第263話 王の背中は見えずとも
日が暮れるまで走り続けたが、アトの背中は見えなかった。
夜のあいだも休むことはなく、ひたすらに南へと歩いた。
夜が明けたころ、前方に、何頭かの馬が倒れていた。近衛隊が乗り捨てた馬だ。これまでに何頭もの倒れた馬を見てきた。
その倒れた馬をよけたところ、人も倒れているのを発見した。
近より、のぞきこむ。あおむけに寝ころがった犬人の男は、革の胸当てをしていた。盗賊が革の胸当てなどしない。近衛兵にちがいなかった。
「だいじょうぶか?」
男は胸を大きく上下させながら、自分を見た。
「グラヌス総隊長」
「アトボロス王は、まださきか?」
男はうなずいた。
「私には、かまわず」
男の言葉に、自分もうなずく。
もう自分に走る力はなかった。それでも歩くことはできる。近衛兵は置き去りにし、また歩き始めた。
いつのまにか日は昇り、いつのまにか昼になる。
歩いていくと、道ばたに倒れている者、しゃがんで座りこんでいる者。ぽつりぽつり、それが道ばたにいた。
さらに歩くと、集団のように倒れていた。
もう声をかけることはしない。すべて近衛兵で、なにか
「グラヌス総隊長」
自分の姿を見つけ、立ちあがる者もいた。だがそれも数歩と動けば、また倒れた。
助けることはしなかった。こちらも体力の限界は越えている。
ただただ歩いた。
いったい何人の倒れた近衛兵がいただろうか。数える気力もなかった。
それでも、アトのうしろ姿は見えない。
「さすが、われらが王よ」
みずからを
カルバリスの持論だったか、わが国で、一番強いのはアトボロス王であると。
強いのは、想いの強さだろうか。そうだとすれば、きっとアトが一番強い。
歩くごとに、倒れている近衛兵の数がすくなくなっていく。さらに歩くと、だれもいなくなった。
いや、最後に、ぽつんとひとりだけ、地べたに座っている者がいた。この者が、近衛兵でアトについていった最後になるのだろうか。
近づいて、その姿がはっきりと見えたとき、意外すぎる人物におどろいた。
「チャゴ殿」
いまはウブラ国によって港にされてしまった、ジャラクワの漁村。そこにいた老猿人だ。思わずそばに足を止めて見おろした。
老猿人は、足を投げだすように座り、道のさきをながめている。肩を上下にゆらし、呼吸は苦しそうだった。
「ここまでじゃ。もう一歩も動けぬ」
道のさきをながめながら、チャゴが言った。
「その
尊敬の念を伝えたいが、自分も息があがりきっており、うまく話せなかった。
「体術を教わった。それに手をぬくのも得意」
チャゴが言う体術とは、ヤニスのことだろう。
諜知隊が休むこともなく歩けるのは、特殊な体術をつかうと聞いたことがある。手のさきから足のさきまで、すべてを意識で
どこかを動かしながら、同時にどこかを休ませるとも。自分には、とうてい達していない肉体の動かしかただ。
「最後まで、ついていけると思ったがの」
くやしそうに道のさきを見つめるチャゴが言う。その最後とは、歩くことだけではないだろう。この者は、近衛隊なのだ。
「アトボロス王をたのむぞ、グラヌス総隊長」
いちども、こちらを見あげていない。それでも自分がだれか、わかっていたか。
「まかせられよ」
それだけ答え、老猿人をあとにした。
ただただ歩く。歩けばよいだけだ。
総隊長という役職は、一日のなかで、かなり歩く。あっちの隊に用事があれば、こっちの隊に用事がある。
それに、もと歩兵だ。コリンディアで十五歳から歩兵にいる。
一刻は歩いただろうか。うしろをふり返ると、もうチャゴ殿の姿も見えなかった。
道のさきを見る。アトの姿はない。
アトは、どれほど、さきにいるのだろうか。地平線を見つめ歩いていると、つまづきそうになった。あわてて足をだし、踏んばる。
ふいに目のまえが白くなった。落ちつけと、みずからに言い聞かせ、大きく息を吸う。
自分は総隊長だ。かならず王に追いつく。追いつかねばならない。
一歩、踏みだす。そして、もう一歩。
動きが遅い。
息は切れ、からだが自分のものではない、そんな感覚になり始めた。
「アトを守ると、誓ったはずだ」
声にだした。みずからに問うためだ。
呼吸が苦しい。苦しいが、これは呼吸だ。
アトの苦しみ。それとくらべれば、どうということはない。
いまアトは、グールに殺された人々の顔を思い浮かべ、歩きつづけているのではないか。両親、幼なじみ。王になってからは、兵士たち。
おなじ人間族だったという苦しみ。いまこそ、友であるこのグラヌスが、アトのとなりに立たねばならぬ。
はらに力を入れると、動きが速くなった。
さらに一刻、いや二刻ほどか、どれほど歩いたかわからぬほど、足をすすめた。
それでも、アトのうしろ姿はなかった。それでもよい。歩いていれば、いつかは見える。歩けばよいだけだ。
このグラヌス、どこまでも歩ける。
どこまでも歩ける。さきほど、そう思ったはずだ。気づけば地面があった。
自分は倒れたのか。からだをひねり、上をむいた。冬の曇り空が見える。やはり倒れたらしい。
起きあがろうと、はらに力を入れようとした。だが動かなかった。ならば腕、手をつこうとしたが、腕も動かなかった。
まだ王に追いついておらぬ。総隊長である自分は、かならず王に追いつくのではなかったか。
首に力を入れ、頭をもたげた。そして大きく息を吐いた。頭がすこし動いただけだった。
このていどか。レヴェノア最強の剣士などと
「うん!」
うなり声をあげて、からだを動かそうとした。だが、動かない。
「かはっ」
のどが張りつき、いっしゅん息が止まった。
なんと
からだが動かず、曇り空を見つめるだけになった。
しばらく曇り空を見つめると、涙があふれてきた。
アトに追いつけず、なにもできない。
いっそ戦場であればよかった。それならば敵の
諜知隊の副隊長だったヤニスは、役目をはたし、気力がつきた。
あのザクトもそうだった。敵のグールが退却したとの報が入り、初めてひざをついたと聞く。
それにくらべ、自分は、このていどか。
「動くと思えば、からだは動く」
かつてザクトの
それにヤニスの体術。手のさきから足のさきまで、意識によって御するのではなかったか。
目をとじた。涙がでるということは、自分には余力があるのではないか。指のさき。意識を集中した。動く。爪で地面をかいた。爪のあいだに土が入るのがわかる。
手をつくことはしない。腕の感覚。そして背中。それに、はらだ。すべてに、すこしずつ力は残っているはず。
すべてを連動させ、上半身を起こした。そうだ、起きれるではないか。
さらに、からだを曲げて手のひらを地面につく。それと同時に足。
流れるような動作で立ちあがった。立ったのなら、歩けるはずだ。
手のふりと足、それに腰もだ。一歩踏みだす反動にのせ、次の足を動かす。
すべてに糸が切れる寸前、そんな
歩くということに集中した。歩くほかは、自分の意識からは遠いものになっていった。
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