第165話 冬の水路

 アトボロス王がこちらにくる。


 おれは追放された身だ。席をはずしたほうがよいのかと考える間もなく、王と目があった。王が駆けてくる。あわてて、ひざをついた。


「モルアム!」


 駆けながら王が、おれの名を呼んだ。呼ばれるほどの男ではない。糞だめのような男だ。なにかこみあげてくるものがあり、おれは必死にそれをおさえた。


「モルアム、元気そうでなによりだ」

「はっ!」


 王がおれのまえにいる。顔をあげられなかった。


「立って欲しい、モルアム。話ができない」

「はっ。まだ罪もつぐなっておりませんので。陛下のお顔を拝するなど」

「言うたであろう、つぐないなど銅貨の一枚にもならんわ」


 宰相がそう言って、おれの頭をはたいた。


「ボンフェラート、たたかなくとも」

「王よ。こやつには、このぐらいでよいのです」


 王と宰相が話している。宰相の粗暴なあつかいは、逆にありがたかった。おれは顔をあげ、立ちあがる。


 宰相が、あきれた顔で王を見つめていた。


「さて、王よ、まさかアグン山にいくとは、申しますまい」

「ラティオが、いそがしくて帰れないんだ。ヒックイト族の危機。せめて、ぼくが帰らないとタジニさんに悪いよ」


 記憶の片隅にある名だ。文官がつかう資料で見た。タジニとは、軍師ラティオの母だったはず。


「なるほど、グールか。積荷がこないわけがわかった」


 つぶやいたのはケルバハンだ。


「船長」


 アトボロス王がうれしそうに呼んだ。ケルバハンは三角帽に手をやり、あいさつを返す。


「ヒックイト族の品だったのか?」


 となりに立つ熊人の船長に聞いてみた。


「そう。あそこの葡萄酒アグルは、南の国でも人気があってな。なんとか数を確保し、今回の積荷ではもっとも重要な品になる」


 アグン山の葡萄酒アグルか。バラール自治領はヒックイト族の入国を禁止したと聞く。皮肉なことに、それはヒックイト族の葡萄酒アグルを世に広めることになったか。


「では、みなでいこう。帰りの舟に葡萄酒アグルを乗せればちょうどいい」


 王は笑顔で言った。宰相が、おれとケルバハンを見る。


「軍師ラティオが言うておったわ。うちの王様にかかわると、だれでも巻きこまれて終わると」


 宰相はそう言ったが、おれの心は高鳴った。犬人のおれが猿人の地にいけるのか。

 

 岸壁にいくと、すでに手配もととのっていた。何艘もの帆かけ舟があり、近衛兵たちが分散して乗っていく。なりゆきで王や宰相とおなじ舟に、おれとノドム、それにケルバハンも乗った。


 帆かけ舟は、運河の流れを利用し中央にでて帆をひろげる。帆が風をはらむと、ゆっくりと前進をはじめた。


 冬の水上は寒いだろうと覚悟したが、舟には織毛布がすでにあり、陶器の火桶ひおけもあった。酒樽のように大きな陶器に灰と炭が入っている。そのまわりは舟のゆれに耐えるよう木枠でがっちりと固定されていた。


 この冬の手慣れた装備。アグン山との交易も年月が深くなってきたのだと、しみじみ思った。


「宰相、アグン山に住むヒックイト族は、屈強な者ぞろいと聞きます。助力が必要なのですか?」


 火桶のまわりに車座になって座っていたが、となりが宰相だったので聞いてみる。


「厳密には、いらぬじゃろう。だが、グールとの戦いでは、レヴェノア国はヒックイト族の力を借りた。今度はこちら、レヴェノア国がすぐに駆けつける。そういう姿勢を見せることは悪いことではない」


 なるほど、外交的な意味あいがあるのか。しかし舟の舳先へさきにいるアトボロス王は、真剣な顔でさきを見つめている。


「王よ!」


 ボンフェラート宰相が呼んだ。


「気をもまれても、舟の速さはあがらぬ。いまは火のそばで休まれるがよかろう」


 王がうなずき、火桶をかこむ輪に入る。その王の行動を、近衛兵にいる猿人たちが盗み見ているのがわかった。


 われらが王に裏はないか。ボンフェラート宰相の言葉を思いだした。しかしだからこそ、人の心をゆさぶるのだろう。


 やはり城だ。本人は望まれぬかもしれないが、堂々たる城に住むアトボロス王を見てみたい。それには採石場の整備と拡張だ。


 おれは石掘りの仕事からぬけだし、ほっとしていたはずだった。それなのに、またラウリオン鉱山が気になっている自分に笑えた。

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