想できる。


「弟が教えてくれた言葉を、そのまま引用しよう」


 おれはうなずき、つづきをうながした。


「あの子が大きくなれば、広い世界に旅立つことになるやもしれぬ。もし見かけたら、気さくに声をかけてやってくれ。初めて会うようなふりでもいい。あいさつでもいい。あの子にとって、見知らぬ土地でそれは、大きなちがいになるはずだ」


 おれは目をとじ、大きく息をついた。アトの父、セオドロスか。会ったこともない男だが、なにか圧倒されるものを感じて思わず目をとじた。


「この話をした意味がわかるか、ラティオ。弟は、おまえの失態で死んだのではない。おまえは、われら兄弟が焼け落ちたラボス村を見た気持ちがわかるのか。救えなかったやみの深さがわかるか。弟はアトボロスとセオドロス、そしてメルレイネ。三人の親子のために死んだ。それだけだ」


 目をとじたまま、おれはうなずいた。


 旧知の仲などではない。これは深すぎるきずなだ。


 天幕の布をはぐ音がした。目をあけると、ブラオはでていったあとだった。


 ブラオにもらった葡萄酒アグルを手に、おれも天幕をでる。


 山頂は、いくつものたき火で明るかった。そのうちのひとつ、兵士たちの輪に入り、たき火に手をかざした。


 兵士たちは、話をするでもなく、じっとたき火を見つめていた。ときおり、ぱちりと火がはぜる音がする。


 そして山のふもと、森の奥から人の絶叫が聞こえた。どこかの馬鹿が、山に入ったのだろう。


 落とし穴もあれば、飛んでくるくいもある。ありとあらゆる罠をしかけてあった。夜に山へ入れば、生きてはでられない。


 またちがう方向から絶叫が聞こえた。意外に敵は馬鹿が多いらしい。


 だが、兵士たちが無言で火を見つめる理由もわかった。ときおり聞こえる絶叫は、この山が敵に包囲されていることを意味する。


「こっち側でよかったな」


 ぼそりと、つぶやいてみた。


「ラティオ軍師、こちら側とは?」


 となりに座る兵士が聞いてきた。おれは手にしていた葡萄酒アグルの瓶をわたす。


「よいので?」

「ああ、ひとくちずつ、まわせばいい」


 兵士は瓶の封をぬき、ひとくち飲む。となりへ差しだした。となりで寝ころんでいた兵士が起きあがり、その瓶を手にする。


「ここにいる者は、すべて、生まれたときからレヴェノア国というわけじゃねえ」


 おれの言葉は当然で、レヴェノア国はあらたにできた国だ。まわりの兵士がうなずくのが見えた。


「どこかひとつ、歯車がちがえば、それこそいま山を包囲してる側かもしれねえ」

「われらは、運がよかったと?」

「ああ、そう思うぜ。明日をも知れねえ状況だがな。こっち側でよかった」


 これは本心だった。まえからそう思うが、ブラオの話を聞き、なぜかさらにそう思う。


 ザンパール平原で知った。おれは、まんまと敵の策にやられた。あれからどこか、しらけた自分を感じていた。


 アトを王にしたレヴェノア国は、このテサロア地方で栄光を駆け登っていくのではないか。そんなあわい想像もあったが、それは妄想だった。


 軍師としてはおれは、そこそこできると思っていた。だが、なにも見ぬけていなかった。そしていまも、負けつづけている。


 負けて得るものなど、なにもないが、ひとつわかった。それでも、こちら側でよかったということだ。


 また、ふもとから絶叫が聞こえた。


「馬鹿が多いな。おれが手塩にかけた罠だらけの山だ。ここまで敵はこねえ。みな、安心して寝てくれ」


 おれは頭のうしろに手をやり、寝ころがった。


「明日の朝は早いぜ。生きてレヴェノアに帰りたいなら、早く寝ろよ」

「軍師、明日は・・・・・・」

「おれが、どうにかしてやる。安心して寝ろ」


 根拠こんきょのない言葉だったが、兵士たちは安心したようだった。寝ころがる音が聞こえる。


 ひとりでも多くを、街に帰さないといけない。ひとつ大きく息をつき、おれは寝るために、まぶたをとじた。

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