第292話 遠い記憶

 むしろに座ったブラオは、いままでになく真剣な顔で口をひらいた。


「アトボロス王の父であるセオドロス、そして母のメルレイネ。おれにとっては、大恩人なのだ」


 つづけて語られた内容は、おどろくことばかりだった。


 ブラオの妻であるフィオニ。昔に流行はややまいにかかったと聞いてはいたが、それを治したのは犬人。それも、アトの母であるメルレイネだった。


 きっかけは、ブラオが治療師をさがしにバラールの都にいったことだ。そこでアトの父、セオドロスと会っている。


「あの当時、ヒックイト族の祈祷師きとうしは流行り病と言った。だが、メルレイネに言わせれば、まったくちがった」


 そういえば、昔には祈祷師がいた。知識もない詐欺師さぎしだと追いだしたのはボンフェラートだったか。


「それでも、重い病気ではあった。われら夫婦はラボス村に近い山奥に住んだ。そこでメルレイネから長きにわたり、妻のフィオニは治療をさずかったのだ」


 治療は半年ほどかかったとブラオは言う。癒やし手ケールファーベであるメルレイネから癒やしを受けるだけでなく、薬草などもせんじてもらったらしい。


「そのとき、すでにアトはいたのか?」

「そうだな、二足歩きを始めたころだ」


 なら、二歳か三歳か。


「治療のためとはいえ、犬人の土地だ。命がけだろうぜ」

「そうでもない。ラボス村から離れた山の奥に池があってな。そこの洞窟をつかえとセオドロスが用意してくれた」


 いろいろと、おれの頭によみがえった記憶がある。


 ブラオとイブラオ、この兄弟は始めからアトの味方をしてくれた。


「その恩があるから、おれがアトをつれていったとき、味方をしてくれたんだな」


 おれは納得して言ったのだが、ブラオはそれ以外もあると言う。


「セオドロスと、メルレイネ。ふたりはアッシリア国とウブラ国の大戦を経験している。そんなふたりが猿人のわれらに温かく手を差しのべた。あのときから、おれは種族のちがいなど、問題ではないと思い知らされたのだ」


 そうか。アトの父母ふぼは、二国間戦争の世代だ。


「アトの父母ができた人物との評判は聞いていたが、ほんとうなんだな」


 感心して言ったのだが、ブラオは笑った。


「そこだがな。ふたりから聞いたことがある。種族を気にしなくなったのは、異種族の子を育てていることも大きいと」


 セオドロスとメルレイネが育てた異種族の子。それはひとりしかいない。


「アトか」


 ブラオは大きくうなずいた。


「そういう意味で言えば、幼児アトボロスが存在したおかげで、われら夫婦が助かったとも言えるか」


 そう言ってブラオは笑うが、おれは笑えない。天幕の上を見て、ひとつ大きく息を吐いた。


「ほう、わが国がほこる軍師がため息か」

「ため息もでる。おれが見えていたものより、つながりは複雑だ。それは、おのれの小ささも感じさせる」


 おれの言葉に、ブラオは腕をくみ顔をしかめた。


「そう感じる必要はなかろう。人のいとなみだ。なにかしら、つながっていく」


 ブラオは、ずずいと顔をよせてきた。


「おまえ、狩りの基礎は弟に教わっただろう」


 おれはうなずいた。おれが十二歳のころだ。アグン山で狩りが一番と言われていたのがイブラオだった。


 動物の足跡や、ふんを見つけること。ねらう獲物の風下には立たないこと。これらの基本を教えてくれたのは、イブラオだった。


「弟が狩りを教わった相手は、セオドロスだ」

「なにっ!」


 ひとつついでに、まさかということが思い浮かんだ


「おい、待てよ。アトは狩りが上手だ。それは父親に教わったが、夏になると山からおりてくる木こりにも教わったと聞いたぜ」


 あんのじょうか。ブラオはうなずいた。


「それは、弟だ。妻が治療されてから五年ほどたったころか。あいつはふらっと会いにいき、それからは毎年夏になると、アトへ会いにラボス村へいっていた」


 五年後、ならば二歳だったアトは七歳か。


「大のおとなが、子供に会いにいくのか?」

「あのころヒックイトの里は、近くの山脈に住み着いた山賊と戦ってただろう?」


 それはおぼえている。おれが子供のころの話だ。


「弟は、ああ見えて繊細なやつでな。血みどろの戦いには飽き飽きしていた。気晴らしに、かつて出会った幼児の成長を見にいってみれば、子供とおとなだったが、みょうに馬があったらしいぞ」


 そうか。アトとイブラオ。毎年会っていたのなら、もはや幼なじみのようなものか。それでイブラオの背中で、アトはおぶさっていた昔を思いだしたというわけか。


「なんてこった。イブラオは一番か二番の古参じゃねえか」


 これはもはや、おどろきもするし、あきれる。


「なんだその、一番の古参とは」


 おれのつぶやきにブラオが聞いてきた。


「くだらねえ話だが、アトボロス王の臣下になった順番さ」

「それは、たしかに、くだらんな」


 おれより年上の猿人も、おなじ感想のようだ。


「だがなブラオ、けっこうこの手の話は兵士が好む」

「なるほど」

「負けず嫌いのドーリクあたりも、酒場でよくする話だしな」

「ほう、そうなると、おもしろくなってきたな」


 なにを思ったか、ブラオは自身の荷物袋をごそごそやりだした。


「よし、いいぞラティオ。くわしく話せ」


 ブラオが袋から取りだしたのは、葡萄酒アグルびんだった。


「あきれた、飲むのかよ」

「よい酒のあてになるわ」


 敵に四方をかこまれた山のなかだ。あきれていたが、ブラオは瓶にしてある木の封を歯で引きぬくと、ひとくち飲んだ。


 おれも飲んでいいという意味だろう。むかいあう中間に瓶を置いた。


「そもそも、論じるまでもなく、一番はグラヌス総隊長。ちがうのか?」


 ブラオの問いに、おれは首をふった。


「負けずに嫌いのドーリクが言うには、コリンディアの街でアトを見たのは、自分のほうが早かったと言っている」


 おれも見た話ではないが、兵士たちから聞いた話だった。


「コリンディアにある訓練場の外、騒ぎの音がしたそうだ。見れば、おとなたちに猿人の子どもが捕まっている。それを見たドーリクが、となりにいた当時の隊長、グラヌスに言ったそうだ。隊長、あそこに猿の子供がいますと」


 考えるように眉間にしわをよせ、ブラオは葡萄酒アグルの瓶をとった。


「最初に見た順なのか。そこまで言いだせば、ザクト殿が最初だろう」


 そのとおりだ。亡きザクト、五英傑ギルザは、アトの父セオドロスの親友だった。ラボス村がグールに襲われるまえから、ザクトはアトに会っている。


「そう、だからドーリクも自分が一番とは言ってねえ。だが二番だと主張している」


 ブラオは笑いながら葡萄酒アグルを口に入れた。


「なるほど。そこへわれらがいた。というわけか。さて、ザクト殿はアトボロス王の幼児期に会っているのか。会ってなければ、われら兄弟が一番と二番か」


 まんざらでもない、という顔でブラオは葡萄酒アグルの瓶をあおった。だが大きくひとくち飲むと、逆のことを口にした。


「いや、おそらくザクト殿が一番か」

「なんでだ。なにか知っているのか」

「そうではないが、思いだした」


 ブラオはまた、遠い記憶をさぐるように目を細めた。


「幼いアトボロスに会ったのは、弟のほうがさきだ。おれはメルレイネに教えられた薬草をさがしにでていた。そのあいだに、セオドロスがつれてきたのが、幼いアトだ。帰ったときには、弟が肩車をしていてな。おどろいたわ」


 当時を思いだしたのか、ブラオは口のはしで笑った。それでも、おれは意味がわからなかった。


「それだと、ザクトが一番になる理由にはならねえだろ」

「いや、ザクト殿が一番、弟が二番。こう思うと、死ぬ順序とあっているだろう。おお、そうなると、次はおれか」


 血の気が引いた。


「ブラオ、縁起が悪いぜ。冗談でも言わないほうがいい」

「なんだ、軍師ともあろう者が、縁起を気にするのか」


 縁起など気にしたことはないが、物騒すぎる冗談だった。

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