第181話 ヒュプヌーン山

 王都からほど近い小高い山、ヒュプヌーン山を三人で登る。


 登るのは三人だが、歩くのはふたりだ。歩けないフラムを私が背負っている。


「フラム殿、もっと肉を食うべきです」

「肉ですか」


 おとなを背負っているのに、なんとも軽い。いちど痩せ細ると、もとにもどすには長くかかると聞いたことがある。痛々しいような気分に襲われ、歩く速度をあげた。


 春らしい陽気さのなか、黙々もくもくと山道を登る。すこし汗がでるほど歩くと、上り坂は終わり、ひらけた場所にでた。


「これほど多くの人が、亡くなったのですね」


 うしろを歩いていたフィオニ夫人が、そう声を漏らした。


 なだらかな山の斜面に広がっているのは墓地だ。棚田のような段を作り、そこに小さな墓碑をならべている。亡くなった者の家族が希望すれば個別の埋葬をし、その上に小さな墓碑を置いた。


 遠くには大きな墓碑もある。まとめて名を書かれているのは、主に家族がいなかった者たちだ。


 フィオニ夫人が、なにかぶつぶつ言っているのに気づいた。ふせた半目の表情で、慰霊の言葉をとなえているのだとわかった。


 背中にいたフラムが、小さな声で私に耳打ちする。


「無礼な物言いをしますが、犬人が多く眠るレヴェノアの墓を猿人が祈りをささげる。よい国ができたものだと、いま、しみじみと思いました」


 まったくそのとおりだと、私も思った。


「フィオニ夫人、この奥に泉があります」


 口の動きが止まったのを見てから、夫人に声をかけた。


 三人で墓地を通りぬけ、木立のなかをしばらく歩く。鬱蒼うっそうとした森のなかにある小さな泉に着いた。


 太い樹の根元にフラムをおろし、私は透きとおる泉をのぞきこんだ。


 走って飛べば越せそうなほど小さな泉だ。だが水のにごりはなく底まで見える。水底で動いている丸い小石は、その下からこんこんと水がわいているのだろう。


「メルレイネ様がおっしゃっていたのは、半身を泉にひたし、意識を水に埋めていくと」


 水に埋めるか。おもしろい表現だ。


「やってみて、いいですか?」


 フィオニ夫人に治癒をしてもらうのが目的だが、アトボロス王の母が語った教え。私もためしてみたい。


 外着を脱ぎ、肌着だけになって泉に足を入れた。わき水なので冷たい。がまんして入ると、ちょうど腰ほどの高さに水面がきた。


 目をとじ意識を集中させる。冷たい水だ。いや、その冷たさのなかにも流れがある。


 流れは、わいてきた水が作った流れか。目をつむっているのに、さわやかな水色のなかにいる気分になった。その奥、もっと濃い青色が広がっている。


 気づけば、深い闇のなかだ。いや闇でもない。かといって光でもない。私の下に広がっているのは、巨大な、なにか。その表面はうごめいているようにも思う。


 その巨大な蠢きが私に手を伸ばし、私も伸ばそうとしたところで急に引っぱられた。


「目をあけて!」


 だれかのするどい声がした。目をあける。水面が見えた。なぜか、フィオニ夫人の肩にかつがれている。


 私の頭から多くの水滴が落ちる。おぼれたのか?


 かつがれたまま持ちあげられ、泉のふちに寝ころがった。


「イーリク殿!」


 フラムのさけぶ声が聞こえた。からだを起こそうとしたが、まったく動かなかった。


「忘れておりました。メルレイネ様は、精霊と心をかよわせてはいけないと」


 足のさきから頭のさきまで濡らしたフィオニ夫人が言った。私を助けるために飛びこんだのか。


 まわりの景色が見えてくるようになると、からだも動くようになった。私は起きあがり、そしてくるりと背をむけた。フィオニ夫人が外着を脱いでいたからだ。


「水の流れをさかのぼると、大きな大きな水の精霊がいると言っておりました。イーリク様、そんなものを感じましたか?」


 フィオニ夫人の言う意味はわかった。古い文献で読んだおぼえがある。


「感じました。あれが精霊の巣ですか」

「イーリク様をかつぎあげたとき、こちらにも入りこんできました。恐怖で身がすくむ思いです」


 怖いのだろうか。私には魅惑的に見えた。そう言おうとふり返ったが、フィオニ夫人は脱いだ外着をしぼっているところだった。あわてて首をもどす。


 白い上下の肌着だった。心のなかで夫のブラオ歩兵三番隊長に謝っておく。


「それでも、ととのった気がいたします」


 なんの話だろうかと思えば、フィオニ夫人がよこに立った。水をしぼった外着は着なおしたようだが、それでも全身は濡れていた。


 そして、からだに水の精霊をまとっている。たしかに、その精霊の流れはととのっていた。その反対に、私に流れる精霊は乱れている。


「いまのこれで、かけてみましょう」


 水に濡れた夫人がフラムへと歩いていくので、私も立ちあがった。


 ふたりでフラムが座る樹の根元までいき、夫人はフラムのそばにひざをついた。


「右ひざ、でしたね」


 聞かれたフラムがうなずくと、夫人は左手を投げだしている右ひざへ置いた。右手は、ひたいだ。文献で書かれていた方法とちがう。おそらくこれがアトボロス王の母、メルレイネのやりかたか。


 フィオニ夫人が古代語をつぶやきだす。まわりに水の精霊があつまりだした。


水の精霊よ命を与えたまえアルケー・プシュケー・ソーマ


 夫人が最後の一節を口にする。まわりにいた水の精霊がフラムのなかへと入っていった。これはかなり強い水の癒やしだ。


 からだに入った水の精霊が逃げていく。その本人は顔をゆがめた。


「フラム殿、どうかされたか」

「痛みを感じます。イーリク隊長」

「動くか?」


 フラムが自身の足を見つめた。


「だめです。まったく」

「だが、痛みは感じると」

「はい。うずくような痛みです」


 それは、いい兆候だと思われる。


「あまりつづけて、水の癒やしを受けないほうがよいでしょう」


 フィオニ夫人が言った。私もそう思う。立てつづけに癒やしをほどこすのは、死にひんしているときなど、切羽詰まったときだけだ。


「帰りに、痛み止めの薬草でも摘んで帰りましょう」

「フィオニ夫人、薬草の知識が?」

「病が治り始め歩けるようなったころ、メルレイネ様から教わりましたので」


 薬草、それで思いだしたことがある。まっさきに相談すべき相手だ。


「フィオニ夫人」

「なんでしょう」

「私たちの家に、侍女長としてベネ夫人というかたがいる」

「そのかたが、なにか?」

癒やし手ケールファーベ、王母メルレイネから教えを受けられたかただ」


 フィオニ夫人はおどろきの顔を見せたが、ぜひお会いしたいとも言った。ベネ夫人も歓迎するにちがいない。


 いちばん身近にいた癒やし手ケールファーベを忘れていた。それは私にフラムを助けよと命じたボンフェラート宰相も、忘れていたにちがいない。


 各地を飛びまわり、めったに家に帰らない宰相だ。無理もないが、ベネ夫人に忘れていたと話せば怒られそうだ。怒られるときは、ふたりいっしょに怒られよう。そう思った。

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