第160話 猪鍋
テレネという女の住まいは、そぼくで小さな家だった。
一階建てで部屋も四つほど。だが壁は、人の頭ほどの大きさをした四角い石を組みあげたもの。十軒ほどしかいない小さな村の家にしては、立派な家だった。
この家は、何代もまえの祖先が建てたものだという。年老いた両親との三人暮らしと聞き、さきほど女手ひとつで畑仕事をしていたのが納得できた。
おれたちは、その母屋ではなく納屋のほうを借りることにした。テレネは母屋をつかうようにすすめたが、ボンフェラート宰相がそれを断った。おれも、そのほうがよいと思う。
「さすがに年ごろの女の家は、気が引けます」
三人で納屋のなかに荷物を置きながら、宰相に言った。
「それもあるがの。グラヌスが好いておるのでな」
「総隊長がですか!」
どのような経緯でと聞きたかったが、その本人であるテレネが夕飯の
母屋と納屋のまえにある庭でたき火を作り、そこに大きな鍋を煮ていた。あの退治した
たき火のまわりには、
「テレネよ、父母ぎみはどうした?」
宰相の言葉に犬人の女は笑顔で答えた。
「宰相様が、わたしをたずねてきたというので、自分たちは邪魔だろうと」
「気を遣わなくともよいものを。わしも、ついこのあいだまでアグン山に住んでおったような身じゃ」
テレネという女は言葉ではなく、ほほえみで返した。まあ、遠慮するだろう。ただの老いた猿人ではない。一国の宰相がきたのだ。
「まったく。これがアトボロス王なら、近隣の者まで、わんさと寄ってくるであろうに」
宰相はそう
「あのかたは、特殊ですわ」
女はそう言い、鍋から大きな木椀に汁と具をよそった。まずは宰相に。そして次に、おれへとだされた。
木椀のなかを見る。骨のついた猪肉、それにいくつかの根野菜や豆が入っていた。
息を吹きかけ、汁をすする。
「これはうまい!」
色のない汁は、見た目に反して味は濃厚だった。猪肉の脂がよくでていて、それに対抗するかのように塩気は強い。いくつかの香草も入っているようだった。
木のさじで猪肉をすくう。骨を持ち、かぶりついた。噛みごたえはあるが、けっして固くはない。
「おほめいただき恐縮ですわ。おかわりしてくださいね。いくらでもありますので」
女が笑う。グラヌス総隊長が
「われらが王は、それほど特殊かの」
ボンフェラート宰相は木椀に口をつけず、下に置いていた。すこし冷ますようだ。
「それはもう、なにからなにまで」
女はノドムに木椀をわたしたあと、自分の分もすくった。そして宰相の近くに座る。
「ほう、例えば」
「そうですねえ」
女はすこし上をむいて考えた。
「まっすぐであること」
宰相にむかって女は答えたのに、思わずおれもうなずいた。そうなのだ。人として、または男として、アトボロス王ほど純真な者を見たことがない。
「宰相の教えがよいのですか?」
「なんじゃ、モルアム、王の生い立ちを知らぬのか?」
「ラボスという北部の村で育った、それぐらいしか」
「わたしも、それぐらいですわ」
おれの言葉にテレネも同意した。大男の犬人ノドムもうなずいている。
「みな、同じか! レヴェノアの兵士たちは、とうに知っておるぞ。秘密でもない」
宰相が話しだした王の生い立ちに、うまい猪の汁を食う手も止めて聞き入った。そして納得した。十五まで村からでていないのだと。
「人の世に
「しかしモルアム、犬人の村でたったひとりの人間ぞ。性根が曲がっても、おかしくはない」
そうか、白い目で見られるか。そして、王は純真ではあるが、芯の太さも感じる。それはひとりだけ人間という幼少期が、心を強くしたのかもしれない。
「なにひとつ、恵まれてはいない、ということですわね」
テレネの言葉に、宰相は首をふった。
「本人は、そう思うてはおらん」
宰相の言葉に女と目があった。おなじように意味がわからないといった顔だ。
「もとが捨てられた子じゃからの。ひろってくれた父母、そして育ててくれた村へ、感謝の念は強い」
そうなるのか。なんとも複雑に感じる。おれが深く息をつくと、ノドムやテレネも似たような顔で聞いていた。
「わしは宰相という立場ゆえ、王と話す機会がもっとも多い。話せば話すほど、どちらが学んでおるのか、わからなくなる。そんな少年じゃ」
宰相はそう言って、すこし遠くをながめた。
「汁が冷めてしまう。食べながら話そうかの」
そう言われて、おれもまた肉をすくってかぶりついた。あっという間に一杯目はなくなり、二杯目をついでもらう。
「宰相、それでその、陛下がラボスから、このレヴェノアへくるまでは?」
「話すと長いぞ。簡単に言うとな・・・・・・」
宰相はそう言って語り始めたが、とても簡単な話ではなかった。そして
ラボス村がグールに襲われ、助けを求めてコリンディア、バラールの都、そしてアグン山か。
このあたりまでで、わが国の重臣と呼ばれる者たちと出会っている。いまの役職で言えば、犬人のグラヌス総隊長、猿人のラティオ軍師とボンフェラート宰相、そして鳥人のヒューデール軍参謀。
いや、もっとか。コリンディアの街では、当時に歩兵副長だったイーリクとドーリクのふたり。アグン山ではブラオ、イブラオの兄弟。
しかし村は救えず、そのあとハドス守備隊長のいたペレイアの街、そしてザンパール平原の戦争を止めるか。
「わたしは、この二年、林檎を育てていただけ。王とは、あまりにちがう年月ですわ」
テレネはそう感心したが、それを言えば、おれは糞だめのようなものだ。アッシリアに内通し、小さな金を集めていた。
「宰相」
ふいに声をあげたのは、ノドムだ。
「すこし疲れました。さきに休んでよろしいので?」
宰相はうなずき、ノドムは納屋に入っていった。
「あいつ、あの巨漢で、一杯?」
数えていたわけではなないが、おそらく一杯しか食べていない。おれは四杯目をもらってもよいのか、思いあぐねているところなのに。
「ノドムは、アトボロス王の話と、おのれを重ねてしもうたかの」
宰相がつぶやいた。その意味を考えてみる。そうか、アトボロス王のいたラボス村。そしてノドムがいたラウリオン鉱山。どちらもグールに
「しかし宰相、王はここまで、グールと戦いつづけております。それにくらべ、大のおとなが・・・・・・」
おれの言葉に宰相は首をふって止めた。
「恐怖は、だれの心にでも生まれる。それは風邪をひくようなもので、臆病さとはちがう」
宰相の言葉を考えた。ならば恐怖とは、腕力や性格とは関係ないというのか。ただの運だと。
「ただし、やっかいなのは、いちど生まれた恐怖というのは、心の内で大きくなる。これも本人の意思とは関係なくじゃ」
そうか。あいつは今日、グールではなく猪にもおびえを見せた。
「精霊の癒やしが、心の傷にも効けばよいが、そうもゆかぬしのう」
宰相はそう言って長いひげをなでた。なるほど。苛烈な老人と思ったが、みなから「
「ノドム・・・・・・まさか、ラウリオンの
ふいにテレネが声をあげた。
「ほう、知っておったか」
「ええ。林檎は、あちらこちらに売りにいきますので」
農家の娘、テレネが教えてくれたのは、かつてノドムが呼ばれていた名であった。ひとりで盗賊を撃退したこともある
そんな男が、ああなるのか。宰相の言うとおり、恐怖とは風邪をひくようなものなのか。
「やはり、テレネは、あちらこちらに顔が利きそうじゃの」
話は別の道にすすむようだった。宰相が腰袋から、ひとつの
「わたしの名が書かれてます。『
テレネは目をまるくし、動きを止めた。
「レヴェノアに帰属した村々をまわり、ようすを見て欲しいのじゃ」
「わたし、ひとりで?」
「いや、各農村から希望者をつのる」
「アッシリア時代にあった民兵のようなものですか?」
「そのとおりじゃ。軍の一部が巡回できればよいのだが・・・・・・」
宰相が顔をしかめ、テレネもうなずいた。
「いまは無理でございましょうね」
それほどなのかと、テレネに聞いてみる。
「わたしも、いま王都レヴェノアには林檎を売りにいきませんの。ちょっと人が多すぎて無理ね」
それほどか。見てみたいが、入れないのが悔やまれる。すべては、おのれの犯したあやまちのせいだ。
「テレネよ、兵士とおなじように、王都から
「宰相様、わたしに兄弟でもおれば別ですが、ただでさえ手が足りぬのに」
「そこじゃがの、巡兵士で協力してやってみてはどうかと思う」
「なるほど、それぞれの田畑を共同作業で」
ほほに手をそえてテレネが考えにふけった。
「それに、もうひとつ、たのみがある」
「宰相様、たのみが多いですこと」
「じじいは欲深いでな」
ひとつ目が決まらぬうちに宰相が重ねたのは、この村で猿人を引き受けてはくれないかという話だった。
「猿人を!」
「左様。よそからレヴェノアの国へ移り住もうとする者は多いが、なかには農業を希望する者もおる」
宰相の話を聞き、おれはテレネの家をふり返った。石造りの家は代々伝わった家。つまり古くからある村だ。新参者を受けるには、むずかしいように思えた。
「王都だけが人種の壁を越えたのでは、なんの未来もない。レヴェノアの国そのものが、人種という
おれは心の内でうなった。この老猿人が、なぜ宰相なのかという意味がわかった気がする。
グールとの戦争を終え、その傷も癒えぬうち。この老人は、どこまでさきを見とおしているのか。
「よくもまあ・・・・・・」
おれが思わず漏らした声に、ふたりがふり返った。
「なんじゃ、モルアム」
「いえ、よくもまあ、その鋭い爪をかくしていたものだと」
「別に、かくしてはおらん」
「おれがレヴェノアにいたころは、みなを引き立てるかただとばかり」
「あそこは、人材がそろうておる。でしゃばる必要もないわ」
そう言って宰相は、ふっと星が見え始めた夜空を見つめた。
「若いころ、理想に燃えすぎ、王から追放されたこともあるしの」
ボンフェラート宰相は、いくつもの国をわたり歩いてきたとは聞いている。その才覚に触れたいまでは、ありそうなことに思えた。
「では、いまは、ほどよく温めていると」
「いや、いちばん燃えとるかもの」
思わず笑えた。それも、よくわかる話だ。
「断れない話の仕方をしますわね、宰相様は」
「そんなことはないぞ、テレネよ」
テレネは首をふって笑った。
「わたしの一存では決めかねることばかりですが、努力してみます」
「たのむ。巡兵士についてくわしくは、グラヌス総隊長に聞いてくれ」
「グ、グラヌス様に。か、かしこまりました」
話が一段落し、宰相は満足そうに猪の汁を食べはじめた。
なるほど、たしかに宰相は欲深い。農民による巡兵士の結成、猿人の受け入れ、それに人の色恋まで助力するつもりのようだ。
猪の汁は、それからさらに二杯食べた。大きめの木椀だったのに欲ばりすぎだ。食べすぎた腹をかかえ納屋に帰る。寝台のかわりに敷いた藁の上に寝ころがるが、目はさえていて眠れそうもない。
国として人種の垣根をなくす、そう宰相は言った。そのとおりだ。あらたな国を造るのだ。アッシリアとおなじなら意味はない。
おれは自分の背負い袋から、何枚かの紙を
雑記帳を見つめる。おれの
「モルアム、それはなにかの?」
おなじ納屋で藁の上に寝そべる宰相が聞いてきた。
「なに、坑道長へのうらみつらみを書いたものですよ」
「あの男は、もうおらぬ。心配せんでよかろう」
おれは答えず、雑記帳を袋にしまった。それ以上、宰相もなにも言ってこない。
からだに藁のむしろをかける。おれは林檎の樹になった気分で目をとじた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます