第267話 歓声と静寂
「まさか、王が歩いてこられるとは!」
頭上から声が聞こえた。
だが急に暗闇から明かりの下にでたため、視界は真っ白だ。
まぶしくて目を細めていたが、やがて周囲が見えだした。自分たちが歩いていたのは、石積みで造られた水路だ。
水路の壁は高い。自分の背丈をこえる高さだ。
声はその上からだった。こちらをのぞく人影がある。かなり高齢の犬人が、おどろきの顔で目を見ひらいていた。
「石匠のワムさんだ」
うしろを歩くアトが教えてくれた。
「ざぶざぶと、人のくる水音。敵が侵入してきたと思いましたぞ!」
老人の手には剣があった。その姿が奥に消え、ふただびあらわれる。にぎった手のなかに見えたのは、太い縄だ。
すでに縄はどこかへ結んできたようで、反対のさきを水路へおろしてくる。その縄をつかい水路の石壁をよじ登った。
登ってみてわかったのが、ここは貯水庫だ。いくつかの大きな区切りがあり、そこに水がたくわえられてある。
「いそごう。帰ってきたことを、みんなに知らせたい」
アトの声にうなずき、歩きだそうとしたが、ワム石匠が止めた。
「しばし、お待ちを! ほんのつかの
そう言うと、ワム石匠は老体ながらも走り去ってしまった。
取り残されたが、ここのことはアトが知っている。アトのうしろについて貯水庫の部屋をでた。
次の部屋も、大きな部屋だった。中央に井戸がある。そう思ったが、そこから
「井戸ではなく、
めずらしいものを見たが、アトはさきに進んでいる。追いかけ部屋をでると、地上へとあがる階段だった。
いくつかの階段をあがると、おどろくことに地上ではない。家のなかだ。柱と屋根だけがある家だった。
家の扉があいたので、とっさに
あらわれたのは、さきほどのワム石匠だ。そのうしろから、多数のご婦人たちも入ってくる。
「たのみますぞ!」
「おまかせくださいませ」
ワム石匠と婦人のひとりが会話をしている。なにごとかと確認するまえに、われら三人それぞれ、ご婦人たちに囲まれた。
「なにをされる!」
婦人のひとりが自分の顔に手をのばすので、思わずのけぞった。
「顔を、お
婦人は言った。かかっと笑い声がしたので、となりを見る。するとラティオも婦人に顔を拭かれていた。
ワム石匠が、自分のまえに歩みでた。
「この家の近所に住むご婦人がたです。王と重臣の帰還。それ相応の身なりをせねばなりますまい」
そう言われてみると、三人とも頭のさきから足もとまで、ずぶ濡れだった。昼夜問わず駆けつづけた衣服も、汚れきっていた。
あれよという間に、頭や腕の水滴はぬぐわれ、服も脱がされていく。
婦人たちの手には、手ぬぐいだけでなく、何着もの衣服があった。自分たちの大きさがわからぬので、家にあるものをまとめて持ってきたのだろう。
着替えなど自分でできる。その文句が言えなかった。婦人たちが目に涙をためていたからだ。
今日で三日目。長い長い夜を過ごしたにちがいない。戦いの音は市民の家にも聞こえたはず。
「もう、安心されよ」
自分に上着をかけ、前留めのひもを結んでいた婦人に声をかける。婦人は大きくうなずくと、一礼し、静かにさがった。
アトとラティオの着替えも済んだようだ。
三人でうなずき、自分を先頭にして家をでる。
家の外には、人があつまっていた。男ばかりのところを見ると、さきほど着替えをさせてくれた婦人たちの夫だろう。
「王だ、ほんとうに王だ!」
ひとりの犬人が声をあげた。
その声は大きく、まわりの家々にある窓があいた。扉をあける音も聞こえる。
「王が、ご帰還されたぞ!」
あっという
「王だ! アトボロス王が帰ってきたぞ!」
歓声につぐ歓声だった。よろこびのさけびが、ほうぼうであがる。
「グラヌス!」
まわりの歓声で気づかなかった。ラティオが大声で呼んでいる。
「おれは、アトを護衛して城壁にでる!」
「あぶなくないか!」
「敵に、王が帰ったと知らしめる!」
「なるほど!」
「おまえは、城に帰り、アトの居室に火を入れてくれ!」
王の城、その最上階。居室に明かりがあれば、それは王がいるという合図だ。
「よし、城はまかせろ!」
「たのむ!」
ふたりとわかれ、あつまった人の群れをかきわけた。
城へと走る。
白い
それでも、さきほどいた場所から離れると、戦時であったのが痛々しいほどに伝わってくる。
通りは静かで、物音ひとつしない。家々の灯火も、ひとつかふたつ
あれほど盛況だったレヴェノアの街が、敵の襲来で息をひそめている。
だが、この静まり返った街も、王の居室に火が
いくつかのかどを曲がり、まっすぐな道となった。東西の門をつなげる大通りへとでる道だ。
からだは疲れていたが、さらに走った。中央の広場が見えてくる。
駆けていた足をゆるめた。見慣れぬ光景がある。
静まり返った街、その中央にある広場だ。そこに、たったふたつだけ、椅子が置かれている。
ふたつの椅子には、どちらも人が腰かけていた。大きな広場に、ぴたりとならんでふたつの椅子だ。
近づいた。ひとりは、こちらを見ている。もうひとりは、うなだれているようだ。
さらに歩いて近づく。こちらを見ているのが、だれかわかった。話したことはないが、ユガリという名だったか。猿人の娘だ。
そうであれば、となりがだれか、おのずとわかる。
思わず足が止まった。よく知っている男だ。だがその男は、頭をうなだれたまま、動いていない。
静かに歩いた。音をたてて歩きたくなかった。ユガリという娘の顔が見えてくる。その顔は泣いていた。
ふたりが、手をつないでいるのも見てとれた。
歩いていく。
ふたりのまえで止まり、ひとりの男を見おろした。声をかける。
「王都守備隊長」
頭に深紅の布を巻いた猫人の男。経験の豊かな、もと傭兵だった。そして傭兵だが、おどろくほど繊細な指揮をする。
けっして多くを語るような男ではないが、強いまなざしをおぼえている。静かで武骨、そんな男だった。
初めて会ったのは、このレヴェノア軍の初陣だ。そこから傭兵隊長、そして王都守備隊長と、長くをともにしてきた。
われらの仲間、猫人のジバは、死んでいた。
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