第182話 二度目のヒュプヌーン山

「流れのなかに、ただただ、ただようのです」


 ベネ夫人の声だった。私は、ヒュプヌーン山にある泉に半身を沈めている。


 となりからは、フィオニ夫人の息づかいが聞こえた。ふたりで泉に入り、癒やし手ケールファーベであるベネ夫人の指導を受けている。


 二度目のヒュプヌーン山だった。


 先日、犬人であるベネ夫人に、猿人のフィオニを紹介した。そのとき迷ったが、彼女の秘密も話した。


「よくぞ、わたくしに会いにきてくださいました」


 ベネ夫人は猿人であることには気にも止めず、彼女の手をにぎった。


「大先輩にそのような言葉をいただきますと」


 フィオニ夫人は声をひきつらせた。彼女にとって命の恩人である王母メルレイネは特別な存在。ベネ夫人は、その愛弟子まなでしともいえる。緊張するのも無理はない。


「いえいえ。大変うれしく思います。そうですか。このこと陛下は?」


 ベネ夫人から私に聞かれ答えに困った。フィオニ夫人も、おなじような顔だ。そんなふたりの顔を見て、ベネ夫人は顔をしかめ口をひらいた。


「いますぐ、とは申しませんが、いつかは陛下に打ち明けたほうがよいと存じます」


 言われていることはわかるが、私にはどちらとも言えない。彼女の夫であるブラオ歩兵三番隊長が口を固くとざしているからだ。


 だがベネ夫人の意見も正しいだろう。このベネ夫人とおなじように、アトボロス王も、よろこばれると思う。ブラオ、イブラオ、そしてフィオニ。生前の母を知っている者が三人もいたのだから。


 それから日をあらため、ここヒュプヌーン山にふたたびきた。


 前回に感じたような、どこまでも深く大きな精霊の巣は感じない。だが心が清められる、そんな感触があった。


「おふたりとも、目をあけて」


 私は目をあけ大きく息を吸った。樹々の葉をすりぬける風、山の静寂せいじゃく。いつもより景色が新鮮に感じた。


「ベネ夫人、精霊の巣にたどりつけませんでした」

「それは、めざすものではありません。精霊と意識を重ねていると、まれに遭遇します。ですが、そのときはすぐに逃げるのです」


 そういうものなのか。古い文献にも精霊の巣については存在するとしか書かれておらず、詳細をしるした書物に出会ったことはない。


「泉から、おあがりなさい」


 ベネ夫人に言われ、泉からでた。


「フィオニさんは、こちらへ」


 ベネ夫人とフィオニ夫人のふたりは、樹の根もとに座るフラムへと歩いていった。


 私はまだ、周囲の景色をながめるのに飽きなかった。山、その全体を感じているような気がする。


 この世の力をつかさどる精霊。まだまだ知らないことが多い。今日はベネ夫人に導かれたからか、私がまとう精霊の流れはきれいだ。おのれの力も強まっている気がする。


 緑葉のしげった大きな樹の上に、小さな鳥がいるのが見えた。かなり距離はあるが届きそうな気がする。古代語をとなえた。


氷結の呪文パーゴス


 最後の言葉をとなえると、小さな鳥は落ち、ばさばさと緑葉をゆらす音を立てた。


「イーリク様、力をすぐつかってみようとするのは、男の子の悪いところですよ」


 ベネ夫人に言われ、思わず肩をすくめた。私もフラムの座る樹の下へと歩く。


 泉で身を清めたフィオニ夫人が、フラム殿に水の癒やしをかけているところだった。


水の精霊よ命を与えたまえアルケー・プシュケー・ソーマ


 フィオニ夫人がとなえると、多くの水の精霊が若き犬人のからだへと入っていく。そして今回は、水の精霊がでてこなかった。体内にとどまっているのだろうか。


 次に、ベネ夫人がフラムの右足を両手で持ち、ゆっくりとすこし曲げた。


「ま、曲がる!」

「フラム殿、動かせそうか?」

「いえ、イーリク隊長。ですが、このひざが曲がったのは初めてです」


 そういえばフラムの右足は、いつも伸びた状態だった。


「おそらく、いびつな形のまま治癒したのでしょう」


 答えたのはベネ夫人だ。両手でフラムの足を持ち、すこし曲げた足を、今度はゆっくりと伸ばしていく。


 すこし曲げて、また伸ばす。何度か繰りかえしたのち、そっと地面に置いた。


「じっくりやれば、もっと曲げられるようになるでしょう」

「動くようになりますか?」


 フラムが真剣な顔で聞いたが、ベネ夫人は顔をふった。


「おそらく無理でしょう」


 それを聞いたフラムの顔は、あきらかに落胆していた。それでもつっぱった足ではなく、曲げることができるのなら自身の手で馬のあぶみには乗せてやることができる。


「ベネ様、要領がわかってきました。今後も引きつづき、わたしが」


 ベネ夫人はうなずいたが、なにか思い悩むように私を見た。


「彼女の資質は、やはり癒やし手ケールファーベであると感じます。精霊隊よりは、街の学舎にいかれたほうが」


 レヴェノアの街には、いくつか学舎がある。そのなかには精霊について学べるところもあった。うちにいる小さな兄妹で兄のほうのオフスもかよっていた。


「この歳で、若い子にまじるのは・・・・・・」


 言いにくそうにフィオニ夫人が言った。ベネ夫人より歳は下だろうが、若くもない。学舎にかようのは気恥ずかしさがあるのもわかる。


「では、どうでしょう。わたくしは侍女長の役職をいただいておりますが、ひとりではなにかと手にあまります。侍女として働き、隙間を見て、わたくしが手ほどきをするというのは」


 あきらかにフィオニ夫人の顔が輝いた。それもそのはず、侍女とは王の世話をする人のことだ。


「こうなると、王に真実を伝えるべきでは?」


 私はフィオニ夫人に言った。


「王の母メルレイネがひとりの猿人女性を助け、その彼女が侍女となる。それに夫は歩兵三番隊長、さらにその弟のイブラオは近衛隊にいるのです。これはもはや運命というやつでしょう」


 その助けられた猿人女性は考えこんだ。私とベネ夫人は見つめて待つ。だが彼女は、首をふった。


「夫のブラオから固く止められております。われらは影で支えるだけでよいと」


 本人たちがいやがるのを私が言うわけにもいかなかった。


 しかし、人があつまりにくい精霊隊の隊員が、これでひとり減った。いまの私は精霊隊長ではないが残念だ。かといって、彼女が侍女になるのは大賛成でもある。


「王に対し秘密をかかえるのは、心苦しいかぎりだが」

「イーリク様、いまその被害を広めておりますのよ」


 ベネ夫人の声に、よこを見た。フラムが口をあけて固まっている。


「フラム殿、他言無用にたのみます」


 若き犬人は、口をあけたまま大きくうなずいた。


 フラム殿を背中にかつぎ、四人で泉の森をでる。


 墓地を通りすぎようとしたとき、大きな墓碑のまえに人がいるのがわかった。犬人の男がひとり立っている。


 ここで会うとはめずらしい。


「モルアム殿」


 声をかけ、歩みよった。内通の罪で追放になり、ラウリオン鉱山で働いている者だ。


「イーリク隊長、おひさしぶりです。ご壮健そうでなにより」


 モルアムは私を見て、背中のフラムを見た。そして次にフィオニ夫人を見たとき、複雑な顔をした。そうか、この者も秘密を知っているか。


 レヴェノアの街で文官をしていたころとは、すこし雰囲気が変わっていた。文官というよりは武官に近い気配がある。


「ここでなにを?」


 たずねると、モルアムは墓碑にきざまれた名を見つめた。


「かつて、学舎でともに学んだ名が多くあります。たまには、たずねてやらないと」


 そうか、モルアムは生まれも育ちもレヴェノアだった。


 人は死ねば土にかえるだけ。そう思っていたが、すこし考えをあらためよう。本人は土に還るだけだが、残された者はそうではない。


「ここを墓地にしようと決定されたのは王だ」

「やはり、そうですか。おやさしい陛下らしい」


 モリアムはふり返り、遠くに見える王都レヴェノアに目を細めた。この山の高台からは、王都レヴェノアがよく見える。それもここに墓地を作った理由のひとつだ。


「思うより、進みが遅いですね」


 いっしゅん、なんのことかわからなかった。


「モルアム殿、城壁のことを言われておいでか?」

「そうです」

「私は早いと思うが」

「もうすこし、大きなうねりになると思いましたが・・・・・・」


 言われている意味がわからなかったが、モルアムは私たちに黙礼し、去っていった。


 

 

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